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瀬戸内寂聴著 『白い道』

2018-12-17 18:09:34 | 歴史

僕は、歴史を尋ねる旅行の話が好きだ。司馬遼太郎を最大の師と思っている。そして、瀬戸内寂聴の本を読んで、また、別の観点から面白いと思う。

 歴史や文学の本を読んでも、何も世間的に出世できない。しかし、何気ない言葉が心に残る。心に残る言葉を多く集めるのが趣味だ。

瀬戸内寂聴さんが、かなり高齢で若々しいのは旅行が好きなのと肉好きだからだろう。

京都、奈良を散歩したり、旅行する時に読んで行くと、面白さが倍になる。

 

西行の待賢門院璋子への愛。崇徳院の怨霊の話など。

 

 瀬戸内寂聴  『白い道』

 

 

 1 京都の法金剛院あたりの観光ポイント

 

「今は水が涸れているので、岩の間から青いしだが覗いている妙にエロチックだ。大体、滝というのは、どこの滝でも、不思議にエロチックなのは、生命の根源を現わそうとしているからだろうか」と。

 

「待賢門院の御霊「花園西陵」では、遺言により火葬にせず、法金剛院の裏山に埋めるように言われたので、五位山に遺体をそのまま埋められたという」と。

 

 「白河法皇の愛は異常なまでに激しく偏執的であった。待賢門院璋子は法金剛院の画像を見ても人並以上に美しい。若くて、待賢門院のライバルとなった美福門院の肖像画を見たが、この方はそら豆のようにしゃくれていて美しいとは思わなかった。

 

 好むと好まざるにかかわらず、人並みで数寄な運命をたどり、並みの人の何倍かの質量の濃い濃密な生涯を送られた美しい女院が、その憂愁の晩年をここに籠り、朝に夕に、この豊かなみ仏の前に額ずき、礼拝したであろうと想像すると、ほのかな紅の残るみ仏の唇のあたりから、ふと、もれそうな気配がしてくる。

 西御堂が落慶した大治5年、本尊としてつくられた。院覚の作という」と。

 

法金剛院では、滝の音を落ち着いて聞き、本堂の御仏をじっくり眺めるとよい。

待賢門院璋子の画像もあり、当時の美人とはどういうものかがわかる。

 

仁和寺も?

 

「崇徳院が讃岐へ流される前に仁和寺に滞在する。西行はそれを聞いて仁和寺にも赴くが崇徳院は讃岐へ渡った後だった。

その悲しみを歌った

 

かかる世に影もかはらず澄む月を

見るもわが身さへ恨めしき」と。

 

どうやら仁和寺は崇徳院にとっては恨みを蓄える場所であっとのではないか。

それを可哀そうに思う西行。それを感じながら仁和寺へ行ってみては。

 

 

2 嵐山ではどこか

法輪寺にて

ここでは、平安時代に、遊女がこの寺の前で居た。そして、桜の咲く季節に行くと、多宝塔が桜とよく調和しており、絶好の観光場所だという。

 

 「嵐山の中腹にも桜がほの白く雲のようにたなびき、法輪寺の多宝塔が桜の雲の中に蜃気楼のように聳えているのが見渡される」と

 

「玉城氏によると、法輪寺の近所に「遊行女婦」(うかれめ)のたぐいが居たという説は面白い。寺と色町はつきもので、栄えある寺の近くには必ず色町が開けていた。

 

  また玉城氏の説では法輪寺が求聞持法の修行道場だということを教えられた。求聞持法を修し終わると、記憶力が超人的になるという行法で、大変な荒行である。空海の天才的な記憶力は求聞持法の利益だと伝えられている」と。

 

空海は記憶力に優れていたのは有名だが、仏への特別な接し方で養われるのだろうか。

 

3 西行とは?

 「西行の出家当時の信仰も、何々宗を信じるという形よりも、とにもかくにも出家したいという思いの方が切実で、宗派はむしろ、何でもよかったのではないか」と。

 

 「西行が出家後、嵯峨に庵を結び、その後も度々住んだことも、嵯峨の入り口に待賢門院が晩年を送られた法金剛院があるせいだろう」と。

 

西行の待賢門院璋子への恋は相当なものだっただろう。

 

 

歌を作ることが仏像を作ることと同じ?

 

「西行は、歌を一首詠む度に、仏像を一体造ったと思い、歌を一句思い続けている時は、秘密の真言を称えているような気持ちがしています。歌を作ることで、仏の教えをいただいているような気がします」と。

 

 もともと和歌は我が国では神への捧げもの、法楽として作ったのが起源だった。

 

歌作りは芸術だ。美的感覚を養うには日本の和歌や俳句を何度も口ずさみながら、暗唱してしまえば、何となく、仏像を自分のものにした、という感じになるのではないか。

 

4 昔の人にとって吉野とは?

 

「吉野の桜は万葉集には歌われていないところを見ると、当時の吉野は霊山として崇められ、みだりに入峯出来ない仰ぎ見る山だったのかもしれない。

 

 大海人皇子、源義経、大塔宮護良親王、後醍醐天皇等吉野へ逃れ籠った人々は、吉野山という天然の要害と神力の加護に頼ったのである。大海人皇子を除いて、誰も悲運な生涯を遂げている」と。

 

これを読むまでは、吉野は万葉集に取られていると思い込んでいた。吉野の桜が有名になったのは、平安時代からなのか。

奈良時代までは、どうやら、桜よりも梅を愛でていたようだ。

 

吉野山の神は頼って来たものに冷たい。

 

5 熊野詣は長生きが目的?

 

「熊野詣をする理由は、長生きが目的ですよ。熊野は昔から黄泉の国と信じられた。もがりの大地です。そこへ詣って帰ってくるのは、一度死の国へゆき、生き返ってくるという意味です。生きながら死の国を訪れ、よみがえる。それを生きている間じゅう繰り返せば、常に生命が新鮮だと信じたんでしょうね。長生きの保証が熊野詣でほしかったんです。

 

 皇族たちの熊野詣が、遊山気分より、きびしい修行の様相を帯びていたのは、参拝の時期がほとんど晩秋から厳冬へかけて選ばれたからである」

 

平安時代の人は、苦行して熊野に参ると長生きできると思っていたようだ。

 

女院璋子も熊野を詣でる。夫の鳥羽上皇に別の女ができ、嫉妬心からであった。

その熊野詣に西行も璋子への恋から一緒に行ったのかも知れないと、作者は空想する。

 

「山伏姿の傷心の待賢門院璋子の輿の上のやつれた横顔、そして西行のたくましい眉をあげた熱いまなざし・・・車で三

 

はかかる中辺路の道は、歴史と伝説が入り混じり、それを語り伝えようとした人々の熱い想いがただよっている」と。

 

6 瀬戸内寂聴の名言

 

「自分で発心する出家というものは、明確な一つの原因などあるのではなく、わけもなく不思議な何かにそそのかされてそうなり、出家した後に於いて、自分でさえ判然と言い表すことの出来ない原因を、探し求めるつづけることが出家者の生きざまとなっていくように考えられる」と

 

「生きるということは、この世で限りなくものとの別れに出逢い、賽の河原の石のように、自分のまわりに一人ずつ別れのしるしの石を積み重ねていくことだった。そして、自分にとっては、その石が歌だったのかもしれぬ」と。

 「歌は生まれてしまえば生き物で、作者を離れて独り歩きをはじめるようだ」と。

 

以上、この本を読んで、思うのは、作者はかなり、あった可能性が低くてもあったと信じて想像する箇所が多い本だった。遊べる本でもあった。

 

京都、吉野、熊野、讃岐、鎌倉、平泉を今後、旅するなら一冊読んでおくと絶交の韓国案内にもなると思う。


12月8日(土)のつぶやき

2018-12-09 01:58:42 | 歴史

日本の都市や町に人名がつけられない?

2018-12-08 14:55:04 | 歴史

司馬遼太郎さんの本は、話の本道から脇道にそれることが多い。それが何とも楽しみで読む。本で読んでいて、実物の司馬さんと対話している感じがする。雑談を探しながら読んでみた。

 

また、旅行する際には司馬さんの『街道をゆく』シリーズを持って歩くことが多い。

近所でもこの本を読んで、歴史を多く教えられた。

司馬遼太郎著  『街道をゆく 33 白河・会津のみち、赤坂散歩』

 

1 馬の話

 

「関東・東北は、農耕に牛を使わず、馬を使う。馬小屋を作らないで、一つ棟の中で飼う。

須田画伯曰く、「子供の頃、農家の家に泊まると、馬の小便の音の大きさで、飛び起きた。水の入ったバケツの底をいきなり抜いた音です。芭蕉の句に、蚤虱 馬の尿する枕もと」と。

「13世紀のモンゴル帝国の軍用馬はすべてオスで、去勢馬以外は絶対に使わなかった。オス馬は去勢しないと気が荒く、使いこなせない。ヨーロッパの場合、軍用・農耕のオス馬は、種馬を残してすべて去勢された。

 

 日本は明治のある時期まで軍隊の馬も去勢しないで、その荒々しさを見たヨーロッパの士官は「馬というより猛獣だ」という。

 坂東・奥州の乗り手達は、ナマの馬を飼っていた。

 また、騎兵集団として騎馬軍を運用せず、騎士が敵の騎士を求めて各個に格闘し、その各個の格闘の総和が戦争だった」と。

 

名を大事にする日本人がよくわかる。死ぬことがわかっていても、自分の名を名のり、後世に勇ましさを伝えたかったのか。

 

馬の小便の量とともに音の大きさ。明治時代の人は馬の小便の馬も人間も同じ扱いでペットして見ていたのだろか。

 

2 明治時代にロシアに渡った山下リンから学ぶ事

 

「才能とは、疼きに相違ない。模写することによって、山下リンの疼きを癒していたのである。

 私はイコンと語らうようになってから、見なくてもよいものを見なくなり、こころも健康になったようである。イコンは、目をこころの窓として使うことを教えてくれる。ひとつのイコンにじっと見つめいると、こころに広がりと厚みを与えてくれる思いがする。瞑想などと難しいことをいわなくとも、イコンとの目を通しての対話を、これからも続けていきたい」と。

 

初めて、習う事は大人も子供も師の手本を真似ることだろう。小説でも、絵でも、そうだろう。自分の好きな人を決めて、一日十分でも真似をすると、好きになると、その分野に興味が持てるのではないか。

 

 また、山下リンはイコンをじっと、見ることで、瞑想めいたことができるというが、何もイコンでなくていい。これはいいなあと思える景色を雑誌なりで切り抜いて、じっと眺めれば、落ち着き、いい発想も浮かぶのではないかと思う。

 

 

3 会津を考えると、本当に可哀そう。

 

「保科正之は、蒲生氏郷の正反対の組織を作った。

 わら束を切りそろえたように、中間層の多い家臣団を作った。

 最高の録は四千石で、それも二人だけだった。百獄から四百数十石という中間層を全体の八十五パーセントにした。百石以下もわずか五パーセントで、極度に少ないので、擬宝珠型と言われた。

 

 近代社会における中産階級の多い社会は安定度が高く、よき文化(風儀)が醸成されやすい。

 松平容保は「わが家祖(保科正之)の遺訓に、宗家(徳川将軍家)と存亡をともにすべきとある。もはや遺訓に従って、火中に入るほかないと決心した」と。

 「明治維新というのはあきらかに革命である。革命である以上、謀略や陰謀をともなう。会津藩は、最後の段階で、薩長によって革命の標的にされた。合図攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ革命の形式として成就しなかったのである」と。

今、日本も賃金格差の社会に入った。しかし、経済は低迷している。かつての高度成長期は日本の会社のほとんどは、年功序列で年とともに賃金が上がる社会だった。アメリカのウオルストリートの連中に日本社会をぼろぼろにされつつある。外国人移民もこのまま増やしていいとも思えないが。

 

 保科正之の採った政策を再び考えるべきではないか。

 

4 大久保利通が暗殺されたのは、薩摩の底面を気にすることが原因か?

 

 

 

 「大久保を狙っている者があるという噂は、内務省の耳に入っていた。彼らは警視庁の長である川路利良に、内務卿に護衛をつけよ、といったが、川路は黙殺した。

 

 川路の場合、大久保と同じ薩摩隼人で、戊辰戦争から西南ノ役に従軍した履歴から見て、いかにも薩摩武士らしい。

 彼には恐らく護衛についての薩摩人らしい気恥ずかしさがあったに相違ない。

 

 大久保の政敵の西郷は、城山で潔く死んだ。買った大久保が、西郷の同調者に殺されることを恐れて出入りに護衛をつけているなどとなれば、国もとの薩摩人は嘲笑するにちがいない、川路は思い、内務省側からの警告を黙殺したに違いない」と。

 

西郷が死んでから、当然、大久保利通本人も暗殺の可能性があると、わかっていたはずだ。そこを敢えて、つけずに行くとは、心のどこかに、西郷の死に対して、申し訳ないという気持ちがあり、誰かに殺されてもいい、と思っていたのでないか。

 

薩摩人はこれほど体面に気を付けている。当時の人の恥という言葉にとてつもない威厳が感じられる。

この精神があったので、日露戦争までは淡々と坂を登って行けたのではないか。

 

5 日本には英雄の名前が都市や駅名にない?

「中国を除く外国には、都市の名や街路の名、駅名、空港名などに、歴史的人物の名を付ける場合が多い。ヴェトナムのホー・チ・ミン市、ソ連のレングラード市、パリのド・ゴール空港、ポンピドゥーセンター・・・とった具合だが、日本にはその例も思想もない。

 

 旧国鉄に、駅名には人名をつけるなと、いう法規があったはずだ。

西洋風に言えば、千葉県に佐倉惣五郎市があってよい。

 どうも、明治初期に、人名をつけるな、といい政令が閣議の議決などが存在したような気がするが。法で禁じなくても、人名は日本ではなまなましすぎるという感覚が。はるかな昔から存在したのではないか。

 

 

軍艦の名も人命がつけられていない。

ロンドン側の軍艦は、ロシア戦史にあらわれた名将や勇将の名でみちみち、人名のむれが海を圧していた。対して、日本側の軍艦は、山の名や地名といった自然の名ばかりで、いわば英雄豪傑と自然の大合戦だった。

 

 大正以後、戦艦は国の名、重巡洋艦は山の名が多い。古代以来の自然信仰と無縁ではなく、国には国魂があり、軍艦長門国の国魂が守護し、山もまた鳥海山、や愛宕山の山霊が守護してくれると思ってきたに違いない。

 

 しかし、赤坂には乃木坂がある。明治の軍人にして赤坂の乃木神社の祭神である乃木希典(1849―1912)からとられた。といって、解釈の仕方次第では人名でなく、神名であるともいえる」と。

 

乃木希典は神と日本人が認めたから、神社ができたが、他、確かに思いつかない。

 

日本人は英雄を嫌うのではないか。とんでもない大人物が出ると、日本人の特有の妬みでつぶされるのではないか。

 

でも、公では人命を町などに付けないが、個人ではどうだろう。ペットに自分の好きな名前を付けたり、ペンネームなどおかまいしだ。

 

日本人には、伝統的に、本当に大事なものには神が宿ってほしい、という気持ちがある。戦艦に国、山の名前を付けている。個人でも大事と思うものに日本国の好みの場所名をいや、好きな有名人でもいいではないか。パソコンやスマホにつけるのも楽しい。

 

 

6 家康は京都の都市設計を真似た。上野の寛永寺は京から見える比叡山延暦寺に当たる?

 

 「東京には比叡山はないが、しかし江戸時代いっぱい、上野の寛永寺が江戸における比叡山とみなされた。

 

 比叡山は王城の艮(東北)に存在するために都全体の鎮護とされた。鎮護するために、天台密教による修法が必要で、また神道の面では比叡山坂本の山王権現(日吉神社)の神徳も必要だった。叡山延暦寺と山王権現は、王城守護のための車の両輪だった。

 

 江戸にも必要ではないか、と考えたのは、僧天海だった。

 

 天海のおもしろさは、その長命伝説にある。百八歳まで生きたという。

 

  家康は、茶屋四郎次郎がさしあげた鯛のテンプラを食べた後、体調をこわし、自分の死を悟るのは、1616年、4月だった。病床に、正純と崇伝、それに天海のみを呼んだ遺言した。

 

 

 家康の死後、1622年、天海が幕府に乞い、江戸城の艮の地である上野忍岡をもらい、徳川家の費用でもって、叡山に対抗すべく堂塔伽藍をおこしたのも、江戸と徳川家のためであった。 その山号を、喜多院からもらってきて、東叡山寛永寺とした。天海の思想では、これによって、江戸は京と並んで日本国の首都となったのである」と。

 

東京を散歩する際、やはり、こういう歴史を知って、寛永寺へ行くのと行かないのでは、雲泥の差があるように思