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大震災が来ると、デマにご用心

2018-11-10 14:56:38 | 

鷲田清一編集 佐々木幹郎、山室信一、渡辺裕

 『大正=歴史の踊り場とは何か』

 

 

 関東大震災の時、有名人はいかに考えたか。

 1「関東大震災時に、渋沢栄一は「天譴」だと云った。賛否両論が当時あったが、東日本大震災も、この天譴説を踏襲する意見が復活した」と。

 

この前の東日本大震災の時も、石原慎太郎氏は、これとよく似た事を言っていたことを覚えている。

 

当時の人が贅沢三昧につとめ、天はそれに天罰を与えたと。

今年も、台風や震災で災害が多かった。まだ、今年中に来るかもしれない。いったん、天気が良くなると、全く、そういう異常気象を忘れてしまう。何とも、勝手な人間よ。

 

 

 

2 永井荷風(当時44歳)の時、関東大震災によって崩壊した東京を歓迎し、「自業自得天罰覿面」と言った。

 

 

3「谷崎潤一郎は震災後の9月4日に、沼津から大阪へ急行で言った。京都、大阪、神戸にも行った。

 梅田、三宮、神戸の駅頭には関東罹災民を迎える市民が黒山のように雲集し、出口に行列を作って、慰問品を配り、停車場前に接待所があった。分けても梅田駅頭の活況はめざましい。

 しかし、京都駅の広場は森閑としていた。平日と同じ雰囲気だった。これを見て、実に異様に感じた。

 当時、上方への遷都の噂があり、京都祇園のお茶屋の女将は、「偉い方が大勢京都へやってこられると、かないませんわ」と言っていた。これが京都人の正直な気持ちだった。

 京都の町は却って平素より活気を失い、根もない流言などを恐れて早くから戸を閉め、他人の救済よりも先ず自警団を組織して火の消えたように静かだった。

 

 一方、阪神間の芦屋は蓄音機がのどかに聞こえてきた。

 大阪は救済事業に盛んである一方で、明るい気分だった。

 

 谷崎は妻子のために火の勢いが遅く弱いように祈りながら、一方で、又、「焼けろ焼けろ、みんな焼けちまえ」と思った。あの乱脈な東京。泥酔し、悪道路と、不秩序と、険悪な人情の外何物もない東京」と。

 

京阪神間でも地震に対する感じ方が違うようだ。大阪人はやはり、賑やかだが、京都人は冷たいイメージ。今も変わらないと思う。

芦屋は地震など、あったのか、という感じ。

 

4 震災後に、流言飛語が流行り出した。

 

流言蜚語が跋扈した理由として、和辻哲郎は「可能性」という言葉が、震災前と震災後で変容したと指摘。

 

 和辻は「震災前には、大地震という可能性を知りながら、ただ可能性だけでは信じさせる力がなかった。震災後はそれがいかに突飛なことでも、ただ可能でありさへすれば人を信じさせた」と。

 

一旦、大災害が起こると、冷静に考えらなくなるのか、神頼みとか、お祓いとか言い出す人が現代でも多い。

震災後、ある人が、明日、また、起ると言えば、何気なく信じてしまう。特に、日本人は誰かがやり出すと、すぐに真似をしたがる。恐ろしい社会現象だ。朝鮮人虐殺などその最たるものか。

 

 

5 日本とアメリカの人形に対する考え方の違い

 

 

 人形は人類発祥以来の長い歴史がある。人形は「ヒトガタ」とも読む。人の魂を込める事ができ、その魂は人形という容器の中でひとりで育つ、と日本人は考えた。その事が日本の人形文化を、世界中で最も洗練されたものにさせ、多種多様な人形を生み出した。

 

 

 現在も、大きな公募展には人形部門があるのは、世界中で日本だけだ。

 

 

「1924年に排日移民法が成立。この機運に抗して、1927年、親日家の宣教師のシドニー・ルイス・ギューリックが、全米から寄付金を集めて日米親善友好の象徴として、一万に千七百三十九体の「青い目の人形」を贈った。対して、日本から「答礼人形」として、五十八体の市松人形をアメリカへ贈った。「青い目の人形」は、第二次世界大戦によって、現在では消滅した。敵国生まれの人形として焼却された。人形に魂が宿っているとの理由で。アメリカでは日本の答礼人形は虐待を受けず、四十四体が博物館や図書館に展示されている」と。

 

今でも、日本人は人形を大事にする。魂が宿っているので、粗末にできない。だから、自国の人形は大切にするが、一旦、戦争になると、敵国の人形を本当の人間みたいに見て、焼いてしまうとは。