山口 香の「柔道を考える」

柔道が直面している問題を考え、今後のビジョン、歩むべき道を模索する。

講道館柔道試合審判規定

2010-02-24 08:46:34 | Weblog
 全日本柔道連盟は、今年1月1日より行われた「国際審判規定」の改正に伴って「講道館柔道試合審判規定」との格差が広がり、選手に混乱が生じることを危惧して、講道館柔道試合審判規定の改正を検討しているという。(コメントに情報を寄せていただき、ありがとうございます)以下に示したのは全日本柔道連盟審判委員会委員長である川口氏のブログから引用したものである。
情報

(主な改正案)
1)場内外の判断基準を国際規定に合わせる。立ち姿勢、寝姿勢とも。
2)「指導」を表示する。
3)「総合勝ち」の所作を国際規定に合わせる。
4)「一本」の動作を国際規定にあわせ、「掌を前方に向けて・・・」にする。
5)「教育的指導」の削除。
6)「指導」「注意」「警告」「反則負け」を明確に区切る。
7)「寝技への引き込み」は「指導」にする。
8)「相手の帯より下へ直接手又は腕による攻撃・防御・・・」を国際規定に合わせて反則は
  「警告」とする。
9)「反則」の合議は「警告」から義務付けとする。
10)医療処置を国際規定に合わせる。

(少年規定)
1)第35条の(禁止事項)の反則分類を明確に区切る。「指導」「注意」「警告」「反則負け」
2)「両膝を最初から同時に畳について・・・」の反則は「指導」とする。
3)「固技などで、頸の関節及び脊椎に故障を及ぼすような動作」は「警告」とする。

 現在、いわゆる国内審判規定(以下、国内規定という)がジュニア以上で採用されている大きな試合は男女の全日本選手権と国体ぐらいであろう。大会数としては多くないが、それでも選手はもちろん審判の混乱、負担は大きい。

 これまで国際規定が改正されるたびに、国内規定は完全にではなく、少しずつ近づけられてきた。常に疑問に思うのは、なぜ国内規定が必要なのかという点である。国内規定が講道館柔道の本質を守るために必要なのだということだろうか?そうであれば国際規定の改正を追いかける形で改正を繰り返すのはいかがなものか。

 この際、国内規定が本当に必要なのかという議論が行われるべきであろう。そもそも誰か国内規定が必要だと思っている人がいるのだろうか。講道館柔道試合審判規定という名称をなくすのが怖いだけか?今回の改正も選手の混乱をさけるためということだが、そうであればルールを一本化することが最も選手にはわかりやすい。

 また、「講道館柔道試合審判規定」であるにもかかわらず議論するのは全日本柔道連盟であるのも解せない。これに対して講道館はどのように関わっているのか、どのような考えを持っているのか、見解が示されたことがない。

 講道館がルールによって柔道の本質を守りたいというのであれば、その意見を発信し、国際規定に繁栄させるような努力を行うべきである。近年のルール改正は常に国際規定の改正に追随してきただけである。にもかかわらず、国内の規定を後生大事に形ばかり維持していく価値があるのだろうか。ルールが一本化されれば、今まで以上に国際規定の改正に危機感を持って検討し、対処できるのではないかとも考える。

 良い機会なので、小さな改正を行うのではなく、柔道のルールについて講道館は、日本はどう考えるのか、どうしていくのかという本質的な議論をしてほしい。また、講道館は柔道のルールに対してどのような考えを持っているのかを発信するべきである。こういった機会を捉えて講道館は世界に向けて発信していかなければ、その存在感は小さくなる一方だ。

IJFの新たな契約

2010-02-19 10:52:04 | Weblog
 IJFはグランドスラムパリ大会において、GREEN HILLというメーカーと契約を結んだと発表した。昨年のグランドスラム東京大会の時に、「今後IJFは柔道着メーカーと契約を結び、それらのメーカー以外は世界選手権などIJFがコントロールする試合では着ることができないようにしていきたい」といった声明を出した。契約には3つのカテゴリーがあり、それぞれ契約金が異なる。その時点でわからなかったのは、それぞれのカテゴリーがどのようなメリットを持つのかであった。

 今回契約を結んだGREEN HILLという会社は、柔道着メーカーとしては無名に近い、格闘技用具全般を扱う会社であるようだ。その会社が柔道に参入してくる目的は何なのだろう。契約はトップカテゴリーで年間350,000ドル(日本円で3千万円以上)である。彼等の声明をみると、「今後我々の柔道着が世界選手権、グランドスラムなど多くの大会で着用されるだろう」といった内容が書かれている。

 多くのスポーツがあるが、いずれも個人で使用する用具やウェアに関して国際連盟が介入している例はない。サッカーのボールなどは国際連盟が契約して統一されることはある。これは柔道で言えば畳のようなものだろう。しかし、例えば個人で使用するラケット、シューズ、スキー板などなどを連盟がコントロールすることはできない。ところがIJFは、個人使用である柔道着についてコントロールしようとしている意図が見える。柔道着の規約を作るのはIJFの仕事だが、メーカーを規定する必要は全くない。これはあり得ないことであるし、なぜ理事会がこういった馬鹿げたシステムに同意するのかわからない。

 今の時点では、3つのカテゴリーがどのような権利を持ち、選手にどのような影響を及ぼしてくるのかは見えていない。しかし、上記の会社は年間3000万円ほどを支払う訳であり、契約の中にそれ相応の条件があるのではないかと危惧する。

 柔道着の場合、各国連盟がスポンサー契約を結んで柔道着の提供や資金的な援助を受けている例はある。日本の場合もそうである。IJFがメーカーと契約をした場合、メーカーは国と契約をする必要がなくなる。これまで各国が受けられていたメリットをIJFが横取りするようにもみえる。また、メーカーは各国にそれぞれ存在し、メーカーは連盟や選手をサポートし、メーカーはその国のシェア拡大というメリットを享受する。おそらく、IJFが提示した契約金額では参入できないメーカーも多い。日本は柔道着メーカーが多く、シェアも大きく、それほど大きな問題にはならないやもしれないが、小国のメーカーは柔道自体から撤退してしまい、それらの国は独自の柔道着メーカーを持たなくなってしまう可能性もある。

 問題だと思うのは、こういった大きな問題が理事会や総会など公的な会議を経て決定したのではないことである。今では、多くのことがそうやって決められている。確かにIJFというよりはビゼール会長の改革には良い点もある。しかし、今の時点が良いからという理由で様々なことが独断的に決められる体制をこのまま見過ごしていっても本当に大丈夫なのだろうか。私が人よりも懐疑的になりすぎているのかもしれないが、不安が現実となった時にはすでに修正不能、後戻りできない状況に陥ってしまう。

 今回の契約についても私は懐疑的だが、多くの人は「いくらIJFでも柔道着メーカーまでは選手に強制できないだろう」と言う。私の取り越し苦労であればそれでよし。経過を見守りたい。

IJF

ひのまるキッズ

2010-02-15 13:43:29 | Weblog
 以前にも何度か紹介した「ひのまるキッズ小学生柔道大会」が来年度も全国各地で開催される。来年度は今年よりも開催地が増えて、内容もさらに充実して行うとの主催者の意気込みがある。

 私もこの大会には縁があって、講師として参加してきた。参加費を徴収して行うことや親子の絆をコンセプトにしている点など、今までの柔道大会とはひと味違う。しかしながら、大会をやっていく中で、改善点も多く見つかっている。こういった点について私も気がつくとすぐに伝えているが、今年度はそういった点がいかに改善され、より多くの人に「来てよかった」「参加してよかった」と思われるかが勝負だろう。

 はじめは物珍しさがあって参加した人も、二度目となると「本質」をみて、得るものがあるかどうかを厳しい目で吟味する。お金も時間もかけて遠くから参加してもらうのは容易なことではない。その部分の厳しさは主催者も十分認識し、昨年度以上の意気込みと情熱を持って望むだろう。

 私としては、こういった柔道に熱い情熱を持って頑張っている人間やイベントを支援し、育てていくのも柔道界の義務ではないかと考えている。サッカーなどをみると、協会主催ではないイベントが毎週末のように全国各地で開催されている。こういったイベントは様々な特徴があり、その特徴が愛好者の幅を広げていくように思う。

 「ひのまるキッズ」もまだまだ可能性がある。私が提案しているのは、「お母さんやお父さん」の柔道教室や審判講習および実践、強い子供を育てる栄養講座などである。これを書いていて思いついたのは、子供達に柔道の歴史や嘉納治五郎師範の教えをやさしく講義するのも良い。柔道はスポーツであるが、武道でもあり、人間教育を目標としている。強さと人間性を兼ね備えた柔道家を育てることが目標である。

 来年度のはじめは、4月11日(日)横浜で関東大会が行われる。私も参加しますので、多くの参加者に集まってもらえることを願っていますまた、「こんなことをやってほしい」というご意見があればお寄せください。

ひのまるキッズ

コーチにも賞金

2010-02-12 15:35:10 | Weblog
 IJFは理事会の一致によって、大会でメダルを獲得した場合、選手のコーチにも賞金を出すことを決定した。といっても賞金の財源を新たに増やしたりするのではなく、これまで選手が獲得していた賞金の20%がコーチに与えられるというものである。様々なスポーツにおいてコーチにも賞金が与えられるのは柔道が初めてかもしれない。(私が知らないだけかもしれないが)

 先日行われたグランドスラムより実施された。私は現地に行っていないので様子がわからないが、ホームページによれば表彰式にコーチも出て行き、賞金を受け取るようである。

 賞金の善し悪しについては意見のわかれるところだと思うが、IJFのやり方に気になる部分がいくつかある。まず、表彰式で行うことである。グランドスラム東京大会では1位~3位の選手にそれぞれ金額の入ったボードが渡され、選手が降壇するとボードと引き換えに現金が渡されていた。そんな印象を受けるのは私だけかもしれないが、非常に安っぽく映った。賞金を渡すのは良いが、これ見よがしに公然と受け渡しをするのは「品がない」感じがする

 今後は、コーチも表彰式にのこのこ出て行って、ありがたく賞金を受け取ることになる。何も呼びつけなくても、後で渡せばいいことである。また、呼びつけて大仰に渡すほどな額でもない。

 賞金は選手のもそうだが、各連盟の方針で処理される。例えば、日本の場合は個人コーチというわけではないので連盟が受け取ることになる。(選手の分は、一部が選手に渡される)選手強化は連盟が資金を出して行っているケースが殆どだと思うので、そうであれば連盟に渡して、そこから選手もしくはコーチに支給という形をとってもいいと思う。

 オリンピック競技になっても、国際的なスポーツになっても柔道は柔道である。安っぽい見せ物のようになってしまうのではないかと心配である

グランドスラム パリ大会

2010-02-10 21:48:33 | Weblog
 先週末、グランドスラム パリ大会が開催された。日本からも多くの選手が参加した。予想通り、日本女子は他国を圧倒する強さを見せた。日本以外の女子のメダル獲得国などを見てみた。

48kg級(17カ国、23人)
52kg級(18カ国、26人)
57kg級(19カ国、25人)
63kg級(17カ国、23人)
70kg級(18カ国、22人)
78kg級(11カ国、16人)
+78kg級(10カ国、14人)

金メダル獲得上位国
1.日本(金4、銀1、銅4)
2.フランス(金2、銀2、銅2)
3.ロシア(金1)
4.オランダ(銀1、銅1)
4.ハンガリー(銀1、銅1)
*メダル獲得国は全部で11カ国

 日本は7階級に11人の選手を、フランスは地元ということで各階級4名28人の選手をエントリーしていることもメダル量産の要因ともなっているだろうが、日本女子の特に軽量級の層の厚さは圧倒的な感じを受ける。
 フランスということでヨーロッパ各国はそれぞれ複数の選手をエントリーさせているのかと思われたが以外にもそうではなかった。全階級に選手をエントリーしている国も少ない。パリ大会はレベルが高いので「勝てる」可能性のある選手しかエントリーさせなかったのか?それもあって出場選手が少ない印象を受けた。時間があれば過去のパリ国際と比べて人数が増えているのか、減っているのかも検証してみたい。
 そんな中で南米のコロンビアがフルエントリーに近かった。南米からは他にキューバ、ブラジルも参加。他には、チュニジア、アルジェリアなどの北アフリカ、アジアは日本以外は韓国のみが参加していた。こうしてみると、国数は多くともヨーロッパがほとんどであり、他の大陸からは参加者が少ない。各大陸で大会を開催しても参加者がその大陸に偏ると大陸選手権と違いがなくなってしまい、大会自体の魅力も薄れる。
 今回の結果をみると日本女子のレベルは圧倒的である。今年の世界選手権は各国2名ずつ選手を参加させるとなると、今回のようにメダルを独占するであろう。日本にとっては嬉しいことだが、果たして世界の柔道を考えた時にいかがなものなのか。

孤高の人

2010-02-05 12:50:38 | Weblog
 強い人間、チャンピオンには「やんちゃ」「変わり者」「わがまま」と言われる人が多い。これらは個性とも言い換えることができる。強い人間は、人と違った感性を持ち、違ったアプローチができるから、そうなれたとも言える。そして人はそのような個性を好きであり、嫌いである。私もチャンピオンであったときに誰かに言われたのは「皆が自分を応援してくれていると思うな。半分は応援してくれるが半分は負けることを願っている」ということだった。

 強い人間は孤独でもある。皆と仲良くして手をつないで頂点に立つことはできない。勝負においては非情でなければならず、孤独に耐える強さが求められる。「誰もわかってくれない」と愚痴をこぼすわけにもいかない。その強さが周りの人間には近寄りがたいと思われる。

 一般的には、強い人間は強くなる過程の中で、人間としても磨かれていくと思われているが、これは違うのかもしれない。鍛えられることと磨かれることとは違うとでも言おうか、強さと人間性は別物ではないだろうか。しかしながら、多くのチャンピオンは人間的にも魅力がある。おそらくそれは、チャンピオンになってからの環境の変化、つまり、様々な人と出会ったり、話しを聞いたりする機会が増えていくことなどで人として成長する環境がつくられていく。強くなる過程では必死なあまり見えなかった、強くなれたのは自分の努力だけではなく支えてくれた人がいかに多かったかというような自分の周りも見えてくる。

 若さは、角があり、とげがある荒々しさが魅力でもある。スポーツの中でもとくに格闘技の場合には、その荒々しい部分が強さでもある。若く勢いのあった「やんちゃ」な選手が徐々に角が取れて「良い人」になった頃には競技においても勢いが無くなって枯れてくる。

 昔と違って今では、強く注目される人は、その一挙手一投足が、人に、メディアにさらされている。おそらくそのプレッシャーは凄いものだろう。過去の力士やチャンピオンには良きも悪きも多くの伝説が残っている。私生活も皆豪快であったようだ。世間にも、そういったプライヴェートを許容する大きさもあった。

 石川遼君などをみているとかえって心配になる。若くしてあれだけ完璧に自分をコントロールしているのは才能なのかもしれないが、自分を抑えている部分も必ずあるだろうから、いつかそれが爆発するのではと老婆心ながら思ってしまう。

 選手にとってファンの存在は有り難いが、多くのファンは自分の「こうあって欲しい」というイメージを選手に求める。しかし、生身の人間である。また、すべてのファンのイメージに合うようにできるはずもない。多くのスポーツ選手がそういった少し息苦しい中で、自分なりのバランスを保ちながら生活しているが、なかには自分の個性と社会やファンが求める偶像との狭間に苦しむ選手もいるのではないだろうか。

 違う国で活躍することも戸惑いは大きい。私の知っている海外の柔道チャンピオンの話しである。彼は長い間、日本において柔道の修行をしていた。弱かった時代には道場でいじめられたことも多かったという。それでも耐えてチャンピオンにまでなった。通常、日本に長くいる外国人は片言でも日本語を操るが彼は全く話さない。「なぜ」と聞いてみると、「それが自分のプライドだったから」と言っていた。柔道は日本のものであり、日本の伝統、格式など多くの部分で自分の思いや信念を曲げてでも従わざるを得ない部分が多かったという。そんな中で自分が絶対に譲らないものは言葉だったのだという。おそらく理解している部分も多いだろう。しかし、敢えて使わなかったのだという。

 日本に来たのだから日本の慣習に従うのは当たり前という考えもあるが、外国の人が日本に来て自分のアイデンティティーを持ち続けて、プライドを保つことは日本人が考えている以上に難しい。日本が好きであることと、自分の持っている文化を捨てることとは違う。それぞれの国に美徳がある。

 朝青龍関には是非とも親方になって強い力士を育ててもらいたい。白鵬関も昨晩会見をしていたが、朝青龍関の引退を聞いて横綱が子供のようにないている姿に彼の存在の大きさがわかる。彼の陰で守られていた力士達も大いに違いない。貴乃花親方の改革も期待したいが、ここに朝青龍が加われば面白いと思う。今やモンゴル勢は相撲界の中核である。彼らがさらに活躍し、愛される力士となっていくための架け橋となってもらいたい。「やんちゃ」な人間は「やんちゃ」の扱いもうまい。

 今回のことで親方や相撲協会の責任を問う声もある。おそらくそういった声に応えるのは、朝青龍関を相撲界でさらに鍛え、育てていくことではないだろうか。親になって初めて親の気持ちがわかる。指導者として弟子を育てる立場になって初めて「相撲とは何なのか」を考え、知ることになるような気がする。

相撲界を見て思うこと

2010-02-02 15:17:38 | Weblog
 昨日行われた日本相撲協会理事選で37歳の貴乃花親方が当選を果たした。これまでの慣例では、それぞれの一門から理事候補者を出し、選挙を行わずに承認という形であった。

 今回、貴乃花親方は所属していた一門を離れ立候補した。これによって理事の定員を一人オーバーしたことから協会としては選挙という形を取らざるを得なかった。しかしながら、協会としては選挙となっても、造反者がいたとしても’よもや’貴乃花親方が10票を獲得し、当選するとは思っていなかったのではないだろうか。

 相撲界は、近年、不祥事も多く、人気も低迷している。貴乃花親方を含めて若手の親方達は「待ったなし」の状況に大きな危機感を感じていたのだろう。しかしながら相撲界の長い慣例を無視して立候補に至るには相当の覚悟が必要だったに違いない。この勇気と決断には敬意を表したい。貴乃花親方が出ることがメディアを動かし、若手の親方たちの心も動かしたに違いない。

 残念だったのは選挙の立候補に際して「自分はこう改革したい」といった思いが一般に向けて語られなかったことである。相撲界の印象は、内部で話が行われ、内々に処理するといった印象が強く閉鎖的である。このことが一連の不祥事にも繋がっている。そういった意味では、「開かれた相撲界」をアピールするためにもマニュフェスとが述べられたほうが良かったと思う。

 理事になったからといって大きな改革は一人では難しい。しかし、彼は注目度があり、メデイアを動かす力がある。外の力をうまく利用して、外に見える改革を実行していってほしいと願う。

 伝統があって閉鎖的という点では柔道界も同様で、柔道界の常識が一般では非常識であることも少なくない。相撲界に刺激を受けて柔道界にも新しい風が吹いてくれることを願う。

 横綱朝青龍の件も深刻である。しかし、こういった事件は柔道界にとっても対岸の火事ではない。格闘技は闘う技術と力を授ける。他のスポーツとは大きく違うのはこの点である。万が一にも、闘う力が一般の人に悪意によって向けられた場合には恐ろしい結果になる。関取でも柔道家でも、もしその人間が教育的な部分をそなえていなかったとしたら「人間の形をしたゴリラ」を町に離しているようなものであり、女性など危なくて歩けない。(ゴリラは実は非常におとなしい動物なのでゴリラを例にしたのは申し訳ない

 嘉納師範は精力善用と言う言葉を残された。つまり、力は善き方向につかわなければならないということである。相撲においても柔道においても武器を人に与える以上、人間教育は不可欠なのである。しかし、今日、競技力ばかりが評価され「強ければ・・・多少のことには目をつむる」という風潮がある。朝青龍にしても、今までに何度となく教育のチャンスはあったはずである。親方にしても協会にしてもそのチャンスを見ない振りをしてきたことが今回の事件を引き起こしたといえる。

 相撲界をみていると様々なことが対岸の火事ではなく、柔道界にも当てはまると思う今日この頃である。