内村鑑三を読む himeshimakun3800.blog.fc2.com/blog-entry-90.…
— 山田一郎 (@jungle488) 2019年1月29日 - 18:26
最近、哲学者の梅原猛氏が亡くなった。
氏は、大学院時代、奥さんに養ってもらったそうだ。そんな屈折時、小学生がするように、鉛筆、消しゴムをころがして、プロ野球のゲームを対戦表を、氏なりに組んで、幼児のように遊んだ時期があったという。
氏には遊びにも、学問にも夢中になって、遊ぶ性格のようだ。何事も忘れて。いいか悪いかは別として、一つのフローに入っている。
最近、ビジネス書など読んでも、時間の無駄ではないかと思うことがある。
スラスラ読めても、何の進歩にもならない。ビジネス書はご丁寧にも、誰にでも買ってもらえるように、章事に、要約までしている。
同じような事を、少し言葉を変えて、人の云ったことを書いている本が何と多いことか。
二、三十年前のベストセラーを今でも、再販しているのが目立つ。それだけ、現代の物書きは知能が堕ちて来たのだろう。
そんな時、やはり、読みたくなるのは、評論家が引用する原典であり、全集が大いに役立つ。
知能指数を上げたければ、自分に少し、難しいなと思う本をストップウォッチを片手にして、読む事である。
達成したら、また、それより難し目の本に挑戦する。その繰り返しでその分野の専門家になれる。
そんな事を思いながら、古本屋で、見つけた本があった。
内村鑑三著 『内村鑑三著作全集 23』
1 内村にとって、友人とは?
「世には友人の多いのをもって誇る人がある。しかし余輩はそういう人を信じない。
友人の多い人は主義の無い人である。誰でもよい主義の人である。広量のようで、実は情ごく薄い人である」と。
「たぶん、世に最も多くの友人を持つ者は娼婦と幇間とであろう。しかしながら誰も彼らの友情なるものを信ずる者はない。彼らは誰にでも愛せられんとして、実は誰にも愛せられない。世の才子にして多くの友人を持つ者は、実は彼らの如き者である」と。
「年中かつて一回も訪問しないで、はなはだしきに至っては、しばしば門前を過ぐるも、かつて一回も立ち寄りもしないで、年の始めにあたって活字刷りのハガキで「謹賀新年」を言い贈れば、それでなお将来の友誼を獲得することができると思うのは、友誼をあまりに安価に見積もった考えではあるまいか。
友誼の持続は、努力と忍耐と犠牲とを要する。日本今日の年賀の習慣は、かえって友誼の神聖を汚すに至るものではあるまいか」と。
「ジョンソン博士は、「よく憎まない者」を彼の友人の中に加えなかったそうだ。よく憎まない者はよく愛さない者である。誰をも愛する者は誰をも愛さない者である。憎愛の判然せざる者は、友人としてはいたって価値の少ない者である」と。
この箇所を読んで、僕のフェイスブックの友や、他、世間での友は偽物だとわかる。しかし、わかっていてもやめられず。
本当の友とは、二人ぐらいじゃないだろうか。生涯、大変な努力を必要とする。見せかけの友を何百人もっても、空しい。
手持無沙汰で、することないから、インターネットで友を探したりするのを、内村鑑三が見たら、どう思うだろうか。
断乎として、本を出版して、その害を訴えるのではないだろうか。
今、その害を訴える人は殆ど見当たらない。みな、迎合して、インターネットやsnsを称賛しているように思うが。私もその一人だが。
2 内村の見る近代人とは?
「近代人とは、シルクハットをいただき、フロックコートを着け、哲学と芸術と社会進歩とを説く原始的野蛮人と見て、多くまちがいないのである。
近代人は自己中心の人である。自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である。ゆえに近代人は実は初代人である。原始の人である」と。
「余輩の見るところ、近代人が神を信ずると称するのは、たいていの場合は、神を信ずるのではなくして自己を信ずるのである。彼らは神の名を借りて自己意見を押し通さんとするのである。
今や多くの求道者または信者と称する者が、神の命令者であって、服従者でないことは慨すべき事である。彼らはただ神は彼らの玩具にあらざることを知るべきである。
近代人の悪習として、彼は師を求めるにあたって、これに教えられんとせずして、これに、おのが理想の実現を迫るのである。その実現を見れば喜び、見ざれば憤るのである。その精神たるや、北海道の漁夫が石地蔵に向かって大漁を要求し、漁獲多ければ供養を盛んにしてこれを崇め、少なければ石を投げてののしるのと、少しも異ならないのである」と。
現在の出版状況を見ると、まさにこの通りである。
自己啓発本の何と多いことか、車中の広告、インターネットの宣伝文句、ほとんど、自分に投資することを説いている。
外見は見事に飾り立て、スーツで身を固めても、内心はいかに自己のことだけに汚染されているか、明治、大正も今も同じだと、よくわかった。
3 無私の人になれば、充実する?
「国のため、人のため、社会のためとなれば、時々自己を忘れる人、何ゆえか、その理由を知らざれども、ある動機に触れて、知らず知らずの間に、ある無私の行為に出ずる人、これがノーブルな人であって、余の好む人物である。
ノーブルなる人の反対は冷静なる人である。自覚の観念のあまりに強きにより、自己を忘するることの出来ない人である。詩人といい、預言者といいい、みなノーブルな人である。彼らは自己を高き、ある他の勢力にゆだねし人である」と。
読書も同じではないか。時間を決めて、この本のここまでは、一時間で読み切る、と自分に勝負をかける。その結果、思い通りなら、自分に勝ったと。褒美に甘い物を食べるとか、自分で考える。これを何度も何度も繰り返してみると、脳は喜ぶと、いう。その結果、知性向上が一段とつく。
4 利にくらむと、正直になれない?
「今の日本人全体の求めるところのものは利である。その貴族なると平民なると、信者なると不信者なると、商人なると文士なるとを問わず、彼らの求むるものはこれである。彼らは利のためには、友を売る。宗教を捨てる。主義を変える。何でもする。
預言者エレミヤ見たる社会は実に日本今日の社会である。
汝ら各自をその隣に心せよ。いずれの兄弟たちも信ずるなかれ。兄弟はみな欺きをなし、隣はみな、そしりまわればなり。汝らは各自その隣を欺き、かつ真実を言わず。その下に偽りを語ることを教え、悪をなすに疲る。汝の住居は偽りの中にあり。(エレミヤ書9・4)」と。
「世に幸福の類はたくさんある。しかし今の世にあたって利を顧みざる人と交わるにまさる幸福はあるまい。正直なる人の集団に入りて、その一員たるにまさるの幸福はあるまい。
ヤソでもよい。異端でもよい。国賊でも不信者でも何でもよい。今の世にありて、聖き、義しき、へりくだりたる人たちと兄弟的関係に入るの特権を与えられて、余輩はこの世にありて他に何をも要求しないのである。
余輩は、正直なる人、誠実なる人とあれば、誰にでも同情を寄せ、誰とでも交際を結ぶ。余輩の忌み嫌う者は、ずるい人、暗い人、ノーブルならざる人である。
人は、日本人であろうが、キリスト信者であろうが、余輩は大嫌いである」と
「不信者は善の背後に必ず、欲が隠れていると信ずる。彼らは報いを要求せざる愛のあることを聞くも、決して信じない。
彼らは疑いの眼をもってすべての人と物とを見る。彼らは人はすべて偽善者であると思う。ゆえに人の言葉のありのまま信ぜずして、必ずその裏を信ずる。彼らの生涯は疑いの生涯である。友を疑い、妻を疑い、夫を疑い、隣人を疑い、自分を疑い、もって一生を終わるのである。神を信ぜざるの結果が、彼らをしてここに至らしめるのである。
人は神を信じてのみ、人と自己を信じ得るに至るのである。信任の無い所は地獄である。そして不信者はすべての人と物とを疑って、この楽しかるべき生涯を地獄の生涯となしつつあるのである。
これらの箇所から、今の新聞は、この利、利・・・で汚染されている。この利のために目がくらんで、正直になれない。
一歩、世間に出ると、正直であることが、まるで、悪いことのように、見られていないか。営業職など、その最たるものだろう。
横の人は、正直に喩え発言しても、裏で何かある、とかすぐ考えてしまうのではないか。全く、困った社会になりつつあるように思うが。
そんな時、思い浮かべたいのは、内村のこの言葉だった。
「人は、裸にて母の胎を出でて、裸にて逝くのであります。貧も一時であり、富も一時であります。位階、勲章もこの世限りの名誉であります。死して死なざるものは、正義によって生きた生涯であります」と。
また、
「貴族の生涯をうらやむ者は、実はみな貴族の奴隷であって、高貴なる平民の籍に連なる者ではない。真の平民とは、平民の位置をもって、満足するのみならず、平民たるをもって無上の栄とする者である。
「平民とは実に神に自力とのほかには何ものにもたよらざる者の称号である。強者の保護によりて身を立てんとはなさず、政府の威力を利用して富を作らんとはなさず、位階、勲章をもってその身の卑しきをおおわんとはなさず、ただ公平なら競争と自己の力量の有りたけをもってこの世に処せんとする者の称号である」と。
5 内村は日清戦争には賛成したが、日露戦争を拒否したが?
「内村さん、あなたは大層変わりましたと、ハリス夫人は言った。
そうです。実に変わりました。
と、余は答えた。
しかし、あなたは日清戦争の時には、自らペンを取って、日本の義を世界に訴えられたではありませんか。
と、彼女は切り込んだ。
そうです。しかし私は今はその事を悔います。私は、トルストイ主義に化せらた故に、今は悔い改めました。今すでに、かの論文を取り消しました」と。
教科書では、この取り消した事を教えられた覚えはない。やはり、実物の全集にあたって、初めて教えられた。
6 内村は小説嫌いで歴史好き?
「秋が来た。何をなそうか。
それでは書を読む事である。今から、ランプはわれらの最も良い友人である。
しかし、小説は読むまいぞ。秋は一年に一度しか来ない。これを小説を濫読に消費して、われらは天と人類に対して済まない。また、社会改良家の時論は読むまいぞ。秋は静かなる時であるから、頭脳が沸騰するような不平家の論文には眼をさらすまいぞ。
さらば、何を読もうか。アア、歴史を読もう。大歴史家の書いた歴史を読もう。人類進歩の原則を究めるよう。世界の進歩に現れたる天の聖意を探ろう。すなわち、哲学的に歴史を研究しよう。そうして今の政治家輩の経綸策なるもになどにだまされないようになろう。東洋流の忠君愛国主義なるものは国家を滅ぼすものであることを、なお一層究めよう。われらは秋だけなりとも、深き静かなる歴史家となろう」と。
今の時代もそうだが、小説など読むのはバカだと、思う人が多い。いかがなものか。
学生の頃、小説を読む時間あれば、家の手伝いをしろ、と、父から言われたことを覚えている。
内村だけでなく、思想家の安岡正篤など最たる者だ。
どうしても、軽いというイメージがあるからだろうか。
7 なぜ、内村は無教会主義を唱えたのか?
「キリストは明白に
なんじらはラビの称を受くるなかれ・・・地にある者を父と唱うるなかれ・・・尊師の称を受くるなかれ
を教えたまいしにかかわらず、教会は、人に神学博士の位を授け、人を法王と呼び、その他、監督、長老、牧師等を設けたのである。キリストの御精神にそむき、教訓にたがうことであって、その結果が常に信仰の腐敗、堕落に終わるはやむを得ざる次第である。
余輩がいたく外国宣教師を嫌うのは、彼らが外国人からであるからではない。また、その奉ずる信仰を嫌うからではない。彼らが他人の信仰に立ち入るからである」と。
8 この世は奮戦する所か?
「余輩をして言わしむれば、善人大多数を占むる世界は試練の世の中ではない。聖人、君子が大多数であれば、それは決して吾人の心身を鍛錬する所にはならない。そんな結構な所は、未来の王国、神の玉座に限ったことであって、この世にありて吾人の望むべきものではない。現世とは、義しき人や清き人の、ののしられ、踏みつけらるる修羅場である。しかし、これが現世の面白いところである。これだからこそ、我々に奮戦、勇闘の気概が生じて来るのである」と。
確かに、日々、何もなく平々凡々と暮らすと、呆けも早く訪れると、思う。
人に罵られて、いかに、奮発できるかを、面白いと見るか、つらいと見るかで、人生百八十度変わる。
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— 山田一郎 (@jungle488) 2019年1月19日 - 15:01
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— 山田一郎 (@jungle488) 2019年1月19日 - 15:03
橋爪大三郎 大澤真幸 『不思議なキリスト教』
1 日本の神道と一神教の違いとは?
「 日本人の考える無神論、神に支配されたくないという感情です。はまると怖い、とかも、だいたいそう。
日本人が神に支配されたくないのは、自分の主体性を奪われるから。日本人は主体性が大好きで、努力が大好きで、努力でよりよい結果を実現しようとする。その努力をしない者が大嫌い。と考える人々なのです。だから、カミが大勢いる。カミが大勢いれば、カミ一人の勢力はそのぶん殺がれる。人間の主体性が発揮しやすい。
神道がカミの像を作らなかったのは、キリスト教から見れば面白い。なんでカミの像を作らなかったのか。像を作ると拝まなければならないから。それは支配されることで、なんか嫌な感じ。
一神教では、真に従うために、ほんものの神にだけ従うために、像を禁じた。しかし、神道は、拝んで従うのが嫌だから像を作らない。一方では、真に従うために像を作らなかった人たちがいて、他方では、できるだけ従わせないために像を作らなかった人たちがいる」と。
しかし、キリスト教国でいくら努力しても天国へ行けない人がいる。あらかじめ、生まれた時に決まっている。反対に、バカな事をしても天国へ行ける人がいる。この点、僕は、どうしても納得いかないが。
2 神はもっと、人間になぜ絶対なのか、あるいはどういう基準で預言者を選んだり、天国へ行ける人と地獄へ落ちる人を選別するのか教えて欲しかった?
「神様も、唯一の基準を定めたという点では、メートル法と似ている。一神教の神は、自分が正しさの基準なので、「あなたがなぜ、正しいのですか」と聞いても、理由を教えてくれない」と。
「預言者の中には、神に文句を言って、「預言者になるのは嫌だ」という者もいる。神は許してくれない。「お前が胎の中にいるときから預言者に決めていた」とか言いますが、それは言葉の綾で、実際には、青年だったり、中年だったり、とにかく人生の途中で預言者に選ばれる。ある時、神の言葉が聞こえてくる。これが預言者です」と。
「神の国があって、そこで一部救われる。他方では救われない人がいて、火で焼かれる。なんで全員救わないのか。救われない人は、死なずにずっと焼かれる。しかも救いの基準をはっきり神は言いません。状況証拠では、あんまりお金を持っていると、合格は難しいかなあ、と暗示されているが、はっきりした基準がない。一部だけ救うのは、変な感じがします。透明性がない。人間は自分の力では救われたりしない」と。
3 聖書のエデンの園の話や、ブドウ園の話から判断すると、神は意地悪だった?
「神は、エデンに、知恵の樹と生命の樹という、食べてはいけない生命の樹を作った。しかし、「食べてはならぬ」というなら、神は、どうしてそんな樹をつくったのか。だいたい、理由も言わずにただ「食べてはいけない」なんて言われたら、食べたくなる。神はわざわざ、人間が罪を犯したくなるような状況を作っておいて、人間に厳罰を科している」と。
「ブドウ園の労働者の話は、幼児洗礼を受けて子供の頃からキリスト教である人と大人になって信徒になった人、晩年、病床で駆け込み洗礼を受けた人の、誰が神の国に行くでしょう、という例えだと考える。イエス・キリストは、どの人にも同じように、神の国に招きたいのだと言っている、と解釈する」と。
キリスト教をいつから信じようと、信じさえすれば神の国へ行けるということになる。死ぬ寸前に信じてもいいということか。
4 煉獄とは利子をとる恰好の動機になった?
ル=ゴフは『煉獄の誕生」という書物に、「煉獄は天国と地獄へ行く前の待合所のようなものという。天国と地獄だけのシステムでは、無罪と死刑しかない。例えば、万引き犯がいたとする。彼が有罪なのは間違いないが、だからといって、いきなり死刑では気の毒だ。そういう場合、煉獄である程度、苦しい試練に耐えて、いわば禊をすれば、いきなり地獄に行かずにすむ」と、
ル=ゴフは、この煉獄の成立が、利子の正当化や定着にとって、都合が良かったと説明する。言い換えれば、利子を取る商売をしている者が、それでも救われる可能性が出てくる」と。
ぼくは、キリスト教ではないが、判らない部分がありすぎて、理性で納得できない。日本人でキリスト教徒は人口の1パーセントだとう。
これは、お隣の韓国と全く違う状況だ。
やはり、日本人は今までの伝統をなかなか、変えられない民族なのだろうか。