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生甲斐とは

2018-08-18 12:59:18 | 人生論

 

 ヴォネガット著  『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

ヴォネガットは「とにかく仲間が欲しい。兄弟姉妹の愛情が欲しい。拡大した家族が欲しいという人がうようよいるんです」と言う。

ヴォネガットはがこう言ったのは、1973年だが、核家族の日本も同じではないか。

僕が街を歩いて、よく思う事は、独身向けのアパートがたくさんある。狭い空間には冷蔵庫から便所、風呂まで。さらに、テレビ、パソコン、音響機器、本など一杯。自分の居場所はほんの少しだけ。学校や会社から帰ると、ひとりテレビをつけ音楽を聴く。こういう住居は便利、快適だが、反対に、孤独はすごいだろう。

 

さて、本題のこの本の内容だが、

これはローズウォーター財閥の一人息子が家を出て、どこかの町に「なにかお力になれることは?」という店を作る。誰に言えないような貧しい人々の悩みを、辛抱強く聴くという小説。

そういう作業で、現在のアメリカにどんなに見棄てられた孤独な人が多いかを書いている。

上院議員である彼の父は、昔ながらのアメリカ気質をこう言う。

「貧乏人でも進取の気性があれば、泥沼から這い出せるぜ。これはいまから千年先でも、真理のはずだ」と。

すると、主人公の理解者の男が反論する。

「貧困は、脆(もろ)いと定評のあるアメリカ人の魂にとって、わりと軽い病気です。しかし、空(むな)しいという病気は、強い魂も弱い魂も、同じように冒(おか)し、例外なく命とりになる」と。

上院議員はアメリカの伝統的な考えで、積極的に努力して工夫すれば、この国は貧困から抜け出せる。貧困がなくなれば、不幸はないと、言う。

しかし、トラウトは、ヴォネガットの小説によく顔を出す変な作家だが、こう言う「貧困はまだ、軽い病気だ。むなしいという病気こそ命とりになる」と。

 

僕は、どうも、このトラウトの意見の方が正しく思う。

生き甲斐は、自分が存在していることは意味がある、自分は誰かに必要とされている、感じる時に味わうものだろう。

 ヴォネガットはしかし、もう少し先まで見ていて、いずれ機械の進歩で、どんな人間も必要でなくなる時代が来ると考える。こういうふうな科白がある。

「いずれそのうち、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスや多くの機械の生産者としても、また、経済学や工学、医学の実用的なアイデア原としても、価値を失う。だから、人間を人間だから大切にするという理由を見つけなければ、人間を抹殺した方がいい、ということになるんです」と。

人間が社会的に有用だから必要とされるというだけでは、その状態がなくなると、その人は「むなしさの病気」になる。

そうではなくて、「人間を、人間だから大切にするという理由と方法を見つけなければ・・・」

下手をすると、ヒットラーの人間抹殺の道を再度味わうことになる。

だから、僕はこう言いたい。「自分が存在していることは無意味ではない。自分は自分以外の人によって人間として必要とされている、と感じることが生甲斐なのだ」と。

ロシアのゴーリキイはトルストイの思い出の著書『追憶』の中で書いている。彼はある時、トルストイが海岸の岩の中に座っていたのを見る。トルストイがまるで、彼自身が自然の一部になったかのようで、波や岩と会話しているのではないかと。

ゴーリキイは「その時、私が感じたことは、言葉で言えない。心は喜びで満ち、胸迫って苦しかった。やがて、何もかもが幸福な思考の中に溶け合った」と感じたという。そして、ゴーリキイは思わず、心の中でこう叫ぶ。

「おれはこの地上にいて孤独ではない、この人間がいるかぎりは」と。

僕は昔、この言葉を読んだ時以来、これは人間が発した言葉のうちで、最も美しい言葉の一つと思っている。

ゴーリキイが老トルストイを見ながら何を感じたかは正確にはわからない。が、自然会話しているトルストイを見ていると、この人がいる限りは自分は完全に理解されている、自分の無能さ、欠点もすべて受け入れられている、理解したからこそ、この言葉が出たとしか思えない。

 

 


古典にもっと時間を

2018-08-16 12:27:55 | 人生論

 

 勝海舟著  『氷川清話』

 

「上がった相場も、いつかは下がるときがあるし、下がった相場も、いつかは上がるときがあるものさ。その上がり下がりの時間も、長くて十年はかからないよ。それだから、自分の相場が下落したとみたら、じっとかがんでおれば、しばらくすると、また上がってくるものだ。大奸物・大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからのう。

 しかし、今はこのとおりいばっていても、また、しばらくすると老いぼれてしまって、つばの一つもはきかけてくれる人もないようになるだろうよ。世間の相場は、まあこんなものさ。その上がり下がり十年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ」と。

 

また、『新・ブルターク英雄伝』にこう書いてある。

 

「古代アテネに陶片追放という制度があった。市民たちは陶片に、この人がいては国家のためにならない思う人の名を書いて投票する。そして最多投票者を、罪もないのに理由もなく十年間国外に追放する。テミストクレスは、意見が対立した人気者のアリスチデスを、この手で追い払おうとした。

 投票日、町を歩いていたアリスチデスは、見知らぬ字の書けない男に代筆を頼まれた。なんと、アリスチデス、と書いてくれと言う。なぜ君はその人を追放したいのか、と聞くと、彼は即座に、なあに、別に理由はないが、あんまりみんなが、アリスチデス、アリスチデス、とほめるのがうるさいからさ」と。

この世の中は評判に左右される。しかし、評判が限度にくると、次には飽きられる。これはなかなか防げないようだ。

こういう文章を読むと、マスコミの一時、人気あった人が時間がたつと、急に悪者扱いされるのを何度も見て来た。かの、小保方さんのスタップ細胞の時や、野球の清原がいい例だと、思う。

現代、書店に並ぶ新書で十年、順調に売り上げている本が一体、どれぐらいあるのだろう。並んでは消え、並んでは消えの連続でないのか。

一か月も持たない本が多数ではないか。世間に多数、時事評論化もいるが、今年で中国は崩壊するとか、一か月以内に預金封鎖が行われるとか、平気で書いて恥じない面々が多数いる。トランプが当選する前など、多くの評論家は平気で嘘をついた。そして、責任を取らず、今でも平気で嘘を書いている。奇抜な事を言って、儲けたいのだろう。

だから、こういう分野に時間を費やすより、じっくり、古典をもっと見なすべきではないか、と思っている。


一つの顔とは

2018-08-15 14:37:29 | 人生論

 

ホフマンスタール著  「帰国者の手紙』

 

「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。そのなかの魂の現在があらわれている。動物だってそうではないか。水牛がものを咀嚼する時、その顔を見てみたまえ、鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。一個の人間の顔の中にははっきりした意欲と決意があらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意以上のものだ。そういう顔をぼくの夢想の中のドイツ人は持っていた。だがともかくそういうとき、ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。私はこういう人間だと、それらの顔には書かれていた。」

ホフマンスタールはこう書いた後で、どうしても嫌な、理解不能な人間のタイプについてこうだめ押しをする。

「しかし、自分にとって一体何が大事なのかを彼自身知らぬ男、クラゲのように人生の上に横たわって、一方の触手ではあれに吸いつき、別の触手ではこれに吸いついて、しかもその手足の一つは他方について何も知らず、一本をひきちぎられれば先にはいのびるだけで痛痒も感じない、そんな人物の心には入ってゆくことができぬ。ところが今のドイツ人の存在はまさにそんなふうなのだ」と。

 

このドイツ人を日本人に置き換えれば、現在の日本人にもこの指摘はあてはまるようだ。電車の中で、前に座った人々の顔を眺めても「これが私という人間だ」というような力強い顔を見かけることは滅多にない。

 大抵は、ホフマンスタールのいうように、これであり同時にあれであり、一方でこういう態度をして、一方では、まるで別の態度をとる。そんなクラゲ的印象なのだ。

ホフマンスタールは二十世紀初めにドイツで生きた人だ。彼らより現代日本はもっと管理が徹底している。人間の役割は部品化しており、人は人格を求められないで、機能としての性能のよさ、機械のように、命令執行能力を求められる。生産性の向上、品質管理の徹底、事務の迅速化などの企業利益が至上価値となっている。だから、こういう顔になることは、極めて難しいだろう。

 

ホフマンスタールははこの本の初めに、作中人物の口をかりて、自分にはこれといった理論はないが、しかし、大事な指針はある、と言う。

「しかしそれでも一つか二つ、あるいは三つの章句、箴言、まあ何でも好きなように呼ぶがいいが、そういうものはある。決して忘れることのできない語の組み合わせというものがある。だれが主への祈りを忘れるだろうか。だから、

The  whole  man  musut  move  at  once.

(その人間の全部が一度に発動しなければならない)」と。

人生のクラゲのようにしがみついているタイプの人間と全く反対側にある。

ここから、感じたのは、自分のことを言われているみたいで、恥ずかしいが、

自分の本音を隠しておこう、今は出す時でない、今自分が求められているのは、一つ役割を演じることだ、本当の自分は成功したときに出すべきだ。こういう風に考えていると、おそらく生涯にわたって役割しか果たせない部品のような人生で終わるだろう。死がいつ、人を襲うかもしれないに。

 


情報に振り回されいるのではないか

2018-08-09 12:55:39 | 人生論

 

 トルストイ著 『文読む月日』

 

「人々が夢中になって騒ぐもの、それを手に入れるために躍起になって奔走するものは、彼らになんの幸福ももたらさない。奔走している間は、その渇望するものの中に自分らの幸福があると思っているけれども、それが手に入るや否や、彼らは再びそわそわし始め、まだ手に入れていないものを欲しがり、人が持っていればうらやましがる。

 心の平安は、いたずらなる欲望に充足によって生じるものではなく、反対にそうした欲望の棄却によって生じるものである。もしもそれが真実であることを確かめたいなら、今日まで注いで来た努力の半分でいいから、それらの欲望からの脱却に注いでみるがいい。すると、君はまもなく、そのことではるかに多くの平安と幸福を獲得できることを発見しよう」と。

 

 トルストイの晩年に読書生活から『文読む月日』の中で、エピクテータスの大事と思える言葉を書きとめたものだ。トルストイの時代からこういう傾向があったのだな、とわかる。さらに、遠いギリシャ時代も、当時からの人間の傾向であったようだ。人の性(さが)は現代も大昔も変らないというべきか。

 

 さらに、エーリッヒ・フロムという人が書いている。『生きるということ』の中に

「今日では、保存ではなく、消費が強調され、買い物は使い捨てとなった。買った物が車であれ、服であれ、小道具であれ、しばらく使うと飽きてしまい、古いものを処分し、最新型を買いたくなる。取得ー一時的所有と使用ー放棄ー新たな取得が消費者の買い物の悪循環を構成している。 今日の標語は「新しいものは美しい」となるのだろう」とも書いてある。

 

現在日本にぴったり当てはまるではないか。新しいものこそ最もすぐれていると、広告は叫んでいる。それに遅れることを恥であるかのように、競って、情報を入手する。

電車に乗れば、広告のオンパレード。見たくなくても、自然と目に入るようになっている。

髪型から、服装、靴、持ち物、流行語、しゃべり方、飲食物、行く店まで、流行に遅れまいと、変化に敏感になる。

何とかアイスクリームの店がテレビで放映されると、翌日になると、その店の前は行列になる。

健康食もテレビで流されると、翌日にはスーパーでは売り切れとなる。

何だか気味悪いほど画一化されている。

日本は共産主義国ではないが、精神的には、お上(かみ)や企業にうまく操られている。

どうやら、情報に敏感であればあるほど、外の情報に振り回され自分を見失うだけではないか。


カール・ヒルテイ著 『幸福論』

2018-08-06 13:46:02 | 人生論

カール・ヒルテイ著  『幸福論』

 

「交際相手としては決して愉快でないが、最も役立つのは、敵であろう。それは、彼らが将来友となる場合も間々あるから、というだけではない。とりわけ、敵から最も多く自分の欠陥を率直に明示され、それを改めるべく強い刺激を受けるからであり、また、敵は大体において、人の弱点について最も正しい判断を持つからである。結局、われわれは敵の鋭い監視の下に生活する時のみ、克己、厳しい正義感、自分自身に対する不断の注意といった大切な諸徳を知り、かつ行うことを学ぶのである」と。

 

我々人間が真剣に反省しても、たいした効果はないのではあるまいか。人間本来の自己愛心が、自分の欠点や失敗を直視しないようにする。

それより自分にとって勉強になるのは、他人の冷たい眼にさらされて、自分の弱みを白日の下にさらされた場合だろう。こればかりはぐさりと身にこたえる。

およそ人間が成長するのは、世間から叩かれた経験によってではないか。

 

野球ファンの昨日の試合批評のように、平凡で取り柄のない人でも、他人の欠点をあげる場合だけは、鋭い批評家となる。ライバルならなおさら、いわんや敵の目ほど恐ろしいものはない。しかし、萎縮したらおわり。他人の冷酷な眼線を浴びて、自分の至らざるところを映し出す鏡であると観念すればよいのである。