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丸谷才一著  『輝く日の宮』

2020-01-30 20:33:47 | 文学

男性は源氏物語よりも平家物語の読者が多いのではないか。
全くの素人はかの平氏と源氏の戦争物語と勘違いする人も多いはず。
とんでもない、エロ小説の古典で、レイプの連続。
源氏物語は長すぎるので、須磨の巻まで読むまでがやっと。、それ以降、かなり根気がいるが、一番面白いのは、若紫と柏木という。

桐壺の巻と帚木の巻の間に輝く日の宮があったとう説。

怨霊は平安時代に多く出て、江戸時代の元禄になると消えた説とそうでないという学者の論争の場面。

自殺しかけた清少納言が白い紙を見ると、自殺を思いとどまった話。平安時代の白い紙に書ける事は、ブランドの神戸牛を食べる感覚があったのではないか。

平安貴族は多すぎる恋文を書いたが、書けたのはアンチョコがあったから。

鈴を振るような笑いなど、比喩の多様さ。
知的小説の最上位になるのではないか。


丸谷才一著   『輝く日の宮』

 
1 日本にも西欧にも駆け込み寺は昔あった?

 「アジールというのは、犯罪者とか奴隷が逃げて行くと保護される聖域、とでも言うのかな。
ギリシャ語で、神聖不可侵という意味、古代ギリシャでも、古代ローマでも、ユダヤでもあった。神殿とか教会へ逃げ込むと、かくまってくれる。近代国家になると、なくなる。日本でも織田信長や秀吉以前はあった。
戦争で負けた武将が高野山へ逃げたりする。それから、円切り寺なんとはその名残り。鎌倉の東慶寺がそうだった」と。

日本では、戦国時代になくなったようだが、なぜだろう。石田三成のような逃亡者を助けるからだろうか。


 2 なぜ、芭蕉は東北へ奥の細道の旅をしたのか?
「元禄二年は、義経没後、五百年です。こういう絶好の機会を関係者が宣伝しないはずはない。平泉ではきっと五百年祭が行われる手筈で、芭蕉は耳にしていたのではないか。それ東北へ奥の細道となった」説と。

あるいは、
「芭蕉が旅に出たのはひとりで考えたいことがあったのである。それには知友門人のいない土地への旅が必要だった

 井本先生が強調されているように、自分の文学の停滞からの脱皮とか自分の文学の新しい展開とか、そういうことです。西行五百年忌だから西行ゆかりの地へ出かけたという見方を斥けて、文学的新境地を拓こうとしているという説を主張しています。

 芭蕉が西行ゆかりの名所を訪ねたという説がある。しかし、西行百年忌ならその人が歌を詠んだ歌枕を歩くよりも、入寂地の弘川寺へゆくのが筋ではないか」という説。

あなたはどちらと思いますか。他にも説があれば、聞かせて下さい。
僕は、後者だと思います。西行やかりの地だけが目当てなら、あんなに、多くの場所を訪れる必要はなかったはずだから。


3 怨霊は人生が短いから出る?
 「人間が充分に生きるには人生は短すぎる。だから人間は死んでから化けて出る。これはダンテを読んでたら、レーオが言ったジョーク」と。

 しかし、日本では平安時代にたくさん、怨霊が出ている。それが、江戸時代の貞享までで、次の元禄になると、怨霊信仰はなくなったという。

「何年何月何日までは貞享で、その翌日からは元禄なんて、ここまでは京都府でそのさきは滋賀県みたいなことでしょう。享までは御霊信仰があって、元禄になると
消えるというのは、まるで、しだれ桜が京都府までは咲くけれども滋賀県になると咲かないみたいです」と。

また、現代の靖国問題も根は怨霊信仰にあるという。

 「北朝の系統の明治天皇が南朝を正統と定めたのも、南朝の帝たち、および将軍たちから祟られるのが怖かったからなんです。今の靖国問題にしても底のところには御霊信仰があるわけです」と


 丸谷才一の本は比喩があまりにも多く出てくるとわかった。
「芭蕉が一番得意だったのは連句の時の宗匠の役。連句は何人もの連衆が集まって、」五七五の長句と七七の短句を交互につけて、三十六句とか百区とか続ける遊びで、宗匠というのはその遊びの師匠役。

 これは今で言えば、ピアノ・コンチェルトのとき、ピアニストが指揮者を兼ねるようなもの」と
他にも
「娘の笑い声は鈴を振るようで楽しかった」等。


4 源氏物語はレイプ集だったのか?

 「藤原道長は紫式部の側かる見て、

、性的パートナー、読者、批評家、題材の提供者、モデル、原稿用紙の提供者だった」と。

 「枕草子はものづくし集がかなりの割合を占めるが、紫式部は、それでは一つ私は別口のものづくし集をと、レイプ集をお目にかけましょうかと思ったのかもしれませんね。」と。


「源氏ですもの。別なのよ。
朝の風俗では、乳母とか誰か年上の女が最初に教えたのです。性教育が制度になったのね。光源氏も十二歳の元服のときには手ほどきされたと思う」と。


 「平安から鎌倉にかけては今と違って部屋中に畳をしきつめるのではなく、引き離して畳を敷いて、それが夜はベッドになって、その上に男女が裸でぢかに、シーツなしで寝て、そして両人の衣服を掛け蒲団みたいにするのだと説明した。

 正常位の時には紫の上の背中に畳のギザギザの痕がついた」と。


「角田文衛先生は、数字をずばりとおっしゃる方ですが、二人の交渉が生じたとき、藤原道長は44歳、紫式部は37歳だった」と。

 

5 平安の権力者は人からもらった物を庭に並べてみせるのが趣味だった?

 「紫式部の親父さん、国守にしてもらったお礼に、ずいぶん贈り物をしたでしょう。

 あのころの権力者は献上品が一杯届いて、すごかった。それをみんな庭に並べて見せびらかすの。夜は倉に収めて、朝になるとまた庭に並べるの。
 庭一杯に陳列された貢ぎ物、庭実千品なんて言って、中国から来た風習らしいの」と。

 まるで、路上で野菜を売る感覚だろうか。


6 芭蕉の奥の細道は平家物語を、紫式部の源氏物語は蜻蛉日記の影響が?

「芭蕉の紀行の文体は、和漢混合文体で、平家物語から来ている、そんな気がしてならない。奥の細道の文体は、リズム感とか、言葉遣いの格好良さとか、イメージを差し出す力の烈しさなどは、そっくりです」と。

そういえば、口に出して読むと、平家も億の細道も黙読より名文の威力を発揮するように思う。


「紫式部の作風には、蜻蛉日記の影響がかなり大きいのではないか。第一の巻の桐壺の書き方は童話かロマンスのようです。写実的な人物描写じゃない。しかし、帚木になると調子が変わって、風俗と人情を重んずる近代ふうな小説に。

藤原道長が紫式部に「蜻蛉日記」を貸したと推定される」と。


7 源氏物語の桐壺と帚木の間に輝く日の宮があった?

 「桐壺は光源氏の幼少時代だけを描いたものでから、色好みとして有名な光源氏といきなり言われても、読者は困ってしまう。そこで、桐壺と帚木のあいだに別の巻があったのではないかという発想が生じた。それが輝く日の宮です」と。

 

 

8 平安貴族の恋文にアンチョコがあった?

「求愛されたら一応は拒むという型に従ったまでのこと。それがあのころの風俗で、作法として確立していた気配がある。じらすことで色情の趣を深くする。


 昔の人の恋は大変でしたね。いちいち歌を作らなければならない。手間がかかるでしょうね。

アンチョコがあるのよ。平気平気。勅撰集ってのはつまり恋歌のアンチョコなのよ。マニュアルね。殊にその性格が強いのは、後撰和歌集ですけど、でも一体にそうなのよね、勅撰集って。


 色事は照れくさいでしょう。それで婉曲に、詩的に言ったの。その言い回しが紀州では大正の末まで残っていたんですって。例えば、女の人が男の人に惚れるとき、「紺屋の杓と思います」と言う。
 これは、「藍汲みたい」(相組みたい)ということなの。
これを聞いて鈴をふるような笑い方で佐久良が喜んだ」と


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