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11月29日(木)のつぶやき

2018-11-30 01:58:07 | 歴史

自民党の黒幕

2018-11-29 17:53:28 | エセー

昼食後は、眠くなる。そんな時、どうすれば、脳が活性化するか。僕の方法は、以前に読んだ本を見返して、ブログに書くことだ。

 

ただ、書くだけでなく、手指をできるだけ素早くパソコンにタッチして書くこと。これが秘訣だ。5分もすると、眠気も吹っ飛んでしまう。一度、試して見られたい。

 

さて、今回は、自民党の主流派という言葉を新聞やテレビでよく聞く。その中で宏池会というのがある。このメンバーは主に、官僚出身者で、他の派閥より偉いんだ、という三区jだしがある。

その考え方のバックボーンに、普段、名前を聞いたことが恐らく少ないだろう。安岡正篤という存在がいた。

 

 この人は大阪の四条畷出身で、小学生の頃から、中国の古典を読み、中学生になると、学校の先生より、近くの人の話がおもしろく、学校を休んで、その人の話を一緒に酒を飲みながら聞いたという。

 

そして、東大へ。卒業後、一度、文部省に入ったが、実践に向かず、半年で退職。その後、腸術活動をして暮らした。以来、どこにも所属せず、諸環58年に亡くなるまで、フリーだった。

 

そして、死ぬ数か月前に、占術家の『大殺界』で有名な細木数子と結婚する。そういう人のお話だった。

 

 

 

塩田潮著 『昭和の教祖 安岡正篤』

1 安岡の学生時代とは?

 

「安岡は大阪の四条畷中学に入ると、剣道部に入った。小学校の頃から、四書五経を始め、太平記、日本外史、十八史略、三国志など、古典や史書を読みふけった。自分も昔の若武者のように振る舞いたいと憧れた。それで、剣道を始めた。

 

 学校の周りには、楠木正行を祭る四条畷神社や、正行の墓がある小楠公御墓所など、楠木正行と堀田正奉の所縁の場所が点在している。剣道の稽古が終わると、そのあたりを逍遥し、若き血をみなぎらせた。

 

  学校よりも浅見の話の方が面白かった。浅見は万年床の部屋へ連れて行くと、一升瓶を片手に湯呑みを差し出した。十五、六歳の少年に朝から酒の相手をさせた。正篤も嫌いな方ではなかった。注がれるままに酒を口に運んだ。

 正篤は、浅見と話し込んで学校を休んだ。

 

2 安岡の祖父は土佐人で、フランス人を斬ったということで、あやうく死にかけた?

 

「正篤の祖父は安岡良亮といって、土佐の出身で、土佐の四傑と言われ、残りの三人は後藤象二郎、板垣退助、明治の司法制度確立に尽力した島本仲道だった。

 

 1868年、2月、譲位運動で、大阪の堺に上陸したフランスの士官と水兵藩兵が多数、殺傷した。大阪にいた安岡良亮もこの騒動に加わった。

 

 明治政府は土佐藩士に切腹を命じた。十一人が堺の妙国寺で自決した。安岡は年長者のため、切腹を免れた。維新後まで生き延びた」と。

 

これを読んで、堺の妙国寺と四条畷神社に実際に行ってみたくなった。

 

3 安岡は終戦時の勅語のチェックや総理の演説内容を書いた?

 

「安岡は終戦の詔勅の原案に朱を入れたり、宏池会という名付け親だった。

 佐藤内閣発足以来、所信表明演説などの重要なスピーチや首相談話の原稿はすべて事前に安岡がチェックした」

 

 

「安岡は佐藤総理にニクソンに逢ったら、老子の「戦いに勝ちては、喪礼を以て之に処(お)る」の譬えを使えとアドバイス。

この意味は戦争に勝ったならば、これを喜ぶよりは、むしろ、葬儀に臨んだように悲しみをもって身を処すべきだ」と。

 

 「大平は安岡邸を訪れた。安岡は一枚の大きな紙と墨書した名前を大平に示し、令名の由来を言い添えた。「会の名前は『宏池会』とするのがいいでしょう。之は中国の後漢の馬融の故事から引いたものです」と。

 

後漢の安帝の時代に馬融という高官がいた。学徳極めて高く、数千人の門下生を擁して人材養成に努めた。

 

 その馬融を顕彰した広成頌に、「髙崗にうてなを臥し、以て宏池に臨む」という一文がある。

 

安岡は、池田勇人の池の字と、この馬融の故事を結び付けて、「宏池会」と令名した」と

 

現在も自民党内に宏池会はある。その由来を知って勉強になった。

 

4 安岡は日中友好で大平正芳や田名角栄を叱った?

 

「田中角栄は大平を連れて北京を訪問する。日中国交回復をした。そのとき、中国の周恩来首相が大平に一枚の色紙を贈った。そこには「言必信、行必果」という文字が並んでいた。後から、安岡は人伝にその話を耳にして怒った。

「大平さんともあろうものが、こんな色紙を黙って受け取るとは」と。

 

 なぜなら、周恩来が贈った言葉は、論語から引用したものである。「言必ず信あり。行い必ず果たす」と読む。

孔子に弟子が、「士たるものはどういう人物か」と聞くと、孔子は「まず、わが身の振る舞いに恥を知り、四方に使いをして主君の命を損なわない物、次に、一族から孝行といわれ、郷里の人から俤順といわれる者である。言うことに嘘がなく、行いが潔い者は、路傍の小石のような小人でも士のなかに含めてかまわない」と答えた。

 

 周恩来は、このなかの、「言うことに嘘がなく、行いが潔い」という部分を取り出して色紙に書いた。つまり、裏に「路傍の小石のような小人」という意味が含まれていた」と。

 

また、「田中角栄首相は毛沢東主席から、『楚辞集註』という中国の珍しい本をもらった。田中も大平同様に大喜びした。田中は、この本こそ日中友好の絆だと言って、訪れる人に自慢した。

 

 しかし、安岡は「田中総理は自慢しているが、毛沢東がどういうつもりであの本を贈ったのか、君たちにはわからないのか」と。

 

 

 『楚辞集註』の「楚辞」とは、中国戦国末期の楚地方の歌謡の事だ。「集註」はそれに対する注釈を集めたものだ。

 

 「楚辞集註は屈原の話が中心です。楚の政治家の屈原は戦国時代、秦に滅ぼされそうになった祖国を見るに忍びず、汨羅(べきら)の淵から身を投げて自殺している。そのような内容の本を中国にたくさんある本の中から毛沢東はなぜ、選んだのかを考えなければならない。一国の指導者が簡単にもらう本ではない」と。

 

 

5 安岡は大学卒業後、ほとんど、著述と政界の黒幕として活動した?

 

 

「安岡は、東大を卒業すると、いったん、文部省に入ったが、半年で退職。実践活動には不向きと

わかり、著述生活を始める。どこにも所属しないで、著作の傍ら、猶存社など活動をする。浪人のような毎日だった。

 このときから、昭和58年に八十五歳で他界するまで、安岡正篤は結局、一度も他人の指揮、監督下で仕事をすることはなかった。生涯、床の間を背にして座る日々を送った」と。

 

「安岡は照心講座で東洋思想と時局について講義した後、出席者から質問があった。

「先生はなぜ政治家を目指さないのか」と。

すると、安岡は、

 「中国の古典の『荘子』の中に、『無用の大用』という言葉があります。無用を知って初めて有用の意味がわかりる。それを肝に銘じて、昔から人を動かすと側に立つことにしている」と。

 

 

 『荘子』には、「用なきを知って、而して始めて与に用を言うべし」とある。大地に立っている人間にとって、用があるのは足が立っている部分だけだが、それ以外の地面を無用だとして全部掘ってしまったら立っていられなくなる、そのとき初めて、「無用の大用」を知ることになると。

 

安岡は号を「瓢堂」といった。この瓢は「ひさご」と訓読みし、壊れた瓶と言う意味。これは無用の長物を意味している。

 

 安岡は、生涯、大用を自らの生き方とした。表舞台で主役を演じないで、裏で人を動かす「シナリオライター」「黒幕」という道こそ我が人生と考えた」と。

 

6 自民党の政治家にとって、安岡との付き合えることはステータスシンボルとなった?

「 吉田茂以後、大平までの歴代首相の中で、安岡が個人的なつながりを持つことができたのは、吉田、岸、佐藤、福田、大平といった人たちである。いずれも官僚出身で、保守本流と呼ばれる政治家ばかりだ。

 

 反対にあまり行き来がかったり、形ばかりの交流に終わったのが、鳩山一郎、石橋湛山、池田、田中、三木武夫といった面々であった。池田を除いて、全員が党人派だった。

 

 

「戦後の政治家にとって、安岡とのつながりが日本の保守勢力の中で一つのステータス・シンボルになった。戦後、日本の保守は自民党、官僚、財界、そして右翼陣営という四つの脚に支えられている。安岡はこの四つの脚のいずれの世界にも師として尊敬された。

 

そして、安岡という「守り札」を手にすれば、保守勢力の中でいい顔ができるようになった」と。

 

 

7 安岡と細木数子の意外な結婚?

 

「細木数子は、占術家として、『大殺界』など多数の著書を書いた。

 以前、島倉千代子が十数億円の手形乱発事件を起こして立ち往生した。そのとき、細木は身元引受人として、島倉をして、「命の恩人」と言わしめた。それから、テレビや週刊誌で細木数子は有名になった。

 

 安岡は、九段の料亭で細木と出会い、四十五歳の細木と安岡とは四十の年の開きがある。しかし、二人は急に親密になった。

 

 細木は赤坂に「マンハッタン」というフランス料理店を経営していた。安岡は三か月半ほとんど、毎日この店に顔をだした。

 

 細木のマンションは赤坂にあったが、安岡はそこに泊まることも多かった。

 

 安岡は妻を亡くして八年、独り身で淋しさを味わった。そこへ四十歳若い妖艶な女性が現れたのだ。耳もとで愛をささやき、痒いところまで手が届く接触を繰り返した。

 

 ついに、安岡と細木は結婚契約書に署名して、婚姻届を出す。

 しかし、結婚二か月後に、昭和58年、12月に安岡は胃潰瘍から心不全を併発して、八十五歳で亡くなる」と。

 

8 僕にとっての安岡の名言とは?

 

「ものごとには、機というものがある。禅家に啐啄同機という言葉がある。卵が孵化してヒナがかえるとき、中からコツコツと殻をつついて、もう十分育ったということを、外の親鳥に知らせるのが「啐」。すると、母鳥は間髪を入れずに、外からつついて殻を割ってやる。これが「啄」です。外からつつくのが、中からつつくのに先じてもいけない。機を同じくして初めてうまく孵化できる。これが啐啄同機です。時代も同じで、新時代を作って行くのにも、微妙な機というものがある。先覚者が少し機を先じると、多くの尊い犠牲になるし、遅れると、民族の悲劇になりかねない」と。

 

9 最後に

安岡正篤は現在ではほとんど使わない漢文を自由に使える人だ。

 

安岡の本は、格調高い文章、品のある文体で僕を圧倒させる。これは自伝だが、本体は彼の書いた本だ。何と多くあることか。目を覚まさせるものばかりだった。


美は身近なものにある?

2018-11-24 14:30:14 | エセー

最近、常識で考えて、おかしなことがある。数年前までは、気にならなかったが、今、中国人が周りに多くいる。

百円ショップのバイトやマクドの定員、JRの車掌までいる。近所の公園は中国人が占領してしまっている。

だれも、あまり不思議におもっていないのではないか。

これは、おかしい現象だと思う。

さらに、外国人移民法が通ろうとしている。世界が移民受け入れに反対しているのに、反して、自民党の一部の議員は通そうとしている。

この移民法を通して、得をする人は誰か考えると、裏のカラクリがわかるようだ。

今、この法案を押す議員の裏に中国人の影が。自分の懐が膨らめばいいのだろうか。日本国の将来をもっと考えてほしい。

 

さて、話は変わって、皆さんにとって、美とは何でしょうか。

僕は、スポーツ試合の前の挨拶や、終わった後の、「ありがとうございました」の一声に感じる。あるいは、これから、勇ましく戦う前の人の顔に。特攻隊で死ぬ前の酒を飲んでいる姿を写真で見ると、感動する。

 

 さて、森茉莉氏は森鴎外の娘で、フランス痛だ。普段の何気ない事に美を感じる名人じゃないか、と思った。

 

 

森茉莉  『私の美の世界』

 

1 雑誌や新聞を見て、これは美しいと思えば、切り抜いて、空想の世界にふけろう。

 

 「私は、新聞、雑誌の中から気に入った写真を切り抜くのが、生活の中の大きな楽しみになっている。西欧の男の顔。すてきな髪型のパリ美人。泣きたくなるほどかわいい姿や顔の犬、猫。まじめな人間、悪魔人間、等々、種々雑多である。なぜ切り抜くかというと、自分の住んでいるこの世界にきれいなもの、魅力あるものがあまりにも皆無で、みるのもいやな、醜いものばかり、といってもいい位なので、それらの切り抜きを見ていると一刻ほっとするからだ。

 

 

 またそれとは別の目的での切り抜きもある。自分の書く小説のイメージにするためのもので、こっちの方は林の向こうに見える朦朧とした家とか、いかにも悲劇の起る家の食卓といった感じ出ている食卓、寂しさのあるちょっと依怙地な男の顔、恐ろしい顔、狡猾な顔、哀れな病児、凄みのある場面がその中で現出しそうな温室、等々である。

 

 海でも、波打ち際でも、ほんものをながめるよりも、版の悪い新聞雑誌の方が、ぼやけて見えるために、暗い情緒が出ていたりして、例えば恋を失った青年の眼に映る海に適した海辺の写真を感じとることができて、素晴らしいイメージを得ることができるというわけである。

 

 小説を書くのは苦しいが、空想を浮かべていろいろな絵を切り抜いている間は楽しいので、はさみを持っている時の私はきげんがいい」と。

 

今は、インターネトで様々な写真がとれる。いいなあ、と思えばすぐに、保存して、後で、空想に耽れればおもしろい。

 

 

 

 

2 日本ではアメリカの真似をしているのか、人と会話しても、じっと最後まで聞けずに、途中でさえぎる。森氏はこれをとても嫌がった?

 

 「人と話をする時、または人の話をきいている時、素直にしている時、素直にしていられなくて、うるさく神経を使うのは日本人の嫌な癖である。自分と話をしている人間を、なんということなく自分より優れていると思い、相手のいう事に対して、いつもお世話になっております。いちいち、自分もそれを知っているという思い入れをしたり(そうですよ。もちろん知っていますよ)とでもいうように

「ええ、ええ」と重ね返事を、うるさく挿入する。

 

 ラジオで話をしているかなりの偉い人たちにもこのおかしな癖があって、自分が話す番がくるまで素直に相手の人物の話すことをきいていることが出来ないらしくて、大ていの人は(それは私も知っています)といわぬばかりに大きな声で重ね返事をするのである。

 医者とか、または何かの学者に、話を引き出す役になった人が「これこれですね」と意見をはさむ時、素直に「そうです」という人物は少ない。大てい、その相手の言ったことを、同じことでも表現を変えて、ちょっと難しい言い方をする。私はそういう会話をきくと、子供のようだなあと思う。

 

 しかるべき人物がある説をのべると、最後にへんにずれた、まとめを付け足して(これこれだということでございますね)とやる。これがまた、私は嫌いである。

 

 

3 硝子が無性に好きだった?

 

 「私は生来、硝子というものの持つ不思議に憧れている。硝子というものの持っている、曖昧なもの、底のしれないもの、に憧れている。ヴェルモットの空瓶でもいい。コカ・コーラの壜でもいい。フランス製のアニゼットの壜なら一層いい。

 

 何か手近にある綺麗な壜を窓際に置いて、じっと見ていてごらんなさい。ペナンやシンガポール付近の海を見ているような、半透明に薄緑の中に、あなたは何かをみるでしょう。

 

 解らないところにある性格のような不透明、そういう魔のようなものが、私は好きである。

 

 私は甲州葡萄の色が好きで、その色の似合う女も好きである。葡萄紫の甘い、柔らかい色の似合う女というのは、空想の中のグレートフュンである。欲の深い私は、匂菫のような、柔らかな薄紫の硝子がどこかにないだろうかと考える」と。

 

空瓶の硝子から美を感じるとは、思いもよらなかった。落ち着いて、壜をじっと見たくなった。さまざまな空想に浸れるだろうか。

 

 

4 整形美容はしてはいけない?

 

 

「整形美容をする人で、エリザベス・テーラーの目に、モナコ王妃の鼻、というように、注文を出すらしい。

 

 そういう人たちは、だいたい、人間の顔というものがわかっていない人々であって、自分の顔の感じのよさはどこにあるのか、かわいらしさはどこにあるのか、それが毎日鏡を見ていながらわかっていない。不美人は不美人なりに、その人の顔の中にはその人らしさがあるのであって、にわかに顔のひとところだけ変わると、その自然な、その人らしいものは失われて、調和の破れた、どこかおかしな顔が出現する。

 

 かわいらしくて太っていたほおが、変にこけてしまったり、とにかくその人の持っていたその人らしさがどこかへ行ってしまうのが、整形美容である。

 

 

 ちゃんとした、頭のある、魅力ある男は、鋭敏な虫の触覚のようなものを持っていて、女の子の顔の中から、姿の中から、女の子自身の知らないかわいらしさ、その人らしさを発見する。ただ自然にしていて、どこかで自分を見ている男の子にまかせておくのがいい」と。

 

 整形外科で顔を買えても、内面は買えないと思う。日々、修練していい顔になりたい。僕の好きな顔はマザーテレサや神谷美恵子の顔はすばらしい、と思っている。

 

5 何気なく見ているテレビの光景にだまされてはいけない?

 

「事故死をした人間の遺族は、すべてジャーナリズムの演出通りに動いているので、水で死んだ人々の遺族が最後の船の上から花束を投げて、悲し気な表情で、水面をみつめる、という、どこか拵えたもののような光景がその度に展開する」と。

 

これを読んで、毎年行われるプロ野球や高校野球の勝利者インタビューを思い出す。みんな、同じこと言っていないかなあと思う。

 

6 競馬の見方が変わる?

 

「競馬を見ると、彼らのほそい脚が疾走をする時の律動的な美は、典雅な宮廷の舞踏のようである。競技を終わって疾走からながし、並足にと、移り、やがて止る。その脚の微妙な動きは、優雅な古典舞踏の終りに似ている。「まあ・・・・・可愛らし・・・・」」

と。

 

僕は、競馬と聞くと、ギャンブルのイメージしかなく、ここに美があるなんて想像できなかった。やはり、一度は競馬場に足を運ぶのも面白いようだ。