山口 香の「柔道を考える」

柔道が直面している問題を考え、今後のビジョン、歩むべき道を模索する。

リスペクト

2009-02-24 08:28:27 | Weblog
 柔道を修行している外国人は多いが、中には日本語も堪能な人も結構いる

 その中の一人から指摘を受けた

 「あなたは、日本人は’神永先生’と言うが、外国人は’ヘーシンク’と呼び捨てにする。口では、将来、講道館の館長も外国人でも可能性があるといっているが、こういった呼び方を聞くと可能性はないと思ってしまう。」

 確かに、自分では気がついていなかったが、そうだった。早速、記述の部分はヘーシンク氏と訂正した。ヘーシンク氏に直接お目にかかれば、ヘーシンクさんという敬称をつけて呼ぶが、文章を書く場合には違った。そういった無意識の区別がもしかしたら日本人と外国人との壁なのかもしれない

 日本人は、名字(family name)で呼ぶ習慣がある。外国人は名前(first name)で呼ぶ習慣がある。ここで気をつけなければいけないのは、外国人は名前の場合には敬称をつけない。しかし、名字で呼ぶ場合には敬称をつける。こういった習慣の違いが誤解を生じる原因の一つであろう。外国人を呼び捨てにする場合は、名前で呼ぶ場合、そのぐらいの仲になってからということだろう。

 しかし、同じような年齢で同じような実績を持った二人に対して、日本人は’○○先生’と呼んで、外国人は呼び捨てでは、よばれた方は良い気持ちがしないのももっともであろう

 日本人からすれば些細なことと感じ、悪気があってしていることでもないかもしれない。しかし、文化や習慣の難しさはここにある。こういった些細なすれ違いが積み重なって大きな壁を作ってしまう

 また、私たち日本人の気持ちのなかに、やはり日本人の先生に対して持つような尊敬の気持ち、敬う気持ちを外国の先生にも持っているのかどうか。外国人であっても日本人以上に柔道や嘉納師範の教えを勉強している人も多い。頭では理解していても日本人の先生と差をつけてしまうのは何が原因なのだろうか?やはり、そこには柔道は「日本のもの」という驕りがあるに違いない

 海外の有名な楽団などで日本人が指揮を任されることもある。私たちはそういった現象に対して能力があれば当たり前と思いがちだが、そこには外国人の心の広い寛容さがある。そう考えると、日本人の柔道家、私を含めてまだ完全には外国人を理解し、受け入れるには至っていないのかもしれない

 「私はちがう!」と思っていたが、今回、指摘されて改めて反省した。「わかっている」「受け入れている」と思っていた過信があった。おそらく私も含めてすぐに意識を変えることは難しいが、そういう事実があることをまずは認識することが必要で、意識をして変えていかなければ変わらない。そういった日本人の努力が外国人との壁を少しずつ低くしていくのだろう


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