gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

身の回りは依存症だらけ?

2019-05-29 18:25:38 | エセー

自分の身の回りをよく見ると

 てれびCMをはじめとする広告は、カモを誘い出す絶好の機会で、ひとり依存症のカモが見つかれば、その人間から生涯にわたって毎年数万円を吸い上げることができる。

 

 

このネットを見なければ、この商品を買っていなかったとか、テレビを見なかったら、こんな食べ物買わなかったなど何と多くあることか。

 

テレビやネットは光線を出している。あの光に人間は、弱いのだ。見ないように自制をかけにくい。

 

また、この「はまる」という言葉を聞くと、身の毛ががよだつ嫌な言葉だ。

何時頃から、この言葉が流行り出したのか。

 

現代は、何かにはまる依存症の社会になっている。携帯、メール、アルコール、テレビ、インターネット、パチンコや競馬などのギャンブル、甘い物、ゲームなど、数え上げればいくらでも出てくる。

その依存症の誘う大きな原因がテレビのコマーシャルやインターネットの広告ではないか。

普段から、何気なく見るとひっかるように出来ている。危ないな、と用心しないと、いつ、広告の奴隷になるかわからない。

 

特に、ひどいのが、アルコ―ル、パチンコ、ゲームが目立つ。

 

和田秀樹著 『「依存症」社会』

 

1 テレビのコマーシャルでアルコールの宣伝をして、自殺者が増大?

 

 「マスコミは、飲酒運転の事故でなくなると大騒ぎするが、アルコール依存症で毎年何千人もの人間が自らの死を選んでいることには言及しない。何か恣意的な意図があるのではないか」と。

 

かなり、アルコールで鬱を引き起こし、自殺者が出ているという。

新聞やテレビでは自殺したということはあっても、なぜ、死んだのか、を言わない。

それを言うと、コマーシャルのスポンサーから相手にされないからだ。

日本では子供から大人まで、テレビで言っている事を本当だと信じている人が多すぎる。

 

 テレビを見る時は、健康番組でも、なぜ、今、この食べ物を何度も勧めるのか、考える必要がある。反対に、これを食べると、欠点は何なのかと。

 

 

 街の至る所でビールなど自動販売機が設置され、コンビニでも簡単にアルコールを買うことができる日本は特殊のようだ。

 これほどアルコール飲料のCMが日常的に流されているのは先進国では日本だけ。

 

 

 アルコール依存症になりやすいのは、キッチンドランカーのように、原則的に家でひとりで飲んでいる人で、ひとりで鬱々と飲んでいるうちに、アルコールが抜けた状態ではいられないようになり、常にお酒を口にするようになるようだ。

 

 

 

2 パチンコ依存症になると、平気で炎天下の中、車に赤ちゃんを放置してしまう?

 

 

帚木蓬生氏によると、いまや日本のギャンブル依存症は200万人、その九割はパチンコ・パチスロ関連だという。パチンコ産業の約19兆円もの売り上げは、200万人のパチンコ・パチスロ依存症から吸い上げている。

 

 

 炎天下で車に赤ちゃんを放置する件が多発。これは、パチンコをすることだけしか考えていない人間が、赤ちゃんまで気が回らくなったからです。

 

 また、借金してでもする。こういう神経になるのは、明らかに病気ではないか。

 

世間では自己責任で片づけるが、何とも冷たいイメージがするが。

 

 

  台湾や韓国でも、以前は日本同様に、パチンコが大流行。

 しかし、あまりに熱中しすぎて、事件を起こし、社会問題になったので、台湾では台北で全面禁止。その他では、まだ、残っているようだ。

 韓国では、2006年に換金が禁止され、事実上パチンコ産業は崩壊。

 

 それで、韓国のパチンコ依存症に人は、お金を持っている人だけが、ツアーを組んで、日本へ来る。東京見物も京都見物も富士登山もしないで、パチンコ店へ行って打つだけのツアーだという。

 

日本では駅前に堂々とパチンコ屋がある。朝の開店前から並び出す。生活保護を受けている人が多いという。

そして、子供を熱中症で殺してもやめられないパチンコ。

 

 

 3 ゲーム依存症でこれからの日本の知能はどんどん低下する?

 

  OECDPISA(生徒の学習到達度調査)では、2000年に日本は数学リテラシーが世界でナンバーワン。

 2006年に十位。

そして、その後、急降下している。いまだに日本は世界でも有数の偉い民族だ、と信じている人がいるが、若い世代を見れば、世界有数どころか、アジアの後塵を拝するレベルになっている。

 その理由は、ゆとり教育だった。

 また、ゲーム依存症が100万人いるという。その影響もあるようだ。

 

4 依存症ビジネスで成立する日本に将来はない?

 

 

日本が世界を席捲する工業製品を生み出して来た時代は、モデルチェンジするたびにマイカーを買い換え、一、二年でマイナーチェンジする家電製品を揃える消費者がいたから、新製品の開発が進み、高品質の製品を生み出せた。

 

 

  日本には依存症ビジネスがあふれている。アルコール、パチンコ、ゲーム、携帯電話・・・・・、いまや成長産業は依存症ビジネスばかりです。健全な消費が減少する一方で、依存症消費が増加している日本。

 

 

 今、ラインの通知があると、すぐに返答しなければならない、という強迫観念がある。そうなったら、依存症の予備軍だと言えるのではないか。


ボケる人は頭を使ってもボケる

2019-05-19 14:47:22 | 歴史

最近、お年寄りの徘徊者が目立ってきた。認知症になった人が決まって言う事は、「ごはん、まだか」「嫁が金を盗んだ」、「家に帰れない」の三つだという。

 大学の偉い先生が突然、認知症になる。レーガン、サッチャーも認知症になった。作家の某氏もなった。

 普段、頭をつかっていても、なるのである。原因がわかないから、恐ろしい。

 

 しかし、何もしないでいると、なる可能性がずっと上がる。

 そのための予防策であった、決して、これを守ったからと言って、止める手立ては今ののところない。

 特に、親が認知症にかかると、自分も将来、その遺伝子をもっているので、成る可能性が高いという。

 

 フレディ松川著 『絶対ボケない生活』

 

 1 ボケて入院する人が圧倒的に多いのは公務員?

 

 

 著者の病院に「入院する男性の職業は、圧倒的に多いのが公務員だった。

人は、長い間の消極的な知的生活および貧しい精神生活によって、脳の神経細胞が減少し、記憶力、思考力が低下し、認知症を発症する。

 

 

 消極的な知的生活とは、本を読んだり、映画や演劇を見たりしない、感動しない、いつも悲観的な、あるいは物事を杓子定規のように考え、余計なことを一切考えないことである。

 こう言う人は、ほとんど、生真面目で、几帳面、頑固、粘り強く、どちらかと言うと、ネクラで、無愛想である」と。

 

 図書館等の公共の場へ行くと、エレベーターから、人の対応、何から何まで、遅いと感じる。

 ここで、働く人は毎日、この環境に身を置く。自然と、ボケてくるのではいか。

 

 さらに、著者は公務員の次にボケて入院するのが、学校の先生だという。特に、文系の国語、歴史、地理、公民、英語の先生らしい。

 反対に、入院したことのない科目は体育の先生だという。

理系の先生も少ないと。

 どうやら、毎年、同じ事を繰り返ししていると、脳に支障をきたすようだ。

 将来、安泰というイメージがあれば、駄目なようだ。切羽詰まったものが日々必要なようだ。

 

 

2 バーのマダムはボケない?

 

著者は80歳のママに出会い、こう聞く。

「うちの病院はママより若い人がボケて、たくさん入院している。ママのように、年をとって、こんなにきれいで元気なのはなぜか」と。

 すると、

「欲ですね。欲がなくなると、すぐボケるよ」と。

 「彼女たちの欲はお金だった。バーのママは独身が多い。頼るものはお金だから」と。

 

また、「女性で言えば、離婚を重ねたり、波乱万丈の生き方をするような女はボケないで、夫や家族のために尽くす良妻賢母がボケる」と。

 

 僕は、これは見習えないが、参考になる。欲はお金以外にもある。知識欲を伸ばせばいいと思うが。

 

3 頭、手を使ってもボケる?

 

 「頭をふだんから使うとボケない」とか「指先を動かせばボケない」とよく言われる。

 

 今でも信じている人が多い。

 

ところが、頭をよく使う大学の教授がボケる。

学校の教師なんか何人も著者の病院に入院している。

 ある学問の権威が秘密裡に著者の病院に入院した。誰もが尊敬している人だという。

 

 秘密裡というのは、その先生がボケたとわかると、その業績が落ちるというので、教え子が人を介して秘かに入院させた。もう亡くなったが。

 だから、弟子たちは、この時、「頭を普段から使っていればボケない」は迷信だと、知ったのである。

 

 あえて言えば、「ふだんから頭を使いながら、よく指を動かしていればボケないかもしれない、ということだ。

 

だから、画家や音楽家はボケが少ないのだろう。

 

 

4 認知症の権威がボケた?

 

去年の月刊雑誌に認知症の権威の長谷川和夫氏本人が書いていた。

 何もせず、悠々自適の生活を送っていない。

 むしろ多忙で、八十九歳まで現役で各地で講演をした。だから、まさか、認知症になるとは、と考えていなかった。

 

 そんな先生すら、認知症になってしまった。

 

 長谷川先生によると、次の順番で認知症になると思っていた。

 

 いまがいつかわからない。いま、自分がどこにいるかわからない。目の前の人が誰かわからない。

 

 だから、それさえわかれば認知症にならないと、信じた。

 

 ところが、現実は違った。

まず、「自分が話したことを忘れてしまう」ことから始まって、「あれ、おかしい」と思うようになった。 

 やがて、昨日そんなことはなかったのに、今日になると、いまがいつかわからなくなった。そして、家に鍵をかけたか心配で、何度も家に確認に戻ったと。それで、やっと、自分が認知症だとわかった、と言う。

 

 認知症の第一人者がこうなるのである。だから、我々はいつ、どこで、どんな形で認知症になるかわからないのである。認知症は突然、やって来るのである。

 

 

5 一旦、認知症になると、元に戻れない?

 

認知症になる段階がある。

 「健康―プレフレイルーフレイルー軽度認知症―認知症

 

 となる。

 フレイルとは老化による衰えである。

フレイルには、身体の衰え、心と脳の衰え、社会性の虚弱の三つである。

 

 認知症は進行性でかかったが最後、決して治らない。

 フレイルの段階で、努力すれば、元に戻る可能性がある」と。

 

だから、少し、思い出せない事が多い、と気づいたら、受診を受けた方がいい。

 

6 次の七ツの事をすれば、防げるかもしれない?

 

 ボケない人には7つの習慣があった

 

 

 ただ、七ツの習慣をするのは大変なので、まず、三つの習慣を最低してほしいという。

 

   1 体を動かす(散歩をする)

 

あくまで、防止率が高まるのであって、たとえ、毎日、散歩しても認知症になっている病人が著者の病院には多数いるという。

 

 そのためには、ただの散歩ではダメで、研究散歩をすればよい。

 絵が好きなら、スケッチする。道端の花でもいい。

 写真が好きなら、朝の散歩に犬の写真をとって、飼い主な上げると、喜ばれるだろう。

 俳句を散歩の途中で、浮かべるのもよい。

 

 散歩しながら、「風が気持ちいい」と感じるだけで、脳の刺激になる。その分、血流が増える。

 

 ボケない歩き方があるという。

 

 できるだけ、つま先を意識して歩くことだ。

 

 

   2 回想(思い出す、日記をつける)

 

 その日やらなければいけないことを前日までに書いておく。

 夜、その日に起こった楽しかった事を書く。

朝、読書した内容をどれだけ思い出して書いてみると面白いと思うが。

 

 大事なのは、思い出す事である。

  

 例えば、アスパラガスを見て、思い出せない。しかし、「思い出そう」とすることが大切。結局、思い出せなくても、これをすると、大量の血流が脳に注ぎ込まれる。繰り返すと、ボケる可能性が低くなる。

 毎日の繰り返しが20年後、30年後に決定的に嵯が出てくる。

 

 

 

   3 孤立しない(人と会う、社会参加する)

 

 

 一人で閉じこもって、テレビを見たり、インターネットばかりしていると、孤独老人になる。定年後、多くの人がこれでボケる。

 その対策として、麻雀、カラオケがいい。

 カラオケは新曲を学ぶことで、脳が刺激され、新曲に挑戦する意欲がボケから守る。

 

 そして、次の四つを新たにプラスすれば、ボケからかなり遠ざかる

 

 4 本や新聞を読む

 

 できれば、声に出して読むと、認知症予防につながること請け合いである。

 

読むスピードも意識的に早くする練習をしてみる。

 

 

 5 料理をする

 

  材料を考え、味付けに注意を払い、煮たり焼いたりの火加減や時間に注意を払う。盛り付けにも。

 食べてもらって「おいしい」と言ってもらえれば、喜びになる。

 料理をしていると、脳内に血流が勢いよく流れ、認知症になる暇はない。

 女性だけでなく、男性がする必要がある。

 

 6 バスや電車に乗る

 

 横浜や東京、あるいは、近くの大都市へ行くととなると、それなりの身なりをしなければならない。ホームも間違えられない。駅の出口も探さなければならない。

人込みを歩くと、人とぶつからないように、意識する。

 そして、他人が見ている、と意識することが大事だ。

 

マイルドな脳の緊張感がいる。これが脳の活性化になる。

 

 

 7  恋心を持つ

 

 

 最後に、生きがいを持つ。なんでもいい。人が喜んでくれること、人のためになること、それを生きがいにすれば、認知症も怖

くない。

笑顔だけでもいいのではないか。道行く人に素晴らしい笑顔を見せるだけでも、社会的貢献をしていると思うが。

 

 


常識外れの事を書く人は要注意

2019-05-16 14:52:52 | 歴史

西部邁 澤村修治 浜崎洋介  『日本人とは、そも何者ぞ』

 

1 生きざまという言葉は気持ち悪い。死にざまが本来の言葉?

 

 日本在住のロマノ・ヴルビッタさんという、自分はファシスタ党の党首であるという方が、こう言っている。

 「平家没落について、あれだけ美しい物語を書けた日本人が、なぜ大東亜戦争の敗北について、美しい物語を書けないのか、しないのか。異様な精神の屈折なり腐敗なりが、このたび起こったのではないか」と。

 

「日本人は没落していくものの「あはれ」を、悲しみとは捉えなかった。昔は生きざまなんてほとんど言わなかった、死にざまです。没落の死にざまに見る人間性の本質について、非常に深く洞察する力があった」と。

 

死への恐怖感を持つ日本人の表れではないか。今の生しか関心がない。これも会社に買い慣らされた由縁か。

 

2 スマホで感情をなくして、すぐに忘れる日本人?

 

「いまや日本人は知識人を先頭にして、屁理屈で平板になっていき、ローラーにかけられたペラペラな存在になった。感情を無くして、みんなスマホを見て、世界の情勢を黙々と見て、すぐ忘れる。これが現状です」と。

 

 

 テレビで、早口で、あたかも何事もわかったように、機関銃のように話す人を見かける。見ている方もそれが知的だと、思っているようだ。

真似をして、自己啓発本が売れる。

しかし、読んだ内容はあっという間に忘れる。こうして、一年が過ぎ、今年も早くおわったな、で終わる。この繰り返しで死に向かう。

 

 

3 言葉を音楽のように話してみては?

 

 「音楽的に心地よいか、というのは、言葉が残されていくために重要です。

 

 音楽的に変な言葉を喋っている国民がいる。一方、英語は、色々な言葉をミックスして成立している。なかなか使い勝手がいいし、音の調子もいい。そして、音楽的に英語を上回るのがフランス語です」と。

 

 

何気なく言葉を使うが、相手の言葉を聞いて、ああ、きれいなだ、と思う人とそうでない人がいる。

また、おおよそ、誰かを罵倒している人の言葉は聞き辛い。とても美しいとは思えない。

人間の表情は正直なもので、罵倒している人の顔は悪魔に見える。言葉と表情は比例している。

反対に言えば、表情が美しければ、言葉も美しくなるのではないか。

 

 

4 何もしないことができるか?

 「道元は、目的と手段の関係から脱する必要がある、と思った。そこで、道元は、「今、ここ」に集中する必要を説く。

 「今、ここ」に集中する最も効果的なものが、「座禅」と、掃除洗濯料理などの日常的な作務を見出すことになる。

 

  只管打座はひたすら座禅するだけで、座っているだけではないか、と思われるが、何もしない、ということをするのである」と。

 

よく考えると、一日で何もしない、というのはできそうで、難しいのではないか。

電車の中で何もしない時は、スマホを見るか、本を読むか。何もしないというのは、世間ではマイナスの評価につながる。

常に何かそわそわしていないと、生きて行けない状況になった。

 

5 中世の人は一瞬の贅沢をして、あっさりと死ぬのが美徳と考えた?

 

 

 「南北朝から戦国の世が始まる頃の人間は、死が間近にあった。己の人生の道行きには、生きるか死ぬかのドラマがあった。死の匂いが芬々としている。そういう状況の中で生まれたのが婆佐羅だった。  

 

 婆佐羅大名の佐々木道誉は、無茶苦茶の行動をする。宴会では、虎や豹の毛皮を敷き、勝負事をする。最後には豪華な珍しい物も、カネにしたって、「どうでもよい。僕はいらん」とばかり白拍子や猿楽師にやる。自身は手ぶらで帰る。派手ではあるが、暑苦しくない。突き抜けたイキなところがある。

 

 派手な中にある「あっさり、すっきり」が格好よい。相手にもその意味がよく通じる。明日は戦場で死ぬかもしれない二人が、イキなエール交換をする。こういう態度が中世にはあった」と。

 

この文章を読んで、思ったことは、今、もし、日本がどこかの国と戦争をしていて、特攻隊で明日死ぬとしたら、若い兵士は戦場でスマホを片手に愛のエール交換を行うだろう。あっさり、死ねるか。部隊を逃亡するか、恨みつらみをスマホで述べて、死んでいくのではないか。

 

そして、格好良い死に方とは何か。すぐに死ぬことがわからないで、一瞬のうちに死ぬ突然死ではないかと、思った。

 

 

6 中世の人は死ぬことを当たり前と考えたのか。

「鴨長明は、養和の飢饉で、飢え死にした死体は処理されず、においが大変だったと、方丈記に書いてある。

 

 その中に仁和寺の坊さんは、死体の額に字を書いて仏縁を結ばせた。数えると、4万だったとか、よくも数えられたものだ。鴨長明はそれを淡々と、感情を交えずに記録している。ある種の透徹したニヒリズムです」と。

 

死体を最初に見ると、びっくりするが、段々と慣れて来るのだろう。そのうちに、獣の死体を扱う様な感覚になるのではなかろうか。

かつての太平洋戦争中も、食べるものがなくなると、戦友の死体を食べた、という話をよく聞く。

 

7 日本人は天国と地獄の振り分けを信じなかったから、キリスト教は定着しなかったのではないか?

 

 

 

「フランシスコ・ザビエルたちが、現代で言えば、新品のスマートフォンを持ってきたみたいだった。これまでにない教えだと。現代人がスマホにみんな飛びついたように、日本人はすぐ飛びつくだろうと。でも、日本人にしてみれば、もうとっくにいろんな思考実験をやってきたので、似た話じゃないか、となり、蹴飛ばされた」と。

 

日本人はいろいろな物に関心を持つのは大昔からのようだ。

 

 

実験してよければ、取り入れるが、合わないと、捨てる。宗教もやるだけよってみようじゃないかと。

僕自身、そういう「日本人らしさ」は好ましいし、「あの世が、仏が、絶対が、超越が」って形而上を持ち出すヤツがいると、「嘘だろう」と言いたくなる。

 

 「人間、わざわざ死んでもしようがない。死ぬまで生きていようぜ」と。

 生きている限り自分の能力いっぱいで、競馬を見たり、木に登ったり、酒をくらったり、俳句を詠んだりして、楽しむというか、時間をやり過ごすというか、いろいろあるでじゃないか。日本人は無常だと言いながら、そうやって、生への執着を表現していった。

 

8 日本人は美意識で宗教を選ぶ?

 

 坂口安吾の『イノチガケ』によると、殉教者が増えていくと、キリスト教の信仰者は増えていくという。なぜか、殉教者は「かっこいい」からです。死や滅びの美しさを放っていて、みんなを惹き付ける。

 

 それはまずいので、徳川幕府は、「穴つるし」の拷問に変えた。穴に逆さつりにする。血流が下がってきて、顔が真っ赤になって膨れ上がって、醜く死んでいく。

 

 そうやって醜さに追い詰めると、キリスト教に帰依する人が、どんどん少なくなったと。

 

 

「醜さを追い詰めると、キリスト教に帰依する人が少なくなった。日本人のキリスト教を受け入れるかどうかは、教義とは関係ない。美意識だった。自然に与えられた死や滅びの事実を、どう潔く引き受けるかといった点で、日本人の美意識は成り立っている」と。

 

殉教に憧れたのは、特攻隊も同じではないか。日本人は、どこかで人に見られている、と言う意識があると、正義のための死をあっけなくするのではないか。

 

 

9 小説とは?

 

「小説というのは、坪内逍遥が作った言葉ですが、どうして、小説か。

 

 

 これは、小さな説ということ。

明治はまだ江戸時代を心の中で引きずる。男たるもの、江戸時代なら主君のために命を賭していたが、明治になると、「お国」のためになる。戦争もあるから、男のやることとなる。

 

 しかし、文学者は、男にあるまじき、小説などを書いている。中身を読むと、女性に惚れたとか、振られたとかという話ばかり。男のやるべきことではないと。

 だから、近代文学者は、世間の皆さん、小さな説に過ぎませんから許してください、男のくせに女々しい文学をやっています。でも小さな説だから勘弁してください。

 小説を英語でいえばノーベルです。新しいという意味。イノベーションinnovationnovですから。Novelすなわち、新しい説。

 ところが、日本では、これを新説と訳さなかった」と。

 

だから、明治の内村鑑三などは、小説を嫌ったのかもしれにあ。

 

もし、新説と訳していたら、もっと、日本人は小説を読んでいただろう。なにせ、新しい物が好きな国民だから。

 

10 もし、現代、刀着用を許されたら?

 

 「初対面の相手にものを言う時の、向こうの緊張感のなさが気になった。武士の時代だったらそうはいかない。武士は刀を持っている。初対面で、無礼の度が過ぎるとグサッとやられる。

 だから、武士は絶えず他人との距離感を測って付き合った。刀が距離感を作り出した。モラルも作った。

 

  モラルの語源は「モーレス」で、習慣、習俗の意。英語になってモラル、道徳になった。

 刀がある時の習俗は良かった」と。

 

今、もし、刀を持ってよい風潮になれば、どうなるだろうか。

少し、気に障れば、すぐに、斬ってしまうだろうか。

反対に、言葉を慎重に選び、引き締まった社会になるだろうか。

最初は、死者も多数出るだろうが、そのうちに治まって来る来ると思う。そして、行動も言動も優雅になるのではないか。

反対に、目に見えないネットではもっと、苛酷な言動が増えるかもしれない。

 

 明治四年の散髪令と明治九年の廃刀令で、武士の魂が傷ついた。

 姿かたちの変化は大きい。精神性と関係しますから。

普段何気なくしている格好で、知らないうちに自分の精神が形作られている。

自分のあこがれの人の姿を真似ることは、その人に近づくことになるだろう。

 

 

11 変わった事を言う人は要注意?

 

「変化への警戒。自分を変えるのも、社会を変えるのもグラヂュアリズム gradualism、漸進的で行けと。

 急進的なことは、たまにあってもいい。目の前にどう見てもひどい人がいたら、ラディカルに殴りかかるかもしれないが、そういうことは滅多にない。

 自分勝手に、明日からこうなると、急激な変化を起こそうとする連中には警戒した方がいい」と。

 

急に変な事を書いたりする著者がいる。常識では考えられないような事を。

例えば、脳が10倍速くなるととか、これを食べれば、百寿者になれるとか。そういう本は本当に警戒した方がいい。


SNSは相互に監視されている

2019-05-12 14:51:04 | 現代史

佐伯啓思著 『異論のススメ 政論のススメ

 

 

1 今や、正月が平日と変わらなくなったのは、ボーダレスの影響か?

 

 「正月は、多くの店が開き、デパートやショッピングセンターなども二日から営業している。普通の休日と変わることはない。かつてのすべての活動が停止した空白の時間日常に割り込んできた不便極まりない非日常の時間を味わうことは大変難しい。

 

 

日の丸はおろか門松もしめ縄もあまり見かけなくなった。あの死んだような空白の時間と静寂はどこへ消えたのか。

 何やらバリアフリーの時間を文字通り何の障害もなく移動しているようなものである。

 ボーダレス社会とはこういうものなのだろう」と。

 

昔は、子供頃、公園で凧揚げをしたり、コマを回したりした。今はあまり見かけない。

 

日本は右化していると、言われるが、祝日にも日の丸を揚げている家はあまり見かけない。

正月やこの前の十連休を見ればよい。みんなが行くところへ、自分も行く、ただそれだけでないのか。分けもわからず、正月に神社へ行くのも、みんなが行くからだろう。日本人の幼児化現象ではないかと思う。

しかし、外国人移住が多くなるにつれて、正月の神社参拝も崩壊するかもしれない。

 

正月せめて三が日は店もあかず、家でじっくり考える時間を国が作るべきではないか。

 

 

2 スポーツすることは、まともな態度を保てない状態?

 

「スポーツとは、「デイス・ポルト」から出た言葉である。「ポルト」とは、「停泊する港」という意味である。「デイス」はその否定であるから、「デイス・ポルト」とは、停泊できない状態、つまり、秩序を球てない状態であり。はめをはずした状態、ということになる。「ポルト」はまた、「態度」という意味もあり、、「まともな態度を保てない状態」という事になる」と。

 

スポーツというからには、息をはずませる。僕は、この状態が嫌いだ。はあ、はあ・・・と。

この状態の人と話をすると、何となく叱られていると思わないだろうか。あるいは、相手のせっかちな状態がこちらに伝わり、平静状態になれない。

 

マインドフルネスになるには、スポーツは厄介なものだ、と思う。

 

また、 ホイジンガは、今日、スポーツから遊びが失われている、

そもそも祭祀との関連がすっかり失われ、ただ勝つことや記録だけが自己目的化され、カネをかけた大規模な大会に組織され、機械的で合理的な訓練が優位になり、もっぱら職業的な活動となっている。政治も経済も、もともと遊びに淵源を持つ」と。

 

これを読んで、スポーツ選手のインタビューを思い出す。

みんな人形のように、「オリンピックで楽しんできました」や「自分にご褒美をあげたい」とか。

何となく気持ちの悪い表現としか言いようがない。

オリンピックで一秒でも速く結果を出す、が決まり文句で、お金のためと言う人も多いはずだ。

 

 

 

 

3 何事も偏らず、中立で?

 

 「シューマッハーの『スモール・イズ・ビュウテイフル』によると、人間が、安定した生活をし、よい社会的関係を作って行くには、ものごとには適切な規模がある、という。

 

 巨大信仰、効率科学技術、成長信仰ではなく、人間の身の丈に合った経済活動があるはずだ、という。科学技術の力を使って経済成長を生み出す現代の巨大な機械技術は、人間が楽しんでする仕事や、頭や手を使って行う創造的な仕事を奪ってしまった。人間の尊厳や創造的能力も破壊しかねない」と。

 

この文章を読んで、感じたのは、何事も一つに固まってはいけない、と思ッた。

 

雑誌には過激な表現で読者に買ってもらおうする。特に、右寄りの雑誌に韓国、中国への誹謗をあらわにしている。

そして、5年後、中国は崩壊するとか、平気で書いて、崩壊せず、飽きもせず、同じ論調で10年後、崩壊すると言い出す。読者にお詫びもせず、平気でくり返す。どういう心理だろう。

 

 「この世に絶対はない」とカール・ポッパーは言ったが、今の常識がいつ覆されてもおかしくない。

 

テレビの健康番組でも、「これを食べれば、健康になる真実」とかいったものが多い。

それを真に受けて、翌日、買い物へ行くと、すべて売り切れる。かつての納豆がいい例だ。今は、サバ缶か。

食品にはいい面もあるが、マイナス面もある。それをテレビはなかなか言おうとしない。

色々な物を少しずつ食べるのがいいと思うが。

黑か白か解答があるはずだと焦らない。

二分割思考に陥ってはならない。

 

世の中には答えがない。

だから、あれもこれもほどほどに中立を守るのがいいのではないか。

 

 4 今のSNSの社会は相互監視社会か?

 

 「今の自由社会は、過剰なまでの競争に駆り立て、過剰なまでの情報の中に投げ込み、メデイアやSNSを通じて、他人のスキャンダルを暴きたて、気に食わない者を誹謗する。実に不寛容な相互監視社会となった。これは一種の全体主義ではないか」と。

 

スマホの簡単に写真が撮れるようになって、自分の知らない間にインターネットに流され、下手をすると、脅迫される。

 

かつての東側の共産主義より、簡単に監視されているようだ。

 

また、スマホやインターネットをすると、時間泥棒に簡単に引っかかる。

 

 いつの頃からか、時間の流れが実感されない。本の一年前でも過ぎ去ってどこかへ消えてしまっている。

 この時代の特質なのかもしれない。ともかくも、日々がさしたる深みも味わいもなく、しかもただただあわただしく過ぎてゆく。

 

 

5 現代は精神的に一貫していない風潮があちこちに?

 

「終戦記念日の黙祷の厳粛さは、戦死者たちへの深い哀悼と生き残った者の自責に似た内省を示している。しかし、この厳粛さは、例えば、一分間過ぎると、もとの高校野球の熱狂と騒々しさに戻る。一分の黙祷の後には何もなかったかのように賑やかな宴が始まる。こうして、何を記念しているのかわからないうち戦後七十五年が過ぎてしまった」と。

 

テレビでも、ある時間帯は教養番組だが、則、コマーシャルで次の時間はお笑い番組になる。何ら一貫していない。

これを毎日見続けると、まさしく、精神的薄弱者になりはしないか。考えられない、その場が良ければよい人間になる。