山口 香の「柔道を考える」

柔道が直面している問題を考え、今後のビジョン、歩むべき道を模索する。

ややこしい昇段システム

2009-02-27 11:08:12 | Weblog
 昇段料が高いというご意見をいただき、気になってもいたので少し調べてみた。

 まず、初段を受ける場合、審査料は3千円程度が多かった。というよりも審査料、昇段費用ともに各県でバラバラであることが不思議といえば不思議

 合格した場合の昇段料も各県でバラバラで内訳についてもその県によって違う。

 Aの場合 1万9千円(講道館入門料8,000 登録料6,500 協力費2,200 推薦料2,300)
Bの場合 1万8千円(講道館入門料8,000 登録料6,500 昇段事務費500 県柔連登録費1,000 県柔連振興費2,000)

段は資格であるからという観点からいくとある程度の金額は必要なのだという考え方もある。しかし、町道場の入門料や月謝の額を考えるとギャップを感じないでもない

 また、初段は中学生、高校生が受ける場合が多く、こういった年齢における配慮がされていないことも問題かもしれない。中学校、高校、大学の授業において柔道が行われ、昇段するに値する実力を身につけても、この値段だったら?と躊躇するケースも否めない。

 また、県によって事情が違うことも理解できるが、ある程度整合性を持つべきだろう。

 講道館においても昇段審査は行われるが、一般的には県の柔道連盟が委託されて行っている。しかし、県の柔道連盟は組織で言えば、全日本柔道連盟の傘下にあり、講道館の傘下ではないのではないか?

 講道館と全柔連の棲み分けを考える上において、こういった構造上の問題がある。昇段に際して、全柔連への登録も義務づけている(料金は3,500)ところもある。なぜ?という疑問は当然起こる。

 おそらくこういった問題についてもこれまでトップが同じであったことで、なんとなく機能し、なんとなく受け入れられ、継続してきてしまったのだろう。しかし、今後の柔道の普及・発展を考えれば昇段料、昇段資格の問題、審査機関などを考えていかなければならないことは必然であろう

 こういった観点から考えても講道館、全柔連のトップは分けるべきだと思われるのだが

講道館のリーダーとしての役割

2009-02-26 13:32:57 | Weblog
 講道館は、世界の柔道の象徴であり、本山であり、リーダーでなければならない

 柔道を支えているのは、世界中に広がる柔道家ひとりひとりの努力である。皆、柔道を愛し、情熱を注いでいる。その情熱をさらに熱くさせるのがリーダーの役割であろう

 武道の精神は武士道からきている部分が多い。武士道精神の基本は「’武士が君主に対する忠誠であり、その忠誠と奉公に報いる褒美や恩を君主が与えるもの。そのご恩にまた応える」といった関係だと考える

 柔道家は柔道に忠誠を誓い、日々の努力、苦労を厭わない。道場で学校で毎日子供達を教えている人がよい例であろう。柔道はお金にはならない。こんなご時世であるにも関わらず、雀の涙ほどの月謝で教えている人たちがほとんどである。学校の先生方もそうである。先生方の多くは大型免許を持っているし、自分もワゴンを所有しているケースが多い。なぜなら、合宿や大会のときに少しでも子供達の経済的な負担を軽くするためだ

 朝練で早くからでかけ、夜も練習で遅くなり、週末は遠征で自分の子供と会うことも少なかったのだろう、ある日子供が「お父さん、また来てね!」と言われてしまったという笑い話とも言えない話がある。家族を顧みないで柔道にかけることが今の時代に許されるかどうかは疑問もあるが、そこまで柔道に尽くしている大勢の人たちの支えが柔道を支えているのは紛れもない事実である
 
 事業で成功したお金を寄付したりすることも貢献であろうし、指導以外の様々な貢献の形があることも忘れてはならない

 では、この忠誠にリーダーとしての講道館はどう応えるべき、応えてきたのか?

 わかりやすいのは昇段であるが、以前にも書いたように昇段の制度に不備があり、与えられるべき人にきちんと与えられていない。バルセロナ五輪金メダリスト古賀、吉田を生んだのは柔道の私塾「講道学舎」である。学舎をつくったのは横地治男氏(2007年没)である。彼は私財を投げうって「世界人類のために貢献しようとする国家有為の人材の育成」を掲げ、中・高校生を一貫して育てる全寮制の学び舎をつくった

 平日は5時40分に起床、朝稽古をしてから学校に通う生活。柔道の強さだけでなく、精神教育も重んじた。私も何度かお目にかかったことがあるが、常に凛として言葉に力がある方であった。こういった厳しい教育が古賀、吉田という世界を魅了する技と精神を持った人材を輩出した

 講道館の顧問も務め、世界選手権、オリンピックの壮行会ではいつも肝がすわるような言葉と激励費をいただいた。お札が立つほどの額だったと記憶している。選手達が活躍するには、規則にはまらないお金も必要だろうとの配慮だった。晩年は足がお悪く、女性が手を引いてマイクまで歩くことがあったが、話をし終わった後には元気が出たのか、逆に女性の手を引いてかえってこられるなどという、お茶目な愛すべき一面も持たれた方であった

 横地氏の葬儀に参列した時、お焼香をしていて一枚の賞状が目に止まった。お焼香しながらジロジロ見るわけにはいかなかったが10段という文字が目に入った。心密かに「講道館もやるときはやるな」とその時は思った。しかし、その後、聞いてみるとその賞状は相撲協会からのものであったことがわかった。亡くなられた時の横地氏の段位は8段で9段への昇段はその後も行われていないでは、どういったひとが9段に値するのだろうか?

 これは一つの例である。私が知らない方々で、柔道界への貢献を考えれば昇段に値する人が大勢いるに違いない

 全日本選手権は、最も権威のある大会である。この大会に「全国で指導されている人たちを何人かずつ、功労者として招待したら」と提案したこともある。旅費を出すことは難しくても、大会の中で紹介し、日頃の労をねぎらうことはできる。私の想像だが、講道館から表彰されるとなれば、旅費などでなくとも全国どこからでも馳せ参じるに違いないと思う。そして、たかが紙一枚の賞状だが、その誇りを胸にさらに柔道に尽くしてくれることは想像に難くない。残念ながらこれも実現には至っていない

 権力を振りかざし、力で押さえつけるリーダーでは組織はうまく動かない。人間は利の為、力に屈して従うこともあるが、命を賭してでも尽くすのは「義」であり、意気に感じるからだろう。

 これまで講道館は、柔道に力を注いできた功のある人たちに対して報いていないと私は考えている「やればできる」簡単なことでもやろうとしてこなかった。そこには弟子を思う師の気持ちがないとしか言いようがない

 私たちのように大会で活躍した人間はまだいい。なぜなら、講道館以外でも世間一般の人たちから評価をいただける。しかし、以前にも書いたが、柔道界を支えているのは世界チャンピオンではないそしてその人たちの縁の下の力持ちの活躍を評価してあげられるのは師であり、親である講道館しかないではないか

 福田敬子先生(講道館女子9段)が話してくれた「今の先生方は下の人たちの面倒を見ないような気がしますね。昔、私の知っている先生で’私はね、嘉納先生に会いたくて毎日講道館にくるんですよ’という人がいました。本当に師範は慕われていたんです。」

 柔道ルネッサンスで私たちは、「感謝する心」を大事にといった活動もしている。しかし、講道館は柔道に尽くしている人たちに心から感謝の気持ちを持っているのだろうか生意気だとはわかっているが、誰かがいわなければ講道館柔道は本当に駄目になってしまう。なぜなら、今はまだ、柔道への情熱を持っている人が多いが、私の感覚では若い人たちにそれほどのものがあるかどうか?しかし、そうなってきた原因はどこにあるのか?今こそ、真剣に考える時であろう

教育と経営

2009-02-25 16:03:03 | Weblog
 世界200カ国近い国々で行われている柔道が、嘉納師範の考えられた柔道であり続けるためには、確固とした理念が必要である。これがしっかりと受け継がれていけば、国によって技やスタイルが多少変わったとしてもそれは大きな問題ではない

 現在、柔道に足りないのはその核となる「理念」の共有ができていないことにあると思われる。柔道の理念は「精力善用、自他共栄」だといえるだろうが、そのことを全ての柔道家が日本国内だけをみても本当に理解し、実践しているといえるだろうか

 ある先生が言われていたのは「柔道を道場でやったからといって柔道の精神が学べるものではない。確かに柔道の修行によって強いからだ、我慢強さ、何かに向かっていく強い気持ちなどは身についていくかもしれない。しかし、それと同時に柔道の精神は何であるのか。何を大切にしていかなければならないのか、といったことは言葉によって教育していかなければならず、柔道をやったから自然と身についていくものではない。今の指導者はその部分を理解していない。」と言われていた。

 福田敬子先生(講道館女子9段、アメリカ在住)にお目にかかったときに「嘉納師範はいつも’精力善用、自他共栄’とおっしゃられていたので、話が始まると’また始まった’という顔をしている人もいました。本当に耳にタコができるぐらいお話をされていましたから。」という話をしてくれた。

 確かに様々な大会において偉い先生方がされる挨拶のなかにも「精力善用、自他共栄」という言葉を聞くことはあまりないことに気がつく

 同じく福田先生が「なぜ柔道ルネッサンスなんですか?精力善用、自他共栄と言わないのですか?」と言われていた。柔道ルネッサンスは柔道が競技としての側面が強くなり、勝利至上主義になったことを危惧して柔道の教育的な理念を再認識しようと始まった講道館、全柔連の合同事業である。これまで考えたことはなかったが、福田先生の言われるとおり、「精力善用、自他共栄」という言葉の中に柔道の教育理念が全て含まれているのだから、その言葉をなぜ使わないのかとも思う

 一般の人にも、子供にもわかりやすくという配慮だったのかとも思うが、柔道家にはこの言葉だけで十分なはずである。逆に言えば、この言葉で説明できないことに問題がある

 組織である以上、運営や経営も大事な部分である。以前にサッカー協会の取り組みについて書いたが、彼らの経営能力は非常に高い。審判や指導者資格などが資金の一つの核となっている。そういった資金によって新たなサービスが提供できる。しかしながら、たかが子供のサッカーの審判をするのに、指導をするのに資格が必要なのか?といった議論も当然あるはずである。ユニフォームにも細かい規則があって、「メーカーと結託しているのでは?」と感じる部分もある。が、しかし、そういった全ての問いに答えるのが彼らの掲げる理念「百年構想」なのである。この大きな理念のもとに皆が同じ方向に向かって進んでいけるのである

 柔道には残念ながら理念も経営もどちらも不十分だ。柔道の理念は「金メダルをとること」なのか?おそらく多くの人は違うというだろう。であれば、金メダルを取ったからといって、強いからといって許されないこともあるし、戒めるべきところがあるはずだ

 ガッツポーズの問題ひとつとっても、論理的に良いか悪いかを説明できる指導者がいるだろうか。おそらく嘉納師範であれば言えたはずである。「正しい柔道」とは具体的にはどんな柔道なのですか?と聞かれたらなんと答えるのか

 柔道が国際化したことによって日本はそれに対応しなければならないというが国際柔道連盟の動きに対応するのはマネジメント力があれば対応できる。マネジメント力に長けた人材はその気になって探せば大勢いる

 理念を語れるリーダーを探すことは難しい。自分の言葉で理念を語り、伝え、納得させることができるかどうかが重要だ。ある種のカリスマ性も必要だし、何より柔道への情熱がその人から感じられることが重要だ。日本は柔道の創始国でありながら世界のリーダーになれていない理由もそこにあるような気がする

 少し前までは、いい意味での「柔道馬鹿」がたくさんいた。私は最近、孤独を感じることが多い柔道を熱く語ると自分が浮いているのを感じる。まわりの雰囲気が「この人何一人で熱くなっているの?」なのだ。そして最後には「なるようになるんだからしょうがないんじゃない」といった言葉で終わってしまう(また愚痴っぽくなってしまった

 とにかく、言いたいことは、教育(理念)と経営は柔道の両輪であり、どちらも大事であることは間違いない。きれいごとだけでは進まないこともある。だからこそ、柔道界には二人のリーダーが必要だろうということである。なぜなら役割が全く違ってくるからである。父親を支える母親のような関係だろうか

 柔道界を良く見れば、この役割を果たす人材がちゃんといる理念や夢を語ることに長けた教育者タイプと実務能力に長けた管理職タイプ。その人たちの能力がどんなに高くても適材適所でなければ発揮されない

 このブログにいただいたご意見の中で、「けんかしないで仲良く」といったものがあったが、まさにその通りである。権力が集中しすぎれば歪みを生み、争いもおこりやすいそれぞれが自分の能力のある部分で頑張ること、そして自分の能力を過信しすぎて欲張らないこと、皆で力を合わせて頑張る柔道界であるべきだまさに自他共栄の精神で

リスペクト

2009-02-24 08:28:27 | Weblog
 柔道を修行している外国人は多いが、中には日本語も堪能な人も結構いる

 その中の一人から指摘を受けた

 「あなたは、日本人は’神永先生’と言うが、外国人は’ヘーシンク’と呼び捨てにする。口では、将来、講道館の館長も外国人でも可能性があるといっているが、こういった呼び方を聞くと可能性はないと思ってしまう。」

 確かに、自分では気がついていなかったが、そうだった。早速、記述の部分はヘーシンク氏と訂正した。ヘーシンク氏に直接お目にかかれば、ヘーシンクさんという敬称をつけて呼ぶが、文章を書く場合には違った。そういった無意識の区別がもしかしたら日本人と外国人との壁なのかもしれない

 日本人は、名字(family name)で呼ぶ習慣がある。外国人は名前(first name)で呼ぶ習慣がある。ここで気をつけなければいけないのは、外国人は名前の場合には敬称をつけない。しかし、名字で呼ぶ場合には敬称をつける。こういった習慣の違いが誤解を生じる原因の一つであろう。外国人を呼び捨てにする場合は、名前で呼ぶ場合、そのぐらいの仲になってからということだろう。

 しかし、同じような年齢で同じような実績を持った二人に対して、日本人は’○○先生’と呼んで、外国人は呼び捨てでは、よばれた方は良い気持ちがしないのももっともであろう

 日本人からすれば些細なことと感じ、悪気があってしていることでもないかもしれない。しかし、文化や習慣の難しさはここにある。こういった些細なすれ違いが積み重なって大きな壁を作ってしまう

 また、私たち日本人の気持ちのなかに、やはり日本人の先生に対して持つような尊敬の気持ち、敬う気持ちを外国の先生にも持っているのかどうか。外国人であっても日本人以上に柔道や嘉納師範の教えを勉強している人も多い。頭では理解していても日本人の先生と差をつけてしまうのは何が原因なのだろうか?やはり、そこには柔道は「日本のもの」という驕りがあるに違いない

 海外の有名な楽団などで日本人が指揮を任されることもある。私たちはそういった現象に対して能力があれば当たり前と思いがちだが、そこには外国人の心の広い寛容さがある。そう考えると、日本人の柔道家、私を含めてまだ完全には外国人を理解し、受け入れるには至っていないのかもしれない

 「私はちがう!」と思っていたが、今回、指摘されて改めて反省した。「わかっている」「受け入れている」と思っていた過信があった。おそらく私も含めてすぐに意識を変えることは難しいが、そういう事実があることをまずは認識することが必要で、意識をして変えていかなければ変わらない。そういった日本人の努力が外国人との壁を少しずつ低くしていくのだろう

システム作りが重要

2009-02-23 08:52:37 | Weblog
 人間は人間である以上、好き嫌いはあるだろう。また、好きな人間同士が集まってグループを作ったり、派閥が生まれたりする。しかしながら、好きな人間同士は考え方や行動形態も似ているので、一方方向には優れていても反面、弱い部分を持っているケースが多々ある。個人的には好き嫌いはあっても組織の中では互いの意見を聞き、優れた面を尊重しあって折り合いをつけていくことが組織のあり方だと考える

 選手選考や今回の件もそうだが、何か発言をすると、それが組織論やシステムに対しての提言であっても、対象人物がいる場合には、個人攻撃に見えてしまうことがある。これは建設的な議論をしていく上で非常にマイナスである

 例えば、今回の全柔連会長、講道館館長の人事についてもそうである。新聞各紙が上村氏の後任が有力と報じたことを受けて、議論をするにあたってはその名前を出さざるを得ない。そうすると、大方の見方は、個々の対立構図なのではないかということである。こうした見方は非常に短絡的であると思うし残念だ
「仲がいいか悪いか」といった次元の低い話ではない

 前述したように、個々の好き嫌いや派閥などがあるのは仕方がない。しかし、だからこそ、そういったものが極端に入り込む余地のないシステムを作り上げる必要があるのである。システムがしっかりしていれば選ばれた人間も、組織の信任、組織に属する人間の信任を得た上にのっかっていることとなり、活動もスムーズに行うことができる

 アメリカの大統領制と日本の総理大臣の違いをみればわかる。アメリカの制度に問題がないかと言えばそうではないと思うが、少なくとも国民の民意が反影されていると実感できる。そして民意を受けているからこそ、個々の利害や好き嫌いを超えて協力しあえる強い組織が生まれる

 システムがなく、あるいは機能していない組織は独裁政権になりやすい。現在の国際柔道連盟(IJF)がそうである。理事会メンバーの半数以上が会長指名であることから、協力なリーダーシップが期待できる反面、間違った方向に進んでいったとしても止める術はない

 いみじくも現在の独裁的体制をIJF会長が作るにあたって「日本の講道館にならった」といった趣旨の発言をしている。つまり、講道館も会長の指名や意志が反影される部分が非常に高く民主的なシステムではないと指摘されたのである

 IJF会長は、ランキング制の導入やルールの改正など改革を進めている。アイデアはすばらしいと思う部分も多々あるが、問題はやり方であろう。前会長の朴氏を追い落とすようなやり方で会長に就任した経緯、自分に歯向かうものは徹底的に排除する姿勢などなど、恐怖政治に近い。そして、独裁政権の特徴が権力の一部集中である。弱いものが歯向かってこれないように権力を一カ所に集中し、弱いものを統制していく。現在行われている改革の多くも柔道大国や強豪国(当然日本も含まれる)にはメリットがあるが、弱小国や発展途上国には恩恵はほとんどない

 話がそれたが、講道館や全柔連も誰が会長になるかが問題ではなく、その選出方法があやふやでシステムとして確立されていないことが問題なのである。対立構図があるのであれば、選出の過程の中で、公の場で争うべきであり、そうであれば禍根を残すことが抑えられる。今回のやり方は、対立構図を出させないように候補をあげてしまっている。古い自民党の密室政治となんら変わりがない。このやり方が組織を腐らせ、今の自民党の低迷に至ったのではないか

 最終的に誰が全柔連会長、講道館館長に選出されるかはわからない。率直に言って誰だから良い、誰だから悪いということではない。選ぶ過程を明らかにしてほしいのである。そして、世襲制が終わる今回こそがそのチャンスなのである

 講道館会長の任期7年は一般的に考えて長過ぎる。また、理事、評議員の数のバランスも財団法人としては悪い。おそらく、こういった不備が公益法人の見直しで指摘されることが予想される。「だから、慌ててこの時期に交代してしまうのでは?」などという穿った見方もあるぐらいだ。痛くもない腹を探られるのは心外であろうから、ここは1年、会長、館長代行で実務をこなし、その間少し時間をかけてシステムを見直すのが賢明だ

 これまで柔道界は人間関係、それも狭い人間関係のなかで構築されてきた。大学の派閥もそうだ。しかし、そういった時代はもう終わりにしたいし、しなければならない。強かった人間だけが認められる時代も終わりにしたい。柔道を愛している人間で能力を持った人間は、見る気で見れば大勢いる。そういった優れた能力の活用こそ、日本が国際柔道に対応し、さらにリードしていくための条件であり、そのシステムを構築させることが急務なのだ

事象ではなく本質を見る

2009-02-21 18:23:58 | Weblog
 最近流行の言葉として用いられる「横文字のJUDO」という言い方が嫌いだ。柔道は横文字であっても柔道に変わりがない。こういった言い方をする裏には日本人の海外の柔道家達に対する差別的な感覚が感じられる

 確かに海外の柔道には首を傾げたくなるようなスタイルも多く見受けられる。しかしながら、彼らの多くは日本人の素晴らしい技や柔道スタイルを尊敬している。どこで試合を行っても日本人は人気があるし、見事な一本には大きな拍手が起こる

 彼らが言う「私たちも日本人のような柔道をとりたいし、憧れもあるしかし、日本のような優れた指導者が少なく、練習環境も整わず、伝統や歴史の浅い中では難しいのが本音だ。また、尊敬や憧れはあるが、勝負となれば別の問題でもある試合であれば勝つ為に戦術を考える。柔道の技では日本人に勝てないかもしれないが、勝負ではやり方によっては勝つチャンスがあるそして、結果を出すことが、私たちの国の柔道をさらに普及・発展させる力となる多くの人が日本人のように柔道をするようになれば、それが積み重なって歴史となり、日本人にも負けない技をもった選手を生み出していけると信じている

 柔道ではなくサッカーで考えてみてほしい。私はブラジルの個人技が溢れた、攻撃的なサッカーが好きだ。パスばかりつないで中々ゴールに向かない日本人のサッカーはみていてつまらないと感じることも多いでは、日本人がブラジルのようなサッカーができるだろうか?目指すことはできるが、きっと同じことをしていたら永遠とはいわないが追いつくには非常に長い時間がかかることはわかる。なぜなら歴史も文化も環境にも大きな違いがあるからだ。憧れはしても、日本人には日本人の良さを活かしたプレースタイルがあり、それを追求することが勝利を導く

 これに対して、ブラジル人が「日本のサッカーはサッカーじゃない」と言ったら日本人はどう思うだろうか。これと同じことを日本人は柔道では外国人に平気で要求し、言っていることに気がついていない。日本の柔道の技やスタイルとは違うかもしれないが彼らが勝つ為に必死で努力していることは認めてあげなければならない

 「あんなのは柔道じゃない」「あいつらに柔道なんてわかるわけがない」こういった上から目線で彼らをみていて仲間になれるわけがない。まずは、相手のことを理解することが重要だ。日本ではメジャーな柔道が、海外ではマイナーであり、恵まれない環境の中で努力しているのである。逆にいえば、そんな中でも柔道を選び、精進していることには頭が下がる。

 200カ国に柔道が広まっているということは、嘉納師範がつくられた柔道が正確に伝わっているとは思えない。伝言ゲームのように、徐々にズレが生じて最後には全く違ったものとなってしまっている可能性もある。だからこそ、私たちは海外の柔道に文句を言う前に、講道館柔道を正確に伝えていく努力をしていく使命と必要がある

 これまでも多くの指導者が海外で指導をしてきたが決して十分とは言えない。また、そういった努力をしている人たちに対して講道館の支援はあまりない。財源を確保し(どのように確保するかについてはまた改めて述べる)、組織的に継続的に広範囲に指導者を派遣していくシステムを作り上げることが大切だ

 奨学金の制度を作り、海外からの選手、指導者ももっと受け入れていきたい。講道館柔道の理念とともに、優れた柔道の技を指導し、強い選手、優れた指導者を育成する。彼らが自国に帰って、選手として、指導者として活躍することは確実に講道館柔道が広まったといえるはずだ。さらに彼らが国の柔道界のトップになれば、必ずや講道館と手を取り合って世界の柔道を考えていくに違いない

 前にも述べたが全柔連が日本人の金メダルにこだわるのは仕方がない。しかしながら講道館はそうであってはならない。講道館柔道を学ぶ姿勢のある選手はどこの国の選手であっても受け入れる懐の深さが必要だ

 私は東京オリンピックの年に生まれたので、神永先生がヘーシンクに敗れたシーンは映像でしかみていない。あの場面が流されると必ず「日本柔道敗北の日」といったようなコメントが添えられる。果たしてあの日、日本柔道は敗れたのだろうか?

 ヘーシンク氏が勝利した瞬間、コーチ陣が喜びのあまり畳に駆け上がってこようとするが、ヘーシンクは非常に冷静に手で押しとどめている。ガッツポーズもなし、喜んで飛び跳ねることもなく、礼をし、神永先生と抱き合い、お互いの健闘を讃えあった。最近の日本人選手よりもよほど礼節を重んじているように見えた

 ヘーシンク氏は、長い間、日本で修行をしていたらしい。だから、彼が強くなったのは日本での修行のお陰であり、だからこそ日本柔道の大事にしているものをわきまえた行動が歓喜の瞬間にも自然にできたのである

 メダルをとったのはオランダ人であったかもしれない。しかし、これは同時に講道館柔道の勝利の瞬間でもあったはずだ。オランダ人に講道館柔道の教えが確実に伝わったことを示したのだ

 事象や現象にごまかされず、物事の本質を見なければならない

 日本人だからではなく、柔道を志すものは皆仲間であり、家族である。その中心にあり、繋ぐ役目を果たすのが講道館なのだと私は考えている。だからこそ、そのリーダーは大事で、メッセージ性が強い。ここで全柔連と講道館のリーダーが再び同じになれば、それは講道館が日本に目を向けているということを世界に発信することにもなりかねない

 しつこいかもしれないが、全柔連と講道館、絶対にリーダーは分けることが肝要だし、そうでなければ講道館が日本向きにとらわれず世界をみた上での改革は難しい

嘉納師範の意志を継いで

2009-02-20 23:16:41 | Weblog
 今朝アップした内容に対して多くのコメントをいただき、とてもありがたく、勇気をもらいました。感謝

 いただいたコメントの中に、講道館は世界をみて普及・発展を行っていくのであれば「館長も日本人とは限定しなくてもよいのでは」といった意見があったので、そのことについて少し私の考えを述べておきたい

 将来的には勿論外国人であっても構わないと考えている。しかしながら、今の段階においては難しく、段階的な進み方が必要である。

 講道館柔道が世界200カ国近くに広まっている今、各大陸もしくは地域に講道館の支部をそれぞれ置くべきであろう。そこには支部長?支部館長?をおき、その地域の普及・発展に努める。支部長は講道館柔道、嘉納師範の理念を共有する人間であればもちろん外国人であっても問題はない

 そこを中心に昇段試験、形講習会、指導者講習会、選手育成の為のキャンプなども定期的に実施していく

 年に一回、講道館において世界会議を行うようにして世界的な柔道の正しい発展について討議する。柔道サミットと呼んでもよいと思う

 まずはこういった世界における講道館の組織を盤石なものとしていくこととが大切である。その後、各支部長の中から優れた人材を館長として選出することもあってもよいと考える

 そもそも私の考えでは日本人ばかりが柔道を愛し、理解していると考えているのは思い上がりである。海外の人でも嘉納師範の理念はもちろん、柔道についても日本人以上に造詣の深い人もこれまで多くみてきた。逆に近くにあって知った気になっている私たちよりも勉強している場合も多々ある

 例えば、新聞各紙の今日の記事をみても、講道館館長と全柔連の会長を同じ人間が兼務することに対して何の疑問もなく、解説もコメントもなされていない。おそらく一般の日本人(たとえ新聞記者であっても)は、講道館と全柔連の区別、役割の違いなどわかっていないし、知ろうともしていない

 柔道は嘉納師範が創始されたものだが、師範はそれを日本のものとするのではなく、世界へ広めていかれることを望まれた。その意志を私たちは継いでいかなければならない

講道館の重み

2009-02-20 07:35:01 | Weblog
 今朝のいくつかの朝刊に講道館館長ならびに全柔連会長を嘉納氏が任期を残して、その職を辞すことを表明したという記事が載っている。後任は、現在、全柔連専務理事である上村氏が有力であるとのこと。

 やはり、噂は本当だったのだ

 ここでいくつかの疑問がある。なぜ今なのか?両団体ともに、3月13日(講道館)、16日(全柔連)に行われる会議までに後任を考え、決定するそうである

 社会人として考えた場合、一般の社員であっても職を辞する場合には突然の病気や事態といった以外の一身上の理由のときには、少なくても3ヶ月ほど前に申し出て後任の準備期間と引き継ぎをしっかりすることが常識であろう。それが館長、会長となれば、なおさらではないか?突然の表明は少し前の総理大臣のような「投げ出し」たといった無責任な印象を受ける

 また、後任の名前がすでに挙がっていることも解せない。こうなると、上村氏を後任と考えて職を辞するということなのだろうか。おそらくそうなのであろう。

 しかしながら、会長が後任を指名して受け入れられるほど事は簡単なことなのだろうか?

 まずは、この機会に全柔連と講道館をきちんと分離する必要があると考える

 読売新聞に国際的な圧力に対抗する為に実質的なリーダーが必要といった内容が書かれていた。確かにそうである。しかし、だからこそ、全柔連と講道館を分離し、役割、立ち位置を明確にする必要がある

 全柔連は言わば日本の競技団体であり、日本選手の金メダルを追求していくこと、国内においての柔道の普及・発展に寄与していけばそれでよい。講道館は、言わば世界の柔道家達の本山でありメッカである。講道館は日本という狭い世界ではなく世界をみていく責任がある。言えば、これまではそれをしてこなかったから世界の信頼と尊敬を失ったといっても過言ではないこのように進むべき方向の違う二つの団体を同じ人間が束ねていたこと自体、これまでも無理があった

 国際的に広がった柔道に対して行くべき道を示していくのは「講道館」しかない日本選手が金メダルをとることでは決してない。講道館が嘉納治五郎の柔道の理念を発信していくには、ニュートラルな立場が必要なのである

 はっきりいって私は、全柔連の後任人事にはあまり興味がない。全柔連は一競技団体に過ぎないからだ。講道館は違う講道館の館長は私たち柔道家の象徴であり、シンボルなのである。その人は、日本人からみても世界の人たちからみても「納得」できる人でなければならない。

 それでは誰がふさわしいのか?簡単に考えれば最高段位10段をいただいている3人の中から選出するのが筋だろう。なぜならば、10段というのは、全ての面でパーフェクトを意味するからだ。だからこそ、通常、存命のうちに与えられるケースは極めて少ない。にもかかわらず、10段の先生を差し置いて段位の低い先生が館長になるということは、講道館の根幹である段位制度を自ら否定する事になる

 世界中にこのニュースが流れても、10段の先生が館長を継承すれば、非常にわかりやすい。

 柔道人の考えから言えば、10段の先生を差し置いて、館長に推されたとしても「自分には荷が重い」と辞退するのが通常考えられる行動だろう。最近、日本人の謙虚さや美徳とはどこへいってしまったのか?

 確かに、講道館には改革も必要である。そういった意味ではマネジメント能力も大いに重要である。であれば、副館長を数人おき、組織がきちんと機能するように体制を整えれば良い。組織を改革し、盤石にするチャンスである

 この数年間、選手選考においても、国際柔道連盟のことについても「無理が通れば道理が引っ込む」「出来レース?」「柔道界にモラルはないのか、自浄作用はないのか」といった思いをずっと持ち続けてきた。正直、今の柔道界にがっかりさせられることも少なくない

 さびしいのは、多くの先生方が自分の考えをストレートに言われないことだ。それぞれの立場があるのは理解できるが、言わなければならないときにものを言えない人がそのポジションにいる価値がそもそもあるのだろうか

 このブログをはじめて、多くの方から言われるのは「大丈夫ですか?あんなにはっきり書くと何か言われたりするのではないですか?」ということだ。確かに面白くなく思っている人は多いかもしれないが、正面からの圧力や批判は一切ない。つまり、相手にされていないのである

 しかし、相手にされないほどの下々の私でも柔道の将来を必死に考えて、善かれと思う行動、発言をしている。なぜ、大先生と言われる大きな力と影響力を持った方がこういうときにこそ動いてくれないのだろうか。

 女子の段位のことについて以前書いたが、女子の帯の白線や昇段などについては断固として変えることを拒んでこられた。ブルー柔道着についても反対した経緯がある。わたしからすれば、講道館館長を誰にするかということに比べれば、これらのことなど本当に小さな小さな事柄である

 日本の柔道が世界にリスペクトされるには、金メダルをとることでは決してない。日本が、講道館が世界に範を示せる良き行いを示していくことだ

 本当の意味での世界の柔道のリーダーとして、講道館館長として誰がふさわしいのかを「出来レース」ではなく議論を尽くして検討してほしいと心から願う。次回の会議で決定しなければならない理由もない。しばらくは代行をおいて実務は処理すればよい。

 多くの柔道を愛する人たちに申し上げたい。自分たちには縁のないことと無関心になったり、傍観しないでください。声をあげてください。近くの人と話をしてください。教わっている道場の先生に嘆願してください。県の柔道会長に、地区の会長に話をしてください。誰の柔道でもない、私たちが愛して、信じている柔道の将来、未来を決める大事なことなのです

新たな時代?

2009-02-18 10:06:28 | Weblog
 年度末も近づいてきて、企業などでは人事異動なども行われる時期にきているが、柔道においても大きな人事が変わるという噂がある

 長年に渡って全日本柔道連盟会長、講道館館長を兼任されてきた嘉納行光氏が3月31日をもって引退され、後をどなたかが引き継がれるという話である。後任の方の名前も挙がっているが、あくまでも噂の域をでないので実名は差し控える。

 確かに現館長は高齢であり、ここのところの国際的な柔道の動きにおいて多忙を極めていることを考えると引退もやむを得ないのではと考えられる。柔道界ではとかく噂が多いので、この話もどこまで信憑性があるかどうかはわからないが、仮定としても今後のおこるべき問題として考えておくのは非常に大事なことである

 まず、嘉納氏が全柔連会長、講道館館長のいずれの職も辞する場合に、後任はそれぞれに選ぶのが筋であろう。このブログでも前に触れたが、全柔連と講道館は目指す道が違うと考えるので当然リーダーも別であるべきである。そうでなければ、それぞれがうまく機能しない

 全柔連は、副会長も専務理事もおり、会長が任期を残して辞した場合には、当然副会長がその任を代行するのであろうから、ここでは副館長も専務理事もおいていない講道館について考えてみたい。

 講道館の館長は、意図的にかどうかは不明であるが、これまでは世襲制を引いてきた。おそらく次期館長は、現館長に男子がいないことを考えると世襲制ではなくなる可能性が高い。つまり、嘉納姓ではない初めての館長が誕生することになる。このことは柔道にとって歴史的にみても一つの大きな節目となることは間違いない

 そうであるならば、どのように館長が選出されるのか。「おまえたち下々の考えることではない」と一括されそうではあるが、果たしてそうだろうか。講道館柔道は日本全国はもとより世界中の多くの柔道愛好家達によって支えられており、そのリーダーを決めるにあたっては無関心ではいられない

 ということで、講道館の寄付行為(定款にあたる。平成10年改正)を読んでみた。館長に関する部分を抜粋してみると、

*本財団は20名以内の理事をおき、内1名は本財団を代表する講道館館長とする。
*講道館長は維持委員会において選出し、その他の理事は評議員会にて互選する。
*講道館長故障のとき又は欠けたるときは予め講道館長の指名した理事これを代理又は代行する。
*講道館長はその任期を7年、理事の任期は3年、いずれも再任を妨げない。

 この文章を読むと、館長は理事の中から選出されるということになる。現在、理事の数は4名、その中から選ばれるのか?維持委員会とは評議員が維持委員を兼ねるので評議委員会と同様となる。館長の任期が7年という長さにも驚く。

 講道館は長い歴史と伝統のうえにたつが、今後さらに発展していくためには、時代に合わせた変革も大事であろう。そのためには、リーダーは当たり前だが重要である

 講道館の理事、評議員の方々がどの程度の問題意識を持たれているかはわからないが、私たち下々のものは、講道館の現在のあり方に大きな疑問を持ち、改革を望んでいる

 守らなければならない伝統もあるが、水は流れなければ淀んでいってしまう

 万が一にも新しいリーダーに変わるのであれば、まずは、その選出方法などについても一考してもらいたい。世界規模で考えれば何百万人の上に立つリーダーである以上、立候補であるならばその理念を私たちに示し、語ってもらいたい。講道館が支えられているのは、入門料や昇段料に寄るところが大きいのであるから、そういったことは義務であると私は考える

 私は柔道が好きである。その好きな柔道が今後もさらに発展し、世界中の多くの人たちにさらに愛されていくことを心から願っている。「やってみたいこと」のビジョンは山ほどある。おそらく、柔道を愛する人であれば皆同じ思いであろう。そういった人たちの夢を背負うリーダーは、私たちに夢の道しるべを示す責任がある。

 サッカーの100年構想がそうであるように、ビジョンのある団体は伸びる今の講道館に50年先、100年先のビジョンがあるのか

 先日来、中川大臣の問題がテレビで取り上げられているのを見るにつけ、日本人のモラルはどこに行ってしまったのかと思うのと同時に長期政権を築いてきた自民党の断末魔を見る思いである。極めつけは、リーダーの麻生総理に危機感が全くといっていいほど感じられず、国民の世論を無視し続けていることだ

 アメリカも日本同様に苦しい現状の中にいるが、唯一違うことは未来を感じさせるリーダーを持っていることだ。来日したクリントン国務長官をみても同様で、そのクレバーさ、明るさ、誠実さに夢を託したくなる

 国であっても一団体であってもリーダーの果たすべき役割は同じだと考える。講道館が新しいリーダーを迎えるのであれば、密室で何が起こったのかもわからないうちに粛々と人事が行われることだけはやめてもらいたい。情報をできる限りオープンにし、来るべき新しい講道館に私たちはどんな夢と希望を持てるのか、夢を託すに値するリーダーなのかどうかを見極められるようにしてもらいたい

 また、嘉納姓でなくなる(次期館長候補の方が嘉納家に養子に入るとの仰天の噂もあるが、血筋は違うことは間違いない)以上、とくに最初の人間は、人物、教養、柔道に対する見識の深さなど、誰がみても納得しうる人物であるべきだろう。

 過去に柔道界内紛という嫌な記憶があるが、これも館長人事をめぐる問題がきっかけとなった。当然のことながら、あのような事態を二度と引き起こしてはならない。だからこそ、全ての人が納得することは不可能であろうが、公明正大な人事で後に禍根を残さないことを心から願う。そのためにも多くの人たちがこのことに関心を持ち、多くの目でことの成り行きを監視することが大切だ

 また、こういった下々の声が上に届くことを願うばかりだ

区別か差別か?

2009-02-16 12:55:28 | Weblog
 先日紹介したサンフランシスコ在住の福田敬子先生(95歳)は8段から9段に昇段されるまで30年の歳月を経ている。確かに年数だけで昇段できるというものでないことはよくわかる。福田先生の場合には、1990年には勲四等瑞宝章を受けられており、サンフランシスコにおいても様々な賞を受けており、その功績は公的に認められていたことは間違いない

 福田先生の昇段は、講道館昇段システムにおける男女の格差を象徴していると私は思う

 女子柔道の始まりは早かったが、嘉納師範が女子には試合を禁止されたこともあり、競技の歴史は浅い。これによって男女の修行に差があったことから、昇段のシステムも大きくことなっていた。女子の昇段試験は形、修行年数などが主に考慮された。女子の段位は、講道館女子何段というように呼び、帯には白線を入れる。

 その後、女子も試合が行われるようになり、約30年が経っている。もちろん、これまで女子の昇段の規定も改正がなされてきた。しかしながら、いまだに男女の昇段規定には大きな開きがある。この理由がなんであるのか理解できない

 例えば、初段の昇段試験の形は、男子が投の形(手技、腰技、足技)であるが、女子はこれに柔の形(第一教)が加えられている。また、昇段に必要な年数にも差がある。全日本選手権、世界選手権、オリンピックで優秀な成績(優勝、金メダル)を修めた場合に特別昇段のシステムもあるが、男子は5段まで与えられるが、女子は四段までである。つまり、オリンピック金メダル2回、世界選手権金メダル7回の谷選手(32歳)は四段で、石井選手(21歳)は5段なのである

 昇段の資格の男女の違いが意味するものは何なのであろうか。女子の金メダルは男子の金メダルに劣るのか?それまでの修行に差があるという意味なのか?

 柔道が他のスポーツと違うとする教育的な側面から、この男女の格差をどうやって説明するのだろうか。私は自分の生徒に「なぜ、男子と同じように修行しているにも拘らず、段位には差があるのですか」と質問を受けたら、きちんと答えることができない

 講道館には、こういった質問に明確に答えられる方がおられるのだろうか。

 福田先生を尋ねて思ったことは、嘉納師範に受けた教えを貫いてこられた精神性の高さ、修行の深さであった。比べることは難しいが、福田先生が他の高段の男性に修行の面で劣っていたとは到底考えられない

 女子の段位について、これまでも様々な機会をとらえて発言してきたが、男女の格差の実態について知らない男性の先生方も多い。また、問題はわかったとしながらも自分の身に振りかかる火の粉ではないので真剣に考えてくださる方も少ないのが現実だ

 どうすれば変えることができるのか、正直言ってわからない。しかし、多くの方にこういった事実があることを知ってもらいたい。