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丸谷才一著  『輝く日の宮』

2020-01-30 20:33:47 | 文学

男性は源氏物語よりも平家物語の読者が多いのではないか。
全くの素人はかの平氏と源氏の戦争物語と勘違いする人も多いはず。
とんでもない、エロ小説の古典で、レイプの連続。
源氏物語は長すぎるので、須磨の巻まで読むまでがやっと。、それ以降、かなり根気がいるが、一番面白いのは、若紫と柏木という。

桐壺の巻と帚木の巻の間に輝く日の宮があったとう説。

怨霊は平安時代に多く出て、江戸時代の元禄になると消えた説とそうでないという学者の論争の場面。

自殺しかけた清少納言が白い紙を見ると、自殺を思いとどまった話。平安時代の白い紙に書ける事は、ブランドの神戸牛を食べる感覚があったのではないか。

平安貴族は多すぎる恋文を書いたが、書けたのはアンチョコがあったから。

鈴を振るような笑いなど、比喩の多様さ。
知的小説の最上位になるのではないか。


丸谷才一著   『輝く日の宮』

 
1 日本にも西欧にも駆け込み寺は昔あった?

 「アジールというのは、犯罪者とか奴隷が逃げて行くと保護される聖域、とでも言うのかな。
ギリシャ語で、神聖不可侵という意味、古代ギリシャでも、古代ローマでも、ユダヤでもあった。神殿とか教会へ逃げ込むと、かくまってくれる。近代国家になると、なくなる。日本でも織田信長や秀吉以前はあった。
戦争で負けた武将が高野山へ逃げたりする。それから、円切り寺なんとはその名残り。鎌倉の東慶寺がそうだった」と。

日本では、戦国時代になくなったようだが、なぜだろう。石田三成のような逃亡者を助けるからだろうか。


 2 なぜ、芭蕉は東北へ奥の細道の旅をしたのか?
「元禄二年は、義経没後、五百年です。こういう絶好の機会を関係者が宣伝しないはずはない。平泉ではきっと五百年祭が行われる手筈で、芭蕉は耳にしていたのではないか。それ東北へ奥の細道となった」説と。

あるいは、
「芭蕉が旅に出たのはひとりで考えたいことがあったのである。それには知友門人のいない土地への旅が必要だった

 井本先生が強調されているように、自分の文学の停滞からの脱皮とか自分の文学の新しい展開とか、そういうことです。西行五百年忌だから西行ゆかりの地へ出かけたという見方を斥けて、文学的新境地を拓こうとしているという説を主張しています。

 芭蕉が西行ゆかりの名所を訪ねたという説がある。しかし、西行百年忌ならその人が歌を詠んだ歌枕を歩くよりも、入寂地の弘川寺へゆくのが筋ではないか」という説。

あなたはどちらと思いますか。他にも説があれば、聞かせて下さい。
僕は、後者だと思います。西行やかりの地だけが目当てなら、あんなに、多くの場所を訪れる必要はなかったはずだから。


3 怨霊は人生が短いから出る?
 「人間が充分に生きるには人生は短すぎる。だから人間は死んでから化けて出る。これはダンテを読んでたら、レーオが言ったジョーク」と。

 しかし、日本では平安時代にたくさん、怨霊が出ている。それが、江戸時代の貞享までで、次の元禄になると、怨霊信仰はなくなったという。

「何年何月何日までは貞享で、その翌日からは元禄なんて、ここまでは京都府でそのさきは滋賀県みたいなことでしょう。享までは御霊信仰があって、元禄になると
消えるというのは、まるで、しだれ桜が京都府までは咲くけれども滋賀県になると咲かないみたいです」と。

また、現代の靖国問題も根は怨霊信仰にあるという。

 「北朝の系統の明治天皇が南朝を正統と定めたのも、南朝の帝たち、および将軍たちから祟られるのが怖かったからなんです。今の靖国問題にしても底のところには御霊信仰があるわけです」と


 丸谷才一の本は比喩があまりにも多く出てくるとわかった。
「芭蕉が一番得意だったのは連句の時の宗匠の役。連句は何人もの連衆が集まって、」五七五の長句と七七の短句を交互につけて、三十六句とか百区とか続ける遊びで、宗匠というのはその遊びの師匠役。

 これは今で言えば、ピアノ・コンチェルトのとき、ピアニストが指揮者を兼ねるようなもの」と
他にも
「娘の笑い声は鈴を振るようで楽しかった」等。


4 源氏物語はレイプ集だったのか?

 「藤原道長は紫式部の側かる見て、

、性的パートナー、読者、批評家、題材の提供者、モデル、原稿用紙の提供者だった」と。

 「枕草子はものづくし集がかなりの割合を占めるが、紫式部は、それでは一つ私は別口のものづくし集をと、レイプ集をお目にかけましょうかと思ったのかもしれませんね。」と。


「源氏ですもの。別なのよ。
朝の風俗では、乳母とか誰か年上の女が最初に教えたのです。性教育が制度になったのね。光源氏も十二歳の元服のときには手ほどきされたと思う」と。


 「平安から鎌倉にかけては今と違って部屋中に畳をしきつめるのではなく、引き離して畳を敷いて、それが夜はベッドになって、その上に男女が裸でぢかに、シーツなしで寝て、そして両人の衣服を掛け蒲団みたいにするのだと説明した。

 正常位の時には紫の上の背中に畳のギザギザの痕がついた」と。


「角田文衛先生は、数字をずばりとおっしゃる方ですが、二人の交渉が生じたとき、藤原道長は44歳、紫式部は37歳だった」と。

 

5 平安の権力者は人からもらった物を庭に並べてみせるのが趣味だった?

 「紫式部の親父さん、国守にしてもらったお礼に、ずいぶん贈り物をしたでしょう。

 あのころの権力者は献上品が一杯届いて、すごかった。それをみんな庭に並べて見せびらかすの。夜は倉に収めて、朝になるとまた庭に並べるの。
 庭一杯に陳列された貢ぎ物、庭実千品なんて言って、中国から来た風習らしいの」と。

 まるで、路上で野菜を売る感覚だろうか。


6 芭蕉の奥の細道は平家物語を、紫式部の源氏物語は蜻蛉日記の影響が?

「芭蕉の紀行の文体は、和漢混合文体で、平家物語から来ている、そんな気がしてならない。奥の細道の文体は、リズム感とか、言葉遣いの格好良さとか、イメージを差し出す力の烈しさなどは、そっくりです」と。

そういえば、口に出して読むと、平家も億の細道も黙読より名文の威力を発揮するように思う。


「紫式部の作風には、蜻蛉日記の影響がかなり大きいのではないか。第一の巻の桐壺の書き方は童話かロマンスのようです。写実的な人物描写じゃない。しかし、帚木になると調子が変わって、風俗と人情を重んずる近代ふうな小説に。

藤原道長が紫式部に「蜻蛉日記」を貸したと推定される」と。


7 源氏物語の桐壺と帚木の間に輝く日の宮があった?

 「桐壺は光源氏の幼少時代だけを描いたものでから、色好みとして有名な光源氏といきなり言われても、読者は困ってしまう。そこで、桐壺と帚木のあいだに別の巻があったのではないかという発想が生じた。それが輝く日の宮です」と。

 

 

8 平安貴族の恋文にアンチョコがあった?

「求愛されたら一応は拒むという型に従ったまでのこと。それがあのころの風俗で、作法として確立していた気配がある。じらすことで色情の趣を深くする。


 昔の人の恋は大変でしたね。いちいち歌を作らなければならない。手間がかかるでしょうね。

アンチョコがあるのよ。平気平気。勅撰集ってのはつまり恋歌のアンチョコなのよ。マニュアルね。殊にその性格が強いのは、後撰和歌集ですけど、でも一体にそうなのよね、勅撰集って。


 色事は照れくさいでしょう。それで婉曲に、詩的に言ったの。その言い回しが紀州では大正の末まで残っていたんですって。例えば、女の人が男の人に惚れるとき、「紺屋の杓と思います」と言う。
 これは、「藍汲みたい」(相組みたい)ということなの。
これを聞いて鈴をふるような笑い方で佐久良が喜んだ」と


悩む力とは

2018-08-13 12:44:35 | 文学

 

 太宰治著  『人間失格』

「日陰者、という言葉があります。人間の世において、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生まれた時からの日陰者のような気がしていて、世間から、あれは日陰者だと指名されているほどのひとと会うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自分でうっとりするくらい優しい心でした」と。

 

太宰治は若い時に自殺未遂の経験があり、ついに、玉川上水で入水自殺をしてしまう。

 

また、太宰の『富獄百景』にこういう科白がある。

「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、とい言い切れる自覚ではないか」と。

これは負の体験こそ人間の正当な自負心を与えうるものではないか、と言っている。

負をプラスに転化している。

現代は、悩みがあると言えば、下手をすると、ネガティブでネクラと非難される。。常に、ポジティブでないといけない、と特にビジネス書を読んでいると、感じる。

 

また、ドストエフスキーの『地下室の手記』にも、似たような科白がある。

「ひょっとして、人間が愛するのは、泰平無事だけではないかもしれないではないか。人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、人間がとことして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、間違いやすい事実である」と。

 

ドストエフスキーのこの言葉は人間について真実をついている、と思う。

人間は、明るい、温かい日々だけを欲するものではない、同時に、暗い、寒い日々を体験すればこそ、、前者の本当の味わいがわかる。生まれた時から、日当たりのよい明るい道を歩いて、挫折を知らないと、生きるという味わいがわからくなるだろう。

このことは、世の文豪と言われる、ドストエフスキーやトルストイ、スタンダール、太宰治などの本を読むとわかる。彼らの深い苦しみや悩みを通じて、反対の光り輝く美や愛を生き生きと感じることができたのだ、と思う。

僕には、とても、苦しすぎて、これほど悩む力はない。少しでも、近づきたいが。

僕は、道歩く人や電車の中の人の顔にとても、興味を持っている。

容貌に悩む人もいる。生まれた時に、容貌は自然と与えられる。生まれつき、美人、美青年が確かにいる。しかし、先天的に与えられた美貌は年齢とともに衰える。

一方で、自分の意志で作り上げた顔もある。明治時代の豪傑の顔を見れば一目瞭然だ。こちらは、鍛えれば鍛えるほど、悩めば悩むほど、威厳あるいい顔になる。

悩むことを考えさせられた本だった。


京都観光する前に読むと面白い

2018-08-03 19:41:02 | 文学

馬場あき子著 『古典への飛翔』

 

この本は恰好の旅行記ともいえる。

特に、気に入ったのは、京都の欣浄寺、随心院、桂離宮の生垣。

 

他に、会津、御坊の道成寺、大阪の信太の森、下北半島の脇野沢など、多く書かれている。

 

ただ単に、旅行しても面白くない。あらかじめ、勉強して行くと、本当に来て良かったな、と思う。

 

次に、平安時代の王朝美とは何かと考えさせられた。

 

また、日本文学には伝統ある言葉があるが、その中で、「つくも髪」とは何かを述べている。

 

 

1 桂垣

 

 

 京都の桂離宮は、外側を散策する者は、延々三百メートルあろう。

 川端の笹垣という。

 

 この美しい名は、離宮の東に限定。垣の傍らを散歩すると、この生垣の笹はすべて地面へ向かって逆さにその葉を茂らせている。

 竹郡の竹は、一定の高さに揃えて刃物を入れ、へし折られ、力まかせに二つ折りにされていた。

 

 二重に体幹を折り曲げたまま、それでもまっすぐに伸びようとする竹の弾力を計算に入れて、ふくらかなやわらぎをもった生垣とするという発想んは、なみなみならぬ残酷な美学を感じさせられる。

 

  切ることによって、一回の生を生かすという生け花の論理からすると、この桂の笹垣は責めつくすことで、妖しい生をひらくという、かなり残酷な方法である。

 

 

 2 小野小町の遺跡

 

 欣浄寺(きんじょうじ) 京都伏見墨染町にある

 

 

 ここに深草の少将の邸宅があった。伏見の大仏といわれる本尊がある。苔の庭があり、中心に池がある。

 この深草邸に小野小町が通った。この池の前に水鏡しつつ、

 おもかげの変らで年の積れかしよしや命にかぎりありとも

 

 

 というあわれに艶な歌を詠んだ。

 

 青みどろの池に、食用ガエルのドスの利いた声が響き、池東の藪かげに百夜通いの道といわれる暗い小路が苔に覆われている。暗澹として枯死した少将の情念を見るようで侘しい。

 

 この藪かげには二基の墓がある。少将と小町のものだという。

 

 小町と少将はかなりの贈答の文を重ね、本堂の中には小町から来た文反古(ふみほご)を灰にして、その灰を固めて作った深草少将像がある。

 

 

 3 随心院

 

 山科小野にある。小町はその父小野良実(よしざね)の宅地のあったこの地を里としている。

 

 謡曲『通小町』では「馬はあれども君を思へば徒歩(かち)はだし」と謡われる。「徒歩はだし」とは恋の心意気に属する言葉。

 

 ここに、小町の文塚がある。小町のもとに集まった多くの男の恋文を埋めて、恋のほむらを供養してなぐさめた塚。

 

 欣浄寺の少将像となった文反古とどちらが多かったのだろうか。恋の伝説地があり余る文反古の処理にそれぞれ工夫のあとがあり愉快である。

 

 

 4 小町化粧の井戸

 

 小町はこのやわらかい水質を愛して宵ごとにこの水を手に受け、脂粉をこらして人を待った。

 

 小町の井戸から離れると、初夏の風が木々の匂いを含んで、いっそ涼やかな感じの梅林がある。梅林の前に桜の着がある。枝垂桜のようにかげを抱いている。季(とき)すぎた葉桜の下に憩いながら、かの有名な「花の色は移りにけりな」の一首が生まれたのかもしれない。

 

 朝に夕に、小野の里にゆったりと横たわる高塚山を仰いで暮らした小町。その内側はめそめそしたものではなかったろう。

 

 

 小町は少将が通った夜を、小野の里に多いカヤの実で数え、その九十九個の種をまいて形見にした。

 庶民的で手仕事のにおいをもつ後日譚も、明るく静かな小野の里の、古豪族の血にふさわしい放胆さをもっていて面白い。

 

 

5 王朝の美について思うとき、第一にまなうらに浮かぶのは、身をつつむほどの豊かなくろかみの流れである。

 

 女のとって、男女の間柄がそのまま生(よ)であり世(よ)であった時代に、男の手が賞でるくろかみの乱れは、なつかしい思い出とともなり、将来の不安にもなるものだった。

 

 源氏物語の薫と匂宮との求愛の谷間に苦しみつつ投身した浮舟の、白衣を重ねた半死の肢体には、灯にてらされて輝くみごなくろかみがまつわりついていた。

 くろかみの罪深い美しさと、美しい女の業としてその身をおおうくろかみとは、王朝のどの場面にもしなやかに流れつづいている艶であり、怨であったといえよう。

 

 花を染め、花を着、花の雰囲気をもって人をたとえたのである。けはいの美や、雰囲気としての美、あらわな美以上に美として味わわれたことは、隠された余情の深さに心の深さをみようとする美の方向が、日常的に定着していた。

 

 くろかみとはかかわり深いものがある「恥かし」という美意識である。

  春は花の香にみち、夏は若葉のかおりにむせるほど植物の全盛期であった王朝は、それ以上に香木の全盛期でもあった。後世から見れば目も眩むほどの豪勢な香のかおりが、季節の木の香、花の香にまじりつつ家ごとにくゆらせていたわけである。

 

 

 6 つくも髪とは?

 

 「百年(ももとせ)にひととせたらぬつくも髪われを恋ゆらし面影にみゆ」という歌がある。

 

 「つくも髪」とは「九十九髪」とも書かれる。根拠はわからない。

 

 柳田国男説

 

 「つくも」という語とは別に九十九里の地名由来の中で、この知の九十九塚伝説を、熊野の九十九王子の思想と近似したものとする。百に一つ欠けることの中に深い意味があったという。

 

 

  折口信夫説

 

 「つくも髪は、産屋髪で、物忌みの髪型だ。経喪髪(ツクモ)である」と述べる。「百年に一年足らぬとは、つくもの枕詞ではない。だから九十九の意ではない」という。

 

 

 柳田も折口も現実の視野の中にはない、「面影」としてのみ感受せよという。。

 

  小野小町の謡曲「鸚鵡小町」には、「―捨てぬ命の身に添ひて、面影に九十九髪」と歌われる。「九十九」という重たい数は、あと一つ、もう一つ、予感分野を残して、極まろうとする女人の執念を表す。

 命の方が、捨ててくれず、若き日のわが面影は、執念深くわが情念を支配し、九十九髪になった、というのである。

 

 「つくも髪」は、イメージが、軽やかな老髪ではなく、老いても繁りやまない、真白髪にもならない、女の業の深い累積を思わせる髪だと、著者は語る。

 

 つくも髪に決定的に欠けるのは、美の要素である。しかし、つくも髪にはつねに、その醜の彼方に美を見ることを求める。

 

 美のかげに醜をみることはたやすいが、醜のかげに美をみることは困難といえよう。

 

 中世の文学、ことに能の老女物は、逆説的な美を求めた。人間の生の異様さ、妖しさがこの逆説の中で言いたかった。つくも髪はその象徴となった。

 

 

 7 語(かたり)は騙(かたり)?

 

 語らずにおれぬ伝承への意志があつく、現実を吸収して、微妙に語り口を変化させ、後世の「騙」へと下落したという。だから、物語は騙りだと。

 

 

 8 笛とは?

 

 道具は人の手から遠くなると、一度に生気を失ってしまう。

 

 古典を読むと、笛を吹く男が多くいる。琴に比べると、演奏の描写は少ない。どんな笛を、どんな風に吹いていたのかわからない。

 

 ただ、笛が感動的な楽器で、音色に感動した海賊が改心したとか、盗賊が盗品を返したとか、悪人が殺意を失ったとか、人の心に懺悔を呼ぶ逸話が多い。

 笛は吹く行為で、演奏者と一体感がことさらに深いようだ。音色が、自分の呼吸そのものであるような感覚がわく。

 

 

 9 能でも、名手のシテが気を入れて橋掛りを歩んでいる時、胸元から顎すじにかけて、面から頭部へと、えたいのしれぬきらきらとした深い輝きが、発散されることがある。

 

 そうした不思議な輝きは、おそらくこの国だけに限らぬ力ある芸の妖気に属するのだろう。それが、人形や面という器である場合、いっそう憑霊対象めいた不思議な場を生みやすいのだろうか。

 

 

 

 10 日本文学の空を思うとき、怪力乱神のゆく疾風のような空や、ものもけの領する渋滞した空間とともに、かぐや姫の翔び去った暗黒の夜空と、羽衣の天女が溶明しつつ消え去った明るい春の空を対照的に思い出す。

 

 空はまだ力をもっていて、人の心や、美しいイメージや、ドラマや、憧れを、永遠に存在させるためにとっぷりと深く吞みこみ、消滅させつつ、この空の果てに何かがあることを、その蒼さ、はるけさとともに伝えていた。

 

 力ある空の夕暮れを眺めつつ、豊穣な満足感を徒然草の中の世捨人が「この世のほだし持たぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」というそのまなざしの彼方に晴れていた夕空は、どれほど透明な明るさにみちていただろう。

 


永田和宏著 『近代秀歌』

2018-07-22 14:55:12 | 文学

永田和宏著  『近代秀歌』

 

 

著者の永田和宏氏は「現在の社会から、共通の知的基礎というべきものが消失していく現状に危惧を懐かざるをえない。話題と言えば、昨日テレビで見たお笑いやバラエティー番組、スポーツか芸能に限られるのは、あまりにも寂しい。

 

 相手の意見を聞いて、次々に自分の考えを付け加え、そこから話題が展開することがない。話題が散発的なのである。刹那的な会話はあっても、意見や考え方のやり取りとしての喜びと発展はないだろう。何かを質問しても、「別に」の一言では、本当の友人関係は成立しがたい。」という。

 

また、「文化とは大切にしまっておくことではない。日常の中で活かしてやるべきなのである。日常会話の端々に、詩歌のフレーズがチラッとかすめたり、ある場所や風景に出会った時に、一首の歌をかすかに思い起こしたりすることが、文化を大切にすることであろう。」ともいう。

 

実際に行ってみたくなった歌があった。

 

 

1(石川啄木)

        不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて

 空に吸われし

 十五の心

 

 

 

不来方(こずかた)のお城は、盛岡城の別名。啄木が中学時代に過ごした地。

 

 

        東海の小島の磯の白妙に

われは泣きぬれて

蟹とたはむる  (一握の砂)

 

 

この歌は、カメラの移動の仕方である。大きな景から小さな景へ、連続的に移っていくようなカメラワークの最後に、作者が居て、蟹がいる。つまり、東海、小島、磯、白砂、そして我と蟹という景が、カメラのレンズのようにどんどん絞られ、小さなものへ収斂しいく。

 

 

 「東海の小島の磯」はどかか。失意の啄木が一時的に住んでいた函館の大森浜を指す説が有力。

 

 

2(与謝野晶子)

 

        清水へ祇園をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき

 

        ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清滝夜の明けやすき

 

 

 昌子は数詞を使うのが巧い。もう一つ、、地名を歌に入れるテクニックは突出している。

 

歌人河野裕子は、「清水へ」の歌の現場を辿るべく、昌子と同じ道を歩いた。そして、

        「およそ百年前にこの同じ道筋を歩いたひとりのうら若い女性がいた。まだ世に知られることもなく、ただただ恋をして、ひたぶるに歌をつくった。その人は寡黙で、無造作に柔らかく着物を着ていたけれど燃えるような眼をしていたに違いない。」(『京都歌紀行』)

 

 

・鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男(びなん)におはす夏木立かな

 

 

 鎌倉に旅行する際に、是非、持参した歌である。

与謝野鉄幹と晶子夫妻は、日本国中を旅行したことで有名だ。

 

 鎌倉高徳院の大仏は実は釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来だが、昌子はそれにこだわらない。大まかである。

 世の人は、尊い仏だから、美しいや美男は礼を失するというが、昌子は社会常識にとらわれない。美しいものを美しいと言って何が悪いという姿勢が見える。

 

 

若山牧水

 

 ・ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り

 

 

 若山牧水の故郷は、宮崎県東臼杵郡東郷村。現在の日向市。生家は保存され、牧水記念館が建てられている。生家のある坪谷から、尾鈴山が見える。

 

 故郷に牧水が帰っても、自分を理解してくれる人間はいない。幼い時から見慣れた尾鈴山に向かっているしばらくの間が心休まる時だったのだろう。

 

 

 

 

 

3 心に残った言葉

 

 

        優れた歌はそれ自身として多くの想像力を掻き立ててくれるだけでなう、いくつもの歌に連想を広げてくれるものだ。

 

 

        写生というのは、目にしたすべの事象の中から、ただ一点だけ残して、他はすべて消し去る作業であると考えている。すべてをリアルに写し取ろうとするのではなく、その場の自分の感情にもっとも訴えてきた、たった一つの事象、対象だけを残し、あとは表現の背後に隠してしまおうとする態度を写生と呼びたい。

 

 

  ・詩の真実は、現実にあったかどうかとは一対一で結びつけられるべきではない。あくまで読者が、そこに現実にあっても、虚構であっても、作者の真なる思いを感じとれるかどうか、それが作品評価のすべてであると言い切っていいだろう。

 

 

・人間は「無い」と言われると、逆に「無い」はずの存在を思い浮かべる。このパラドックス。「これは嘘ではありません」と言うと、その言動がどこか嘘らしく見える。

 

板垣は斎藤茂吉の弟子だが、自著の中で、こう語る。

 「それだかららいけない、君は。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ。粗末にしてしまうから、人に取られてしまうのだ。今の君の言った言葉は哀草果に聞かれてしまっている。見らっしゃい。哀草果は必ず作ってよこすから。造語は一生に一度、使って二度ぐらいに止めるもんだっす。大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないっす。」と、きびしく、斎藤茂吉に訓戒された。この地方では、「さかさ波」「さかさま波」と常に言っており、それを私が「さか波」と言っただけで、至って軽い気持ちから言ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

5  面白みを感じる歌

 

 

土屋文明

 

        ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し

 

山場の鳴き声が「ツチヤクンクウフク」と聞こえた文明。これは敗戦という挫折を力に変えて生き抜こうとする強さが感じられる。

 

6 戦争で人間が変わる歌

 

 土屋文明

 

 ・ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交(まじわり)絶てり

 

 

 私より貧しい友人が一人だけいた。言外に、自分も同じように貧しかったと、言っている。共に貧しかった二人の友人が、金の貸借で交わりを絶つことになった。苦い思い出である。

 

 

この歌に続いて、

 ・吾がもてる貧しきものの卑しさを是の友に見て  堪へがたかりき

 

 

 貧しい友と理解しながら、なぜ交わりを絶ってしまったのか。自分自身の持っている「貧しきものの卑しさ」を、この友にまざまざと見ることになる。それが耐え難いというのである。自ら貧しさに喘いでいる人間には、わずかな卑しさが嫌でも見えてしまう。自分を見せつけられているようで、顔をそむけたくなるのだろう。

 

 

  土岐善麿

 

 ・あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

 

  

  老いた妻が「あの戦争にあなたは本気で勝つと思っていたのですか」と尋ねた。この妻の率直な言葉に、はっと胸をつかれたのだろう。

 

 戦争は嫌だと思いながら、いざ始まると、勝たずにおくものかといった気分に簡単に変る。男は社会的動物なので、建前や他人の思惑にすぐに左右される。

 対して、女性は、家族の生命の心配、恐怖など個人のレベルで反応しやすい。そこが女性の強いところだろう。