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古代史から見て旅行したい場所

2017-12-18 14:09:12 | 旅行
関裕二『天皇諡号が語る 古代史の真相』を読んで、最も印象的で、今後、旅行したい場所が見つかった。

1 和歌山の籠山神社

神武東征は最初、難波に上陸してヤマト入りを計画したが、土着のナガスネヒコの抵抗で、退散する。神武の長兄のイツセが深い傷を負って、「われはは日神の御子だから、日に向かって戦えない。ぐるりと回って、日を背負いながら戦おう」と言う。紀伊半島を南下するが、竈山の地で埋葬される。(和歌山の竈山神社)。

2 阿射加(あざか)神社(三重の松阪市)と、椿大神社(三重の鈴鹿市)

  伊勢で亡くなったサルタヒコを祀るのが、阿射加(あざか)神社(三重の松阪市)と、椿大神社(三重の鈴鹿市)である。現在、外宮から内宮に向かう途中に、猿田彦神社がある。

3敦賀の気比神宮
神功皇后には「オキナガタラシヒメ」という和風諡号がある。「気長」や「息長」は近江国坂田郡(滋賀県米原市)に地名に由来する。「息が長い」という表現は、「ふいごから送った風」を連想させるから、「オキナガ」は製鉄と関わりがある名前ではないか。
 息長氏は、琵琶湖周辺だけでなく、福井の敦賀の気比神宮とも関わりがある。朝鮮から渡って来た「アメノヒボコ」という謎の人物の関係を指摘する説もある。だから、息長氏は、朝鮮半島からの末裔ではないか。

4 大阪の住吉大社
 住吉大社が今日まで住吉大神=オオタラシヒコと神功皇后=オオタラシヒメが祀られていることに大きな意味がある。
 タラシヒコの正体はアメノヒボコであろう。つまり神功皇后はアメノヒボコの遠い末裔ではなく、妻である。比売碁曽社に祀られているアカルヒメは神功皇后である。 『住吉大社神代記』で、住吉大社のことを「祟る神」と言ったのは、神功皇后である。

5出雲の四隅突出型墳丘墓
出雲の四隅突出型墳丘墓には、吉備からの特殊器台形土器が用いられている。短い時期だったが、同盟関係があった。ヤマト建国直前の出雲と吉備が同時に勃興したのだろう。しかし、ヤマト建国後の出雲と吉備の運命は、大きく別れる。出雲は没落し、吉備は発展した。

6 造山古墳(岡山市北区)
吉備は5世紀半ばにかけて、ヤマト王家と肩を並べるほど発展する。墳丘長350メートルの造山古墳(岡山市北区)は、全国代位四位の巨大古墳だ。
7名古屋の熱田神宮
天武天皇は、最晩年に大病を患うが、その原因を占うと、「草薙剣の祟り」であるとわかった。それで、草薙剣を熱田に送り、祀ることにした。

8 奈良桜井の纏向遺跡
 纏向遺跡ができた頃の「ヤマト王権の成立」の中心にも、尾張がいた。吉備、出雲、丹波(タニハ)、近江の勢力に「東国」の勢力が結びついて成立したのが、三世紀のヤマト王権だった。

9 飛鳥の南淵
 日本書紀には旱に悩まされた箇所がある。蘇我蝦夷がみずから香を焚いて発願したり、いろいろやったが、せいぜい小雨が降る程度だった。しかし、皇極天皇が飛鳥の南淵の河上にひざまずいて、四方を拝むと、雷がなり、大雨が降り出した。田畑は甦り、百姓たちは皇極天皇を「至徳(いきおい)まします天皇」と称えたという。

10 奈良天理の石上神宮
天理市の石上神宮は、物部氏を奉祭しているが、物部氏の祖のウシマジの時代にさかのぼる。日本書紀で神宮と称しているのは、出雲大神宮、伊勢神宮と石上神宮だけで、いかに重要視されているかが分かる。
 石上神宮の楼門を出ると、割拝殿になっている。割拝殿は建物中央を人がくぐれない。鎌倉後期の神社建築の代表作となる。
 石上神宮の祭神も「出雲神」だという。

11 畝傍駅近くの宗我都比古(そがつひこ)神社と入鹿神社
奈良の畝傍駅と金橋駅の間に曾我町がある。、曾我氏の故地の一つと考えられ、町内には宗我都比古(そがつひこ)神社が現存している。隣の、小綱町には、蘇我入鹿を祀る入鹿神社もある。曾我町と雲俤町にはさまれるようにして、忌部(いんべ)町がある。ここは、忌部氏の本拠地とされる。蘇我氏と忌部氏の浅からぬ関係があるようだ。

以上、11か所に興味がひかれた。関氏の本は実際行くことで、面白みも増すだろう。

 そして、大胆な仮説として、蘇我入鹿と聖徳太子は同一人物で、天武天皇は蘇我入鹿(師聖徳太子)の子である、という。今後、古代史に惹かれそうだ。