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いらない物は捨てるべきか?

2019-09-23 18:10:03 | エセー

冷蔵庫が開いていると、自動的に「とびらが開いています」とうなる。

 

風呂が沸くと「お風呂が沸きました」と。そのたびに、うるさく思わないだろうか。

 下重暁子著 『持たない暮らし』

1 無駄な音をもっと、少なくできないのか?

 

それらに慣れると、もともと持っていた感覚を失う。機械に頼る。

 

風呂は何分で湧くか、御飯は何分で炊けるかなどの普段持っていた感覚が鈍る。これらに頼るから、ボケてくるのではないか。

 

ヨーロッパ人はそれを知っている。頑固に守る。

古き良きものを大事にすることは、人間の感性を豊にするはずだが。

 

僕は、これら便利な利器を使わないではいられない。改良してほしい。声を出さない炊飯器や冷蔵庫が欲しい。

 

 2 多く友達はいらない?

 

 

「ものを書く職業だが、自分の肉体を使う。できるだけ、手書きで字を覚える。意味を知るにも辞書を引く。図書館へ行って調べる。一見、無駄と思えるものが、「考える」余裕を与えてくれる。

 

 人と人とのかかわり合いも、出来る限り、面と向かって話をする。表情で細かな感情がわかる。

 

 広く浅くつき合ってもどういうことがあろうか。

友達は一人でいい。深く理解し合うことができれば。

 

 広く浅くから狭く深く、効率的な便利さから、自分のこだわる美意識へ。」と。

 

手書きで書くと頭に残る確率が高まる。しかし、パソコンで打っても、何も書かないよりましだと、思う。

 

今、しているフェイスブックは相手の顔がわからない。だから、どこまで、真の友達になれるか謎だと思いながらしている。

 

 

 

3 身の周りは余計な物ばかりで時間を奪われる?

 

 

 「本当に美しいものはさりげない。

いらない物を取り払った空間、茶室は、千利休の哲学のこもった空間。たった四畳か三畳の部屋に、武士も町人も刀を取り払い、同等になって、一服の茶を楽しむ。日本の美学だ。

 

 豪華なもの、便利で効率的なものばかり追う日本人。本物の美しさを見る目を失ったのではないか。

 

 予定や物や、眼に見えるものがたくさんあればるほど、人間は縛られる。物がなければとらわれない。この上なく自由だ。富や贅沢や欲望から自由になれれば、本当の贅沢を知る。

 

贅沢とシンプルとは、相反するようだが、実は、シンプル生活こそ、心の贅沢があると思う」と。

 

 

 

 

 

 

 山登りをすると、小鳥の声、梢を行き過ぎる風の音。土中から目覚める植物のざわめきなど聞こえる。

 

 人間も自然の一員と思い知らされる。

その声があっても、聞こえないのが現実ではないか。

 

散歩をしても、健康のために速歩きとか、イヤホンを聞きながらとか。余計な知識に振り回されていないか。その意識があると、自然の声から遠ざかる。

 

予定表を書くのは仕事や勉強のため。しかし、毎日、これをすると、心が自由にならない。何かに縛れる。精神的貴族になれない。

 

 

4 ちょっといい物は買わない?

 

 

白洲正子さんが言うには

「ちょっといいもはよくない、

 ちょっといいわねえ、と言って、買わない事」と。

 

 骨董では見る目が試される。目がなければ、偽物を高く買うことに。目をつくるには、本当にいいいもを日頃からたくさん見る事だろう。

 

 美術館めぐりも大切だし、ウインドウショッピングも役に立つと思う。普段からその気になって物を見る。衝動買いをしたくなる時、役立つ。

 

 

5 自分が持っている物をわすれるなら、大したことのない物?

 

 

 「年寄りは物を捨てられないのは、自分が持っていることを忘れてしまったので、みなとっておくことに。

 

 忘れている物は、自分のなかで必要がなかったわけだから、記憶の彼方に追いやられている。

 

 ボケても、大切なものは憶えているという説もある。

 

 いらないものは捨てた方がいい。いるいらないは判断は、記憶を頼りにする」と。

 

僕は、読書でも言えるのではないかと思う。

 

読んで忘れる本は自分に大した本ではないと。大切なら読後、何か残っているはずだ。

 

 

6 欧米では恥ずかしい事が日本で起こる?

 

著者のアメリカの友人が、日本では考えられないものがはやるという。

 

 「一つ目がブランド品、二つ目がバレンタインデーのチョコレート。三つ目が紙袋。

 

 一つ目のブランド品は、有名ブランド品を買い漁り、みんな同じものを着て、同じバッグを持つ。

 

 人と同じ物を身に着けるのは、その人に個性がないことで恥ずべきことだが、日本では、人に遅れる、人と同じでないことが恥ずかしいという感覚がある。

自分がないから人が気になる。同じことをしていないと不安になる。

欧米では自分で考えたり、選んだりできない人は認められない」と。

 

同感である。休日に食べ歩きと言って、一つの店に行列を作りだす。時間の無駄も考えずに。

テレビの言う事を世論と勘違いしているのではないか。

 

 

 二番名は、バレンタインチョコ。聖バレンタインに由来する日を日本人はチョコレートの日に変身させた。

 

 聖バレンタインの事を何も知らず、チョコレートだけが行き交う。

 

 

 なぜ日本人とチョコレートなのか。戦争直後にさかのぶるのが著者の説。

 

 「敗戦で、物不足の日本では、食べ物に困り、子供たちは進駐軍のあとからついて行き、「ギブミー・チョコレート」と手を差し出した」と。

 

 

 

 

 三番目は紙袋。「なぜ、日本人は猫も杓子も紙袋を持って歩くのか。

 ほとんど企業や店の袋。みんな宣伝を買って歩いているようで、みっともない」とアメリカの友人がいう。

 ドレスアップして紙袋はみっともない。

 

僕は、やはり、有名ブランドを買ったぞ、と見せびらかしたいからだと思う。

 

あるいは、ゴミ袋にするためにもらうのか。

 

 

7 情報に惑わされずに、自分を作るには?

 

 

 情報が多すぎる。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、携帯、パソコンと。

 

シンプルに考え、シンプルに生きたいが、状況が許してくれないと。

 

 では情報にわずらわされない方法は?

 

「答えは一つ。自分を持つこと。いかに情報が多かろうと、選ぶのは自分だ。自分が情報を使うのであって、情報に自分が使われるのではない。

 

 人間がそこにいないから、引きずり回される。どんな場合も、毅然と自分がいれば、間違いはない。

 

 それでは、自分をどうやって作るのか。

 

 日頃から、人の話に耳を傾けるのは大事だが、決断は自分。はやっているから買うのではない。自分が欲しいから買う。友達がやっているからやるのではない。自分がやりたければやる。やりたくなければやらない。

 

 一つの方法として、人と同じことはしない。必ず違うことをする。

 友達が買った物を買わない。必ず違うものを買う。他人の意見に従うのではなく、自分の意見をもつ。

 

 万一、同感と思う場合、同感、と言った後で、その事を自分なりに解釈して、違う表現を言ってみる。主語は夫や、子供や友達でなく、自分にする。

 

 「私は・・・」とはじめれば自分の考えを言わざるを得ない。そうして、自分で決めればその結果がどうなろうと納得できる。自分で責任をとらざるを得ない。いつも人の考えに従うと、自分で決断できず、一生人のせいにする」と。

 

 

私は、・・・だ、私は・・・である、と書くと、自分の人格に自信が持てるような気がする。これらを多用してみては。

 

 

 

8 詐欺師はよくしゃべる?

 

 

著者は余分な思惑を考えず、自分に忠実にと心がける。言葉を話す前に一度頭のなかで考え、心で反芻してから口に出す。余分なことは言わない。お世辞や媚びは売らない。

 

 「電話で、こちらの都合も確かめず一時間もしゃべりまくる人がいる。

 

 一見ソフトだが、あの手この手でしつこく説明する人。詐欺師はだいたいよくしゃべる。テレビに映るその顔を見ると、なぜ騙されるのかわからないほど、胡散臭い。

 

 見る目さえ養えば、その人の話し方と言葉でだいたいの見当はつく」と。

 

 

見知らぬ人でこの人は信用を置けるか判断するには、人相に頼るしかない。

だから、面接試験なども、第一印象を採る方も方も大事にする。

 

しかし、日が過ぎて、相手と話し出すと、第一印象が薄れて、騙されることが多いのではないか。言葉はやはり魔物だ。


最後の審判はあるのか

2019-09-18 14:40:13 | 歴史

 簡潔に四代文明を説明しており、著者の師である小室直樹の文体とそっくり。
死者があの世へ行くとき、審判を日本人も受けるとはどうなのだろう?
中国人は杭州にある岳飛の廟と、彼に反逆した人の像があるという。中国人は、その反逆者に今でも唾をはく。何千年たっても、恨みは永遠に残るようだ。日本人はあっさりして、過去は過去、今は今と割り切るが。
中国や朝鮮の歴史認識も日本は悪で、一行に変わらない。恐ろしいことだ。
橋爪大三郎著  『世界は四代文明でできている』
 
1  多神教と一神教の違いとは?

 「多神教では、例えば神道では、神様と人間は、友達のようなもの。一緒に食事をし、お酒を楽しんだりする。
 神道には、いい神様、悪い神様の区別がある。
悪い神様を疫病神、貧乏神、たたり神、死に神等。
 いい、悪い、を決めるのは、人間です。人間中心主義です。神様は大事だが、人間はそれ以上に大事だと

対して、一神教では、神様は主人で、人間は僕。僕とは、家来を通り越して、奴隷のことです。

  一神教では、神はよいものだが、人間はそうではない。価値がない。価値がゼロを通り越して、マイナスだと。
 マイナスの価値をもつこと、これを、罪という。
 キリスト教の場合、人間が神に背くようにできている。それ自体を、罪だと。神に背いていなくても、背くに決まっている。これを原罪という。

  罪があるのに罰せられないことを、救いという。あるいは赦しという。
 
 2 キリスト教は何故、イムズをつけないのか?
 ユダヤ教を英語で、Judaism。これは、ユダYudeから来ている。
 ユダは人の名前。ヤコブは、別名イスラエル。アブラハムの子であるイサクの子で、12人の息子あり。それぞれがイスラエルの民・12部族の祖となるが、その一人がユダです。

 キリスト教を英語で、Christinanity。
英語では、宗教はismをつけるが、キリスト教に限ってityをつける。
 別格なのです。Ismをつけるとユダヤ教や仏教より格下で、キリスト教は格上、というニュアンスがあるようだ。
 
3 安息日は何曜日か?

 一週間は、太陽系をかたどっているので、大事な星の順番に、太陽(日曜)、月、火・・・と巡っている。最後は、土星(土曜日)。これを踏まえると、安息日は土曜日。七日目だから。
 よって、ユダヤ教徒は、土曜日を安息日として守る。
ユダヤ教の暦は、日没で日を区切ったので、金曜の日没から土曜日が始まる。金曜日の日没から土曜の日没までが、土曜日。この日は燐寸もすらない。エレベーターに乗らなかったり、自動車を動かさない。
日没から次の日になるという考え方は、クリスマス・イヴに、その痕跡あり。
 シナゴーグに集まるのは土曜日。

 なぜ、キリスト教徒は日曜日に休むのか。
教会の古い習慣だから。
キリストがゴルゴだの丘で十字架につけられたのは、金曜日の朝。午後三時ごろ亡くなった。
 開けて三日後の、日曜日、女たちが墓に来ると、入り口の石がどけられて、中はからっぽ。イエスが復活したと。
 日曜日に、イエス・キリストが復活したから、記念して、教会に集まり祈る。日曜日は主の復活の日、「主日」であると。

 イスラム教の安息日は何曜日か?
 金曜日。イスラム教徒は、金曜日に休み、金曜日にモスクで礼拝。なぜなら、クルアーンにそう、書いてあるから。

 ユダヤ教が土曜日、キリスト教が日曜日、イスラム教が金曜日。何曜日で休むかで、信仰がわかる。はっきりわかるために、安息日をずらしている。
 
4 死ぬと、あの世で裁かれるのか?

 人間は、1人ひとりばらばらに、個人として裁かれる。一神教が個人主義である理由は、この、個人単位の裁判にもつづいてる。罪状は神に背いた罪。判決は、救い(神の王国に入るか)、破滅(永遠の炎で焼かれるか)。
 

 イスラム教では、裁判で天使が書紀の役目を勤め、誰それは何月何日、こういう行動をした、と記録のメモを読み上げる。
 すべての人類が、審判を受ける。人類は残らず、Godに造られたものだから。信仰の有無にかかわらず、人間は全員、Godの支配下にある僕なので、もちろん、日本人も、全員、最後の審判で裁かれる。

  誰が救われ、誰が救われないか。Godが知っていればよく、人間にはわからない。判決のときになればわかる。
 出来ることは、人間には何もない。人間の言動は、人間のわざ。救いは神のわざ。人間に出来る事は何もない。このように考え、首を洗って待ついるのが正しい。
 

 宗教改革の後、プロテスタントの神学者ジャン・カルヴァンは、救済予定説(dedestination)を考えた。
 救済予定説とは、天地創造のはじめから、誰が救われ、誰が救われないか、神が予定していた、という。
5 カトリックの執り成しとは?
 最後の審判のときに、横から口を挟み、誰それさんを救ってくれませんか、と頼むことを、「執り成し」という。口添えのこと。
 カトリック教会は、イエス・キリストから「天国の鍵」を預かっているので、執り成しができるとしている。代々の教皇は執り成しができる。彼の任命した聖職者たちも執り成しができる。教会で罪を告白すれば、赦しを得られる。
 プロテスタントはカトリック教会の執り成しを認めていない。執り成しができるのは、イエス・キリストのみと。

 イスラム教は、執り成しの考え方はない。

6 欧米でファーストネームと日本の苗字の違いは?

 欧米の職場では、ジョンやメアリーのようにファーストネームで呼び合う。ファーストネームを思い出せない人もいる。
人間個人を指し示すのは、固有名詞であるべきだという、一神教の考えによる。
 日本はイエ制度が母体で、苗字(家族名)でお互いを識別する。日本と欧米では、人間関係の土台が違う。
 
7 ギャンブルで神に愛されているかどうかわかる?

 ジョンが生まれたのは、神の計画。世界のすべての出来事は、神の意思による。世界に偶然はない。
 ギャンブルも偶然でない。サイコロやルーレットは、人為的に結果を予測できない。人間には偶然にしか見えない。Godは、結果はわかっている。
 Godが私を愛しているかを知りたいなら、カジノへ行けばよい。
 カジノですってしまえば、Godは私を愛していないのか。いや、次の日こそ、愛されるかもしれない。神に愛されるまで、ギャンブルを続けるのがよい。

 私が儲けたとしたら、Godが儲けさせてくれたから。損をさせたのも、Godが損をさせたから
儲けたとして、その利益は正当か。
正当である。Godが与えてくれたものだから。儲かれば儲かるほど、Godが私を愛してくれていると。
 このロジックを初めて述べたのは、アダム・スミス。これを、「神の見えざる手」と呼んだ。彼はプロテスタント神学を下敷きにして、このように主張。

 市場に神のわざが働くので、人間のわざを傍からせてはならない。政教分離の主張。
 市場メカニズムが健全に働くには、所有権を尊重すべき。法律を守ること。そして、税金を払うこと。これらのルールを守る限り、どんなに儲けても、その結果は正当化される。この論理が資本主義経済。

8 日本では、左利きは幼い時に右利きにさせるが、アメリカは左利きのまま?
 ジョンの左利きを、親が直してよいか。日本人の親は、子供の左利きを直す。
世の中はみんな左利きだ。本人のためだ。本人の利益を代理して、親が介入する。アメリカでは、左利きはそのまま。神がジョンを左利きに造ったのだからと。

9 日本のトップは無能の方がいい?
 日本は、中国の律令制を採用。律令制は中国の行政官僚制。
 トップは天皇。天皇は世襲。地位を継承。
その下の官僚は、能力主義にすべきだが、世襲制になった。宮廷貴族です。
 トップはもちろん、その部下のポストも世襲なのは、武家政権も。
 なぜか。日本は、トップは有能でなかればならない、と云いう命題が成立せず。むしろ、トップは有能でなくてよいということ。
日本人は、トップリーダーや上司が有能であることを嫌う。
自分の地位が制限されるので。
日本人は、組織は自分のがんばりでもっている、と考えたい。日本人は勤勉で、モラルが高いというメリットがある。しかし、組織全体の意思決定が薄弱で、 迷走しやすい、という欠点あり。
 
10 儒教とは?

儒教の本質を表すスローガンは聖人君子。
 聖人とは、昔の政治家、王か、それに準じる人。
過去、人々の模範となる人物が優れた政治を行った。
 それを模範に、後世の人々が行動すべきであると。
 君子とは、現代の知識人。これから政治に関わろうとする若者。
 君子の反対が小人。字の読めない人。
なぜ、字を読めない人が多いのか。漢字のせい。
 常用漢字だけでも、数千。片っ端から暗記する。ほとんどの人は落ちこぼれる。
よって、漢字を読めない人が多い。
中国は、字の読める知識人と無教養の庶民、という二重構造を伝統的に前提とする。

 君子は、字が読めるようになると、すぐに古典を学ぶ。聖人がどのように政治を行ったかの記録。すなわち、経を読む。
 経を学習すると、行政文書作成できる。即戦力で政府職員に。
 聖人君子とは、経をはじめとする古典を学んだので、私を政府職員に採用してください、ということ。これが儒教の本質。

 儒教では、三回諫言しても、皇帝が言うことを聞かないなら、辞職せよと。
皇帝に対する服従は絶対ではない。条件付き。
 三回諫言すると、服従義務はない。
 儒教は、親が間違っていると思ったら、諫言せよと。三回諫言しても、親が言うことを聞かなければ、涙をはらはらと流して、親の言う通りにせよと。
 
 親に対する服従は絶対。親が間違っていても、最後は服従せよと。
皇帝に対する服従と、親に対する服従は、異なる。

11 中国共産党の権力交代は禅譲?

 毛沢東は、後継者を劉少奇ではなく、林彪に決め、失敗。次に、鄧小平ではなく、華国鋒にした。
 鄧小平は、華国鋒を追い落とした。
鄧小平は、胡耀邦、趙紫陽を後継者にし損ねて、江沢民を選んだ。江沢民は、胡錦涛を選んだ。胡錦涛は、習近平を選んだ。習近平の次は、陳敏爾(ちんびんじ)になりそうだ。
 北朝鮮の権力継承は、世襲。金日成―金正日―金正恩。系から推定すると、北朝鮮は、世襲権力を支える、抜擢人事に基く官僚機構が優秀に違いない。

12 日本人の祖先とは、自分の見た事のある人?
日本の祖先崇拝は、イエごとの仏壇が基本。祖先中心ではなく、自分中心。親や祖父母はともかく、自分が覚えていない祖先はどうでもいい。
 中国の祖先崇拝は、祖先中心。祖先を共有する子孫が集まって、宗族を作る。廟を建て、祖先の位牌を集めて、お祀り。定期的に集まって祖先崇拝の祭りを。

13 日本の会議は空気で決まる?

 日本の会議は、全員賛成すると、それが正しいとなる。反対がないから正しいと。これを
「赤信号、みんなで渡れば恐くない」の法則という。

 
 学校を出て企業に勤めた人々は、成文化されていない不可視のルールに縛られているのを発見。それが、空気の支配。

 日本の会議で反対意見を誰かが言うと、会議を通過できず。反対を述べそうな役職者や部署へ、事前に説明に。これを根回しという。
 会議には、会議を準備する会議が下属。この準備会議で議題を決める。準備会議が、実質的な意思決定の役割をなす。

 日本の組織の意思決定の特徴は、
(1) 意思決定を行う会議の場で、実質的な議論なし。
(2) 誰が意志決定をしたのか不明。
(3) その意思決定をした理由も不明。
 こうして、日本は英米と戦争もした。これは、過去だけでなく、今も。

男と夏を感じる椎名誠

2019-09-05 14:55:38 | エセー

昔、テレビのコマーシャルで、椎名誠さんが砂浜でビールを飲んでいる場面が何ともおいしそうで、夏を感じた。

 

椎名さんは、町中で見知らぬ人と喧嘩をよくしたそうだ。

街中で、鉄拳勝負のヨロコビと悲しみが

、青春時代からサラリーマン時代にかけて六勝十一敗二十引き分けという。

 

そんな中、新宿の紀伊国屋で、椎名さんが立ち読みして本をラックに返そうとすると、横の若者が椎名さんの横に体を寄せて、返すことを邪魔した。

 

 その結果、椎名さんは若者を二度ぶっつづけに殴った。若者は鼻血を出し、倒れたという。

 それは、「まずい」ということで、椎名さんは紀伊国屋をとっとと、後にした話は印象に残った。

 

 

 

 椎名誠著  『フグと低気圧』

 

 

 

1 蚊が噛まれたくなかったら、ピンク色の物を身に着けよ。

 

 

  「昼間にとまっている蚊にむかって人間が、「ハアーッ」と息を吹きつけると蚊はたいへんにコーフンするらしい。それからまた蚊の視覚はある種の色に反応するらしく、青とダイダイ色を見るとやはりコーフンするというのは人間にもけっこう沢山いるようなきがするが、蚊は人間と違ってピンク色が嫌い、という実験データもある」と。

 

夜中に、僕はよく蚊に噛まれるが、扇風機を回していると何とか防げる。

 しかし、蚊に色がわかるとは。

 

 

 

2 猫に「立ち入り禁止」がわかるのか?

 

 「小平市の公園の入り口に行ったら笑ってしまった。看板が立っていて「犬猫立入禁止」とデカ文字で書いてあった。私の息子がこれを見て「ネコに字が読めるかよ」と言った。犬はまあヒトがクサリにつないで散歩させているからわかるとしても猫にまで「いかんいかん!」とわめいている小平市のコッパ役人たちの頭を笑ってくれい」と。

 

猫にクサリをつけて、歩けると、面白いが、将来、ロボットにクサリをつけて散歩する時代が来るように思うが。

 

 

 

3 今は、コメを嫌う人が多いが。

 

 

「日本の男の真の食いものはドンブリである。ドンブリこそ男の人生なのである、という想いを一にしている人がわたくしのまわりの結構いる」と。

特に、作者は鉄火丼も好きだが、カツオをのせた銀火丼(初めて知った)が大好きのようだ。

 

 

 4 ナマコの逃げるの見てみたい。

 

 

「日本酒の肴で好きなものをたて続けにあげろ、と言われたらウニ、ホヤ、ナマコと答える。共通点をあげれば、この三者はいずれもその生前のお姿が人間中心とした生物相観からするとたいへんに醜い、という共通項がある。

 

 ナマコというのは本当にヘンなやつで、ナマコを襲う外敵に対して、やつは肛門から自分の内臓を放出し、敵がそれを食っている間に逃げるのだ。どうやっても逃げるのかと思ったら、彼には体の下にちゃんと移動用の触手がある。すると普段ごろんとしているのはやはり「めんどくさいかんね」という怠惰のこころ以外はない。もの凄いことにやつはこの内臓を放出だけでは間に合わないとき、神経環まで放出してヌケがらだけになって逃げるのである。まったくどういう神経をしているのだろうかと思う」と。

 

 

ナマコを食べる時は、このことを想像してみたい。

 

 

 

5 海のカニと川のカニでは大違い?

 

 

「底引き網はビニールの袋、ウイスキーの瓶、大量のドロ・・・。要するに、海底のドブさらい、といったようなかんじなのである。

 

 あのうまいけれど高い、というので有名な越前ガニであるからもっと上品にかつ美しく獲られいるのではあるまいか、と思っていたのだがカニとはいえどそんななまやさしい獲りかたなどしていないのであった。

 カニ獲り人たちはホースの水でドロを洗い流し、ゴミを捨て、引っかかってきた魚やエビをよりわけ、最後の残ったカニを拾い上げるのである。

 

 

 カニというのは陸に上げられると反省と怒りと好奇心で熱心にあっちこっち動き回て始末に困るものではあるまいか、と思っていたのだが、その実態はただもうみんなヤル気なくドタンと横たわったままでいるのだ。

 

 いまなんの気なしに川蟹の蟹の漢字にしてしまったが、海ガニはカタカナのカニがふさわしく、川蟹はあくまでも漢字であらわした方がそれらしのではあるまいか、とこれはまことに極私的にそう思っているのである。

 

 川蟹は実にすばしっこいやつで、ザルから鍋に入れようとすると全身もがきで暴れ回るわハサミをふり回すわの大抵抗で、鍋の中に放り込んでも素早く蓋をしないとたちまち飛び出してきてしうのだった。やっぱり川に住む蟹は一Gの気圧の下の生き物なのである」と。

 

食べている海カニがドロと一緒だとは。他にも海でとれる物もよく似ているのだろうか。

 

 

6 普段、何気なく聞く店員の声に耳を傾けるのも面白い?

 

 

「浅草駅間の近くに「むつみ屋」というケッとばし専門の一杯吞み屋があった。馬刺しとさくら鍋が売り物で、夕方になるとあの界隈の勤め人でいつもにぎわっている。

 

 店には二人のあんちゃんがいて、実に威勢がよかった。とくに客からの注文を厨房に伝えるときの声が素晴らしかった。

 店の中は相当に騒々しい。その騒々しい声の上をキュンと突き抜いて、この二人のあんちゃんの声が、厨房まで走るのでだ」と」と。

 

 マクド等で、本を読んでいると、横の会話が耳に飛び込んでくる。その時も「うるさい」ではなくて、まわりが相当、客がいればいるほど、どんな声が美しいか、詮索するのも一興かも。

 

 

 

7 男は四十歳でハゲるかどうか決まる?

 

 

「四十歳を通過して何となく安心していることがある。「ハゲなかった」ということなのだ。男のハゲというのは四十歳がひとつの歯止めラインではないか、と思うのである。すなわち、四十までハゲの傾向がなければなんとかよっていける・・・」と。

 

そうだと、うれしいが。

 

 

8 鯛の船盛りは芸術作品か?

 

「鯛の姿づくりが出てきた。船盛りというやつである。ぼくは昔から海べりの宿に泊まってこの船盛りを前に酒を飲むときというのに人生のシアワセの貴重な瞬間を感じている。

 

 鯛をメインにハマチ、イカ、サザエ、アジ、イセエビなどが鯛の横たわったまわりにかしずいている。本日の脇役陣というかんじである。

脇役の中にいつでも鯛にかわって主役の座に寝ころがれる実力者イセエビがいて、なかなか迫力がある。ハマチやアジやサザエというのは船盛りの主役というのをハナからあきらめているからイセエビほどの迫力はないが、逆にわたしら生涯脇役ですから・・・というさばけた気配があってなかなかいいかんじである」と。

 

 

 

 9 政治家は怪しさ?

 

 「まず「先生」と呼ばれる人々というのは例外なくあやしい。いしばん悪質的にあやしいのが政治家、代議士の先生たちだ。

 「わたしは正しい。わたしの眼を見てごらんなさい」

と胴間声はりあげている政治家の眼を見ると例外なくにごっている。 そういう人がにごったおのれの目を指さし、「これが嘘をついている目ですか」などと堂々と言ったりするのだ。本当に正しい人はそんなことを言わない」と。

 

僕も、街頭演説でこの言葉を聞いたことがある。

選挙になると、何の断わりもなく、演説カーで街中に響き渡る声を聞くと、腹立たしくなる。本が読めない。

 果たして、何人の人があの怒鳴り声を真剣に聞いているのか。

 

 自己中の見本に見えるが。