本郷和人 『謎とき平清盛』
1 長曾我部元親は本領の安堵を条件に降伏が決定していた。しかし、突如、信長は方向変換し、長曾我部を武力で討伐と決めた。
面子をつぶされた光秀は四国討伐軍が出立する前に信長討伐の兵を挙げた。
2 平清盛は白河上皇の落胤である、という説がある。
3 科挙は朝鮮半島やベトナムもこれにならった。日本は遣隋使、遣唐使を派遣しながら、模倣せず。才能より世襲を重んじた。だから、貴族だけが政治に関与した。
4 平安時代は四百年続いた。
なぜ、朝廷が統治者たりえたのか?
統治を受ける民衆が、未熟だったから。
鎌倉時代の民衆は、年貢の軽減を求めて、一揆をおこした。
室町時代の民衆は、京都に乱入して、徳政を求めた。
戦国時代の民衆は戦国大名が住民サービスを怠ると、大名を滅ぼしかねなかった。
これに対して、平安時代の民衆は、自己認識ができていなかった。自分たちは何者で、自分達の力で何ができるか、理解していなかった。
5 平安時代は男が女の家に通い、居住する妻問婚が行われた。やがて、女が男の家へ嫁に来る嫁取婚に変る。
6 摂関政治は天皇権限を代行しているにすぎない。政務を執る上皇は、天皇権限を分割保有している。上皇と天皇は並び立つ。後に、源頼朝は将軍権力を創出するが、天皇権限を分かち持つ点で、上皇の権力を継承した。
7 朝勤行幸という行事がある。天皇は正月二日から四日の間の吉日に、年初の礼をするために上皇の御所を訪れる。
多くの廷臣が注視する中で、礼をするのは、上皇ではなく、天皇。端的に言うと、朝廷の正式な儀式では、天皇より上皇がえらい、しかし、政治の実権を握っているのは上皇です。
8 1147年、清盛は三十歳で、祈りを捧げるために、祇園社へ赴く。
ここで、清盛の郎党と神社の下部とが乱闘し、祇園と深い関係の比叡山が暴発した。清盛と父の忠盛を流罪させよ、という。
結局、清盛は罰金刑ですむ。これを祇園闘乱事件という。
9 王朝文化は、田舎の鄙びに対して、都の雅びた空間を創り出した。清浄でなけらばならない。
だから、 朝廷は穢れを嫌った。死の穢れを特に嫌った。平安時代、死刑は廃止された。
白河上皇は、殺生禁止令を出し、生きとし生けるものの命を奪うことを、厳に戒めた。
10 「刀は武士の魂」というのは、江戸時代の武士の概念だった。
初期の武士とは関係なかった。名刀は昔から美術品で、贈答に使われた。
戦場の刃物というのは、源平時代なら、長刀、南北朝以降は槍。兵で戦いで斃れるのは、弓でいられたからだ。
戦国時代からは、鉄砲で撃たれて殺された。刀より弓が実際の戦闘に使われた。
11 武士像には二つあった。
一つは 武士の本質は、他者を傷つける技術ではなく、貴族や僧侶などを観客とする、スポーツだった。
もうひとつは、武士=ハンターだった。戦場で、「良き敵」を討ち取る。優れた武士は、殺傷技術に富んだ戦士だった。
12 貴族とは?
位階を大きく区切ると、五位以上と、六位以下に分けられる。五位以上だと、御所の殿舎に昇る資格がある。
天皇の居所である清涼殿南庇に上がることが許された人を殿上人という。
六位以下の人は建物に上がれない。庭で畏まらねばならない。そのため、地にいるべき人、「地下人(じげにん)」という。
13 足利義満は貴族として出世した。二条良基という博学の家庭教師をつけて、内弁をこなした。徹底的に儀式を学んだ。
平氏は内弁を務めていない。内弁とは、儀式行事の進行役で、左足から、ゆっくり練って歩け。ここでは、「諸司召せ」とだけ、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で家、等の約束事を守らねばならない。
しかし、平家には、蓄積もなく、教えてくれる人もいなかった。だから、貴族の晴れ舞台では、主役になれなかった。平氏がどんなに昇進しようと、兵士の本質は武士だった。
14 平家は清盛が一門をしっかり統率していたのに対して、源氏は一族で争い、畳の上で死んでいる人が少なかった。
清盛と為義、義朝の能力差も作用しているが、源氏は「地盤に基礎を置く」という方法論が継承されていた。由緒、格式でなく、「強い奴がボス」と単純明快な論理が共有されていた。
15 鎌倉時代の武士も、室町時代の武士も幕府という言葉を知らなかった。江戸時代には幕府を指し示す「柳営」という語が使用された。肝心の「幕府」が用いられたのは江戸時代後期。頻用されたのは、武家政治が終わった明治時代になってからで、学術用語としてだった。
16 鎌倉の政庁は質素。将軍の屋敷がそのまま幕府。公私のけじめがなかった。鎌倉幕府に置かれた役所として、政所、侍所、問注所とありますが、それぞれのオフィースはなかった。必要あれば、場所は適時、設定する。この辺りに集まって、会議をしようという感じ。