甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

永福寺

2008-01-31 19:47:35 | 盛岡散歩


 ・永福寺(真言宗豊山派) 下米内2-1-1

 盛岡五山の一つ、盛岡城鬼門鎮護寺、藩の筆頭寺院、「盛岡」の地名の由来・・・まさに盛岡藩とともにあった寺です。
 創建は平安遷都と同年の794年。坂上田村麻呂が建立した奥州六観音のひとつ、十一面観音堂に始まったと寺伝にはあります。当初の三戸から盛岡へ移り、現在の境内の北側にあたる盛岡山(現桜ヶ丘団地)の三万余坪の敷地に京都の比叡山になぞらえ七堂伽藍が立ち並んでいたということです。
 明治維新を境に、神仏分離・廃仏毀釈の流れにもまれ一時廃寺同様になってしまいましたが、密教寺院の姿を取り戻す努力が続けられ、大正13年復興に着手、昭和17年かつての東坊跡に本堂再興、昭和52年回向堂「覚善院(蓮華坊)」再建。


 JR山田線のすぐそばです。山岸駅に列車が着くとやがて窓のすぐ外にこのお寺が見え、昔から気になるお寺でした。大寺院ではありましたが現在はこじんまりしています。
 お寺ではありますが鳥居があってその中には神門(山門?)代わりの大樹に注連縄。お参りするときは拍手を打つべきかどうか、悩むところです。


 水掛不動尊。奥には旅姿の弘法大師像が見えます。


 小さな踏切を渡った向こう側に覚善院があります。お地蔵さんの前に獅子。

 永福寺42世筑波の僧正と三代藩主重信公との連歌
(上の句・重信公)「幾春も華の恵みの露やこれ」
(下の句・僧正) 「宝の珠の盛る岡山」
 これがたいへんめでたい、ということで「盛岡」の名の由来となったと言われています。

永祥院

2008-01-30 07:40:56 | 盛岡散歩


 ・永祥院(曹洞宗) 材木町4-10

 滝沢村鵜飼に400年程前に開山。二世住職の時代(1630年頃?)に現在地に移転。2度火災に遭い、現在の本堂は大正15年に再建されました。
 このお寺の本堂の戸、なんと自動ドアなのです。これまで訪れたお寺では戸が開放されていたとき以外、本堂の戸を開けてまでお参りしてきませんでしたが、自動ドアだとなんとなく敷居が低く感じられて、靴を脱いで思い切って戸を・・・いえ自動ドアが開くに任せてご本尊様をお参りさせていただきました。本来どんなお寺でも本堂の戸を開けて自由にお参りさせていただいていいのでしょうか?どなたか教えてください。


 山門は老朽化していたものが平成12年に改築されました。山門には様々な動物の彫刻が施されています。象もいます。

  永祥院といえば酒買地蔵尊。200年ほど前に材木町の大店の酒屋が寄進したものです。
 伝説によると、材木町のある酒屋によく買い物にくる小僧さんがいたのですが、いつも酒樽を持っていったきり返さないことに腹を立てた酒屋が、小槌で小僧の眉間を殴りつけました。その酒屋がこっそり小僧の後をついていくと、永祥院のお堂のところで小僧の姿が見えなくなりました。お堂の下には酒樽が転がっており、地蔵の顔には傷が。そのお寺にはそんな小僧はいない、というのです。あの小僧はお地蔵さんだったのか、と乱暴を悔やんだ酒屋はこれ以来お地蔵さんにお酒を供え、商売もうまくいったということです。このことから「お客さんは大切にしなければいけない」という教えが商家に広がり、このお地蔵さんは商売繁盛の守り本尊として広く信仰を集めるようになりました。


 本堂の階段。猫もお参りしているようです。自動ドアは開いたのかな?


神子田朝市

2008-01-29 07:46:33 | 盛岡散歩


 ・神子田朝市  神子田町20-3

 朝5時~8時半頃、月曜日以外毎日開かれている朝市です。野菜・魚・惣菜・餅・花など、たくさんの店が並びます。駐車場も広く、日曜日などその駐車場が一杯になるほど大賑わいです。

 この日、私は7時前に到着。気温-7℃。並べられている商品がそのまま冷凍されてしまいそうな寒さですが、元気のいい呼び声が響いていました。中でも人気は一杯100円のコーヒー。おじさんがミルクや砂糖も入れてくれます。また、一杯300円の「ひっつみ」や串こんにゃくや大きな豚まんなど、湯気をたてている食べ物には人だかり。「朝市ラーメン」もおいしそう。

  実は市場が苦手だった私です。去年突然市場を楽しめるようになりました。市場での買い物には会話がつきもの。ずっと前からの知り合いみたいに口をきけるのは不思議です。そういうことができる年齢になったということなのでしょうか。

 この日の戦利品・・・イカ一夜干し、焼きウニ(ミニサイズ)、赤カブ漬け、コーヒーと豚まん。

大泉寺

2008-01-28 08:00:10 | 盛岡散歩


 ・大泉寺(浄土宗)  本町通一丁目  
 
 唯一、外堀の内側に立つお寺。800年の歴史を持っています。殿様の命で二戸から盛岡に移されました。


 反りかえった屋根に擬宝珠(宝形式反り屋根)。本堂は江戸中期の建物で、市指定保存建造物です。


 「おかんの墓」と呼ばれています。(右側)貞女・おかんの伝説に基づくもの。

 おかんは福岡城主九戸政実の家臣・畠山重勝の一人娘。九戸政実は南部信直に亡ぼされ、重勝は自刃。おかんは家来の三平と夫婦になって盛岡へ。盛岡城築城人夫として働いていた三平は重傷を負う。組頭・高瀬軍太はおかんに横恋慕していたが、三平の事故後露骨に迫るようになる。おかんは夫を殺すなら意に従う、と軍太に告げ、夫の変装をして殺される。軍太は仏門に入り、遺族の生計を助けた。

 おかんの墓は、石で叩くと「カンカン」と不思議な音がすると言われています。ご親切に石が2つ添えられていたので試しに叩いてみましたが・・・私が叩くと「ペチペチ」と音がしました。私が貞女じゃないからでしょうか。


 山門の屋根の上。
 「番町皿屋敷」の皿4枚を保管している寺でもあります。


岩手県立博物館 屋外展示

2008-01-27 15:12:24 | 盛岡散歩

  県立博物館の屋外展示は民家と植物園・岩石園。冬場ですので重要文化財になっている2軒の民家だけを見学しました。曲がり家は南部領、直屋は仙台領の特徴的な形式です。

 この曲がり家は岩泉町にあった旧佐々木家。藩政時代に肝入(村長)を務めていた家だそうです。19世紀後半の建築。栗材の柱、チョウナ仕上げ・・・私の祖父の家によく似ています。

 曲がり家ですので、日のあたる向きだけ屋根の雪が溶けています。曲がり家は、家族の住む場所と馬屋をカギ状に配置して一つ屋根の下に収めた家。馬を大切にした生活様式と言われています。
 私の祖父の家は瓦葺です。また馬屋ではなくて牛小屋でした。今はその部分は物置になっています。

  土間の様子。かまどに火が入っているので家の中に煙が。学校時代、薪ストーブのある家の子はこういう匂いがしていました。それともかまどがあったのかな?

  立派な梁。なんとなく白っぽいのはかまどの煙です。

  茅葺屋根から氷柱が。山の中に行くと今でも茅葺屋根を見ることがありますが、氷柱はたいてい茶色っぽい色をしています。実際に生活をしているとそうなるのか、屋根の手入れに手が回っていないのか。
 ここの氷柱は透明です。

  奥州市江刺区伊手にあった旧藤野家住宅。直屋(すごや)です。19世紀前半の建築、やはり栗材の柱とチョウナ仕上げです。馬屋は別棟に建てられました。

  黒光りする床や壁。ひんやりします。すべての板の間に囲炉裏が切ってありました。

  唐箕。穀物からモミ殻などを取り除く道具です。今でも土間や物置においてある家も結構あります。現役ではないのかもしれませんが。

 こうして見ると愛嬌のある姿です。現在、スチール製の唐箕も販売されています。中にはモーター付きのものも。でも形はほとんどそのままなんです。それだけ完成された道具だったのですね。


岩手県立博物館

2008-01-26 08:03:50 | 盛岡散歩

 ・岩手県立博物館 上田字松屋敷34

 岩手県制100周年を記念して作られた博物館。松園団地の一角にあります。
 博物館の建物まで100段の階段。100周年にちなんだ、ということが階段の途中に書いてありました。「100段も登らせてごめんね、でもちょっとこれ読んで休んでって」的なことが書いてあって、うふふと思ったのでした。

  入館してすぐのホールに、これ。
 木造毘沙門天立像の複製です。本物は花巻市東和町成島にあります。こんな大きなホールではなくてごくこじんまりとしたお堂の中にあるので、もっともっと大きな仏像に見えます。
 複製ではない仏像も展示してあります。「お賽銭を上げないで下さい」という注意書きにまたもやうふふと思ってしまいます。上げたくなってしまうし、拝みたくなりますよね。それが人情。でも、展示品と仏様の違いって何なのでしょう。

  ホールから2階へ上がる階段に、これ。
 中国で発掘された体長22mの「マメンキサウルス」の復元模型です。岩泉町茂師で発掘された「モシリュウ」はこれに近いものではないか、と考えられています。
 あまりに長いので写真に収めるのに一苦労。恐竜ってこんなに大きかったのですね。なのに、頭がすごく小さいんです。
 旧石器時代の野牛ハナイズミモリウシの復元骨格模型もあります。

  平泉・毛越寺周辺の復元模型。こういう展示が見られるから博物館っていいですね。今は失われてもう見ることができないものについて言葉で説明されてもイメージするのは難しいですが、目で見ることができれば随分助けになります。

  地質時代から現代にいたる地質・考古・歴史・民族・生物・現勢の資料を展示しています。子供には昔の遊びができる「体験学習室」が人気です。ミュージアムショップや喫茶室も。じっくり見ていたら1日中だって過ごせます。
 屋外には2軒の民家や植物園・岩石園も。民家についてはまた後で。

 開館時間 9:30~16:30

 休館日 月曜日

 入館料 一般300円  学生140円  ※高校生以下無料


聖蹟記念塔

2008-01-25 17:45:34 | 盛岡散歩


 日影門外小路、現在の中央通一丁目・北日本銀行本店左隣に小公園があります。写真左後にはライト写真館が見えています。


 ここは昔、仁王小学校があった場所。明治9年(1876)明治天皇が東北巡幸時ここを訪問したことを記念して塔が建てられています。 大正2年(1913)仁王小学校が移転し、その後建物は市立盛岡商業学校(県立盛岡商業高校の前身)の校舎に使われました。仁王小学校以前ここには藩校作人館がありました。作人館に関する資料は中央公民館に保管・展示されています。確か、「作人館」の名の入った鉄瓶(南部鉄瓶です)が仁王小学校に保管されているはずです。


 気候のいい時期にはここで一服している人も見かけます。秋にはイチョウがきれいです。

岩手大学(旧盛岡高等農林学校)

2008-01-24 23:00:15 | 盛岡散歩
 大雪でした。控えめに見ても25cmは積もりました。真横から吹き付ける吹雪の中1時間の雪かきをしただけで軟弱な腕がぷるぷるしています。だから今日は短文で。写真は一週間前の物です。きっと今頃はすっぽり雪に覆われていることでしょう。

 今日ご紹介するのは岩手大学。母校です。

 旧正門。與力小路側から(つまり南側から)入る門は以前の正門だそうです。門脇には初代校長が記念樹として植えたイチョウの木。1月のこの日でも落ちた実の香ばしいにおいが。


 高等農林創建時(明治36年)の校舎。ドイツ風のデザインなんだそうです。旧図書館と共に、ミュージアムとして使われています。


 岩手大学ミュージアム本館。旧図書館です。10時~3時開館。4つの学部の研究業績を展示してあるそうです。無料。


 旧図書館裏の土蔵。質実剛健な感じです。元の標本室だとか。


 賢治も暮らした高等農林の学生寮・自啓寮の碑。現在も農学部の学生寮は自啓寮という名です。


 藩政時代のこの辺り(與力小路・上田新小路)は侍町で、大きな屋敷や丹精こめた庭があったそうです。ここは南部藩お目付け役の家柄だった山邊家の庭跡で、ヒメコマツ老大樹が保存されています。


 啄木の妻・節子の実家跡です。

 池越しに洋館が見えてきます。昭和3年、盛岡高等農林創立25周年記念事業の同窓会事務室として建設され、その後陸軍大演習で来盛した皇族の休憩室として使われました。平成14年農学部創立百周年を期に「百年記念館」と命名されました。


 旧盛岡高等農林学校本館。明治45年築。国指定の重要文化財。現在は農業資料館。10時~3時開館。入館料140円。冬季は土日祝が休館です。
 1階には重厚な調度品を備えた校長室や懐かしさ一杯の教室が、2階には広い講堂があります。階段・廊下・玄関・柱時計・・・どれをとっても年月に磨かれた美しさが。必見。


 梨木町側(下台側、つまり西側)に正門が移されたときに同時にここに移された門番所。寄棟風八角の造りで登米町の大工の指導により建てられました。国指定重要文化財。


 門番所の中を覗いてみました。なんだかゴーシュがセロを弾いていそうな場所です。

 
 門番所のそばにある西側の旧正門。これも重要文化財です。現在の正門は東側・盛岡一高側です。


観武ヶ原練兵場 まとめ

2008-01-23 21:20:03 | 盛岡散歩
 青山・月が丘・みたけ地区の軍事遺跡を探しながら、分かってきました。なぜ盛岡に練兵場があったのか。


 その答は戊辰戦争にさかのぼります。

 盛岡藩は奥羽越列藩同盟の一員として薩長を中心とした新政府軍と戦って破れたため賊軍の汚名を着せられることとなり、盛岡藩出身者は明治新政府の中で重要なポストに着けませんでした。それどころか「白河以北一山百文(白河より北の地は価値がない)」などとばかにされたりもしたのです。軍隊の誘致は汚名挽回のチャンスでした。

 そんな折、弘前の工兵隊では演習地が不足しており、また火災にも遭ったため、盛岡への移駐請願運動が高まりました。そして明治41年(1908)に念願の工兵第八大隊盛岡移駐が実現し、翌年には騎兵第三旅団が盛岡に新設されました。合計3000の兵は盛岡市民に大歓迎を受けました。軍隊は馬や大量の農作物を購入しますし休日には兵隊が町へ外出します。当時の盛岡の産業振興に大いに役立ちました。また騎兵第三旅団は馬産地の良馬にまたがる最強の騎兵旅団として将兵の羨望の的だったそうです。

 昭和6年(1931)の満州事変を受け、騎兵第三旅団は昭和10年、工兵第八連隊は昭和12年にそれぞれ満州へ移駐します。

 騎兵第三旅団はゲリラ兵の討伐に当たり(そこで命を失う兵もいましたが)大きな戦闘に参加することがなかったため「幻の旅団」とも呼ばれました。故田中角栄氏もこの旅団に入隊しています。昭和20年(1945)2月に改編のため解散となりました。また、盛岡に残された第三旅団の敷地には昭和14年(1939)兵制上初めての盛岡陸軍予備士官学校が新設されています。

 一方工兵第八連隊は南進政策によりフィリピンに向かう途中米軍潜水艦の攻撃を受け多数死傷し、またフィリピン上陸後も多数の犠牲者を出しました。


 偶然見つけた赤レンガの覆練兵場のおかげで、関連する新聞記事に目を留め、本を探し、そしてこういうことを知ることができました。

 木造の兵舎跡(1階は購買部、2階は集会所だった)は取り壊しが始まりました。覆練兵場はどんな活用をされるのでしょう。もしその中で子供達がサッカーやテニスをすることになっても「この建物はね、昔・・・」と大人が話して聞かせるきっかけは残ります。もしその中で大人達がビールを飲むことになっても・・・。(まだ言ってる。すみません。)


 以下の2冊の本から多くのことを学びました。

 「岩手の戦争遺跡をあるく」加藤昭雄 熊谷印刷出版部
 「いわて歴史探訪」岩手日報社

観武原碑

2008-01-22 13:07:29 | 盛岡散歩


  ・観武原碑  みたけ3丁目

 城北小学校向かい、酒屋さんの駐車場内に、いくつもの碑が立つ一角があります。その中でひときわ大きく古めかしい碑が、上の写真右側の「観武原碑」です。(左側は「観武ヶ原開拓の碑」)以前はここより1km南の青山四丁目に設置されていたようです。 

 
 観武原碑の碑文は漢文調の上欠損した字がある(大正時代、郵便飛行機がぶつかった)ので、到底私の手に負えるものではありませんが、親切に解説の碑があるのです。助かります。 これによると、この碑には観武原が命名された由来が書いてあるようなのです。要約すると・・・

 明治41年九月、工兵第二、第七、第八大隊と第八師団の歩兵が参加して岩手山南麓地方で特別工兵演習が行なわれたとき、皇太子(大正天皇)が訪れ、無名だったこの地を観武原と命名した。これを記念して碑を建てることになり、文章は山県有朋に依頼された。明治41年12月。

 「観武」とは「天皇が武勲を観た」ことに由来しているのですね。現在のように「みたけ」とひらがな表記にしたのはおそらく戦後のことなのでしょう。
 工兵第八大隊(のちの第八連隊)はこの3ヶ月前に盛岡に来たばかり。もしかしてお披露目的な意味合いもあったのかな?などと想像します。


  観武ヶ原開拓25周年記念碑。戦後すべての部隊は解散し、この地は食料増産のため開拓が行なわれました。また、覆練兵場兵舎等の軍施設は引揚者用の住宅・学校等に利用されました。


  燕航空部隊発祥地碑。観武ヶ原に設置されていた航空隊を記念して建てられたもの。運動公園正門前の道路は昔飛行機の滑走路だったそうです。他に歩兵独立兵団、戦車隊、通信教育隊、航空教育隊なども設置されています。
 観武ヶ原は騎兵・工兵の演習場から、戦車・飛行機の演習場へと時代と共に移り変わっていったのです。月が丘は起伏が多かったため戦車山と呼ばれる戦車の教習所になっていたそうです。


  ・陸軍特別大演習観武ヶ原野立所跡  月が丘二丁目

 「大元帥陛下御野立所聖蹟」とあります。花巻にも同様の記念碑があります。
 昭和3年、陸軍特別大演習が岩手県下で大規模に行なわれました。この演習は各都道府県で毎年行なわれ、演習という意味合いのほかに、軍国主義的意識の高揚という目的も持っている大イベントでした。天皇の他皇族や将官たちが大勢訪れるため、何年も前から準備されたそうです。
 野立所というのは天皇の休息所という意味なのですが、実際に天皇がこの地を訪れてじきじきに統裁した場所、ということで記念碑が建てられているようです。花巻野立所で統裁する昭和天皇の写真も残っています。


 探してみると色々あるものなんですね。石碑ひとつとっても、建てられた経緯や文面から(時にはその傷から)時代の空気がにおってくるようです。


旧工兵第八連隊門柱

2008-01-21 21:14:11 | 盛岡散歩

 

 ・旧工兵第八連隊門柱 青山一丁目(国立病院機構盛岡病院構内)  

 工兵第八大隊は明治41年(1908)弘前から移駐し、明治43年(1910)の北上川・中津川の大洪水では避難民の救助や堤防の補修等に出動するなど、市民に盛岡の工兵隊として親しまれました。昭和11年(1936)工兵第八連隊と改称し、昭和12年(1937)満州牡丹江省へ移駐。満州移駐後も留守部隊が残り、昭和20年(1945)には艦砲射撃を受けた釜石製鉄所の復旧作業にも従事しています。
 この一帯は連隊の雪中練兵場跡で、昭和44年(1969)に「工兵園」として造園され、関連する碑がいくつか建てられています。



 門柱を反対側(病院側)から見たところ。病院の敷地内なので控えめに撮影しました。
 旧騎兵第23連隊門柱旧覆練兵場と同時期に、同様な赤レンガで作られています。







 小庭園の形で記録を残したわけですね。工兵隊に関わった方たちの「確かにここにあったのだ」という思いが伝わってきます。
 庭園内の雪の上には碑をめぐるように足跡がついていました。


旧石井県令私邸

2008-01-21 09:02:40 | 盛岡散歩


 ・旧石井県令私邸  清水町

 明治19年(1886)頃完成。レンガ造りで暖炉や地下室を備えている、市内で最も古い洋風建造物。盛岡市歴史的建造物指定。
 石井省一郎は備前国出身で、内務省土木局員として数々の土木行政に業績を残した人です。例えば石巻「石井閘門(こうもん)」は石とレンガで作られた水門で、国指定重要文化財になっています。明治17年、岩手県令に着任。
 新渡戸家に借家していましたが明治17年の河南大火に焼き出され、私邸を建設しました。ただし現在残されているのはこの洋館だけです。
 この辺りは南に開けた風光明媚な場所だったので、南昌荘や料亭「大清水多賀本店」が建てられました。どちらもこのすぐそばです。
 案内表示によると、遠山准看護高等専修学校としても使用されたらしいです。



 北側に玄関があるのです。
 建物の周囲は駐車場になっているのですね。この近くの会社の駐車場なのでしょうか。写真を撮るのがなかなか難しい場所ではあります。



 右下に見えているのが多分地下室だと思います。
 つたが紅葉している時の写真をよく見ますが、つたが葉を落とした後の洋館も不思議な雰囲気です。ヨーロッパの絵画みたいです。



 気がつくといつも屋根の写真を撮っています。この建物の屋根裏部屋はどんな感じなのでしょう。
 それにしてもすてきな窓です。広い壁面の割に窓が少ないですね。中は薄暗いのでしょうか。



 立派な玄関です。中を見てみたいです。

南昌荘

2008-01-20 13:21:22 | 盛岡散歩

 真冬日が続く中、南昌荘を訪れました。庭園が有名な場所ですが、庭園はすっぽり雪の中。また建物も改修工事中。でも他に来客がない分、建物を独り占めして堪能して来ました。 


 ・南昌荘 清水町
 
 まずは南昌荘の歴史を。

 ・盛岡出身の実業家・瀬川安五郎が明治18年頃邸宅として建造。 
 ・明治40年に時の盛岡市長大矢馬太郎に売却され、別荘として使用される。  
  この頃原敬が1ヶ月間をここで過ごす。
 ・明治43年実業家金田一国士へ、 
 ・昭和7年豪商赤澤多兵衛へと所有者が変わる。  
  書家新渡戸仙岳により「南昌荘」命名、玄関や各部屋の看板が書かれる。 
 ・昭和62年、大手マンション業者の買収により庭園が維持できなくなりそうになり、盛岡市民生協が購入決定。 
 ・地域生協の合併を経て、現在いわて生活共同組合が維持管理している。  

 120年程の歴史の中で、次々と所有者が変わっています。それぞれの好みに応じて少しずつ趣を変えてきているそうなのですが、いずれの所有者にも愛され、大切にされてきたことがうかがえます。

 現在はいわて生協が大切に管理しています。玄関を入ると、優しい親戚の家を訪れた時のように笑顔で温かく迎え入れられました。「寒いんですよ」と、なんと靴下カバーを貸してくれました。(正直これには助かりました。)一室に暖房を入れて「寒くなったらここで休んでください」と。

 中2階の「南昌の間」。板張の大きな部屋。20畳以上あるのではないかと思います。床板が美しく磨かれています。

  「南昌の間」の周囲は広い廊下に囲まれています。この椅子に座って庭園を楽しむ、という趣向です。新緑や紅葉の時期などは素晴らしい眺めになるのでしょう。雪を楽しむのも一興。ただし寒いです。

 できることならこの廊下の角の椅子に座って、夏の一日を読書に費やしたいです。

 廊下の突き当たりなどにはこのような調度品や現代的な手工芸品が飾られています。訪問客を歓迎する主のいる家、といった趣。

 10畳の座敷が3間続いている「松鶴の間」。ふすまや障子といった建具で区切り、別々の部屋としても、大広間としても使える間取りを考えたのは日本人の知恵ですよね。一番奥に見えるのはホワイトボード。これは現代の建具でしょうか。

 「どうぞ休んでいって」と言われた「香葉の間」は8畳間ですが、他の部屋を見た後ではこじんまりして見えます。黒い扉は階段下を利用した収納。重厚な扉ですが、金庫でしょうか。

 座布団と盆卓がかわいらしくセッティングされていて、柱時計や障子の雪見窓もいい感じ。くつろげます。ヒーターも入って暖かいですし。ここでコーヒーとお菓子をいただきました。400円。可能であればこの部屋で湯豆腐と熱燗なんていうのもいいですね。

 

 きちんと手入れの行き届いた家に温かく迎えられること、これが本当の癒しなのかもしれません。疲れてしまった人、温かく迎えるばかりで迎えてもらえない人におすすめの場所です。

 

 ・開館時間  夏季(4~11月)10時~5時  冬季(12~3月)10時~4時

 ・休館日   月・火曜と年末年始

 ・入園料   大人200円、子供(小中学生)100円

 ※2月8日から3月3日まで、「南昌荘のひなまつり」が行なわれます。他にも様々な展示会等のイベントもあり、また借室もできるようです。

 ※入園券の半券を3枚集めると1回無料で入場できるそうです。


モダンな写真館

2008-01-19 18:40:43 | 盛岡散歩
 建築に関してはまったくの素人なのですが、町で「素敵だな」と思う古い洋風建築は写真館と病院が多いように思います。現代的なピカピカ・ツルツルの建物と違って、レリーフやアーチやバルコニーや縦長のすりガラス窓など、ボコボコ・ザラザラした感じです。
 和風にしろ洋風にしろ、昭和初期までの建物ってなんでこんなに素敵だったんでしょう。




 ・小原写真館 南大通一丁目

 大正~昭和初期の建物。現在は営業していません。
 大迫力なマーメイドのレリーフ!壁面全体がおしゃれな造りです。お店の名前の字体も素敵です。







 ・唐たけし写場 中ノ橋通一丁目

 真向かいに旧九十銀行、左隣に旧小野組の蔵を使った居酒屋さんといった素敵な場所にあるレトロな建物。やはり凝ったデザインです。店舗営業はしていないようなのですが、ショーウィンドウに写真が飾られています。これがまたレトロなんです。
 






 ・佐藤写真館 中央通一丁目
 
 昭和3年の建物。素敵な洋館です。日影門外小路の通りをはさんで↓のライト写真館があります。また、通りの奥には四ッ家教会が。昔のこの辺りはハイカラな場所だったのではないでしょうか。現役の写真館です。





 ・ライト写真館 中央通一丁目

 昭和4年築。こちらも凝った造りです。当時の写真館はセンスの良さを売り物にした、最先端の商売だったのでしょう。玄関横のレリーフも素敵です。こちらも営業中です。



 佐藤写真館さんとライト写真館さんで写真を撮ってもらいたくなりました。
 成人式も結婚式もとっくに済んでしまったし七五三をする子供はいないし・・・。夫婦2人で家族写真というのも、ねぇ。猫でも連れて行くか?!

モダンな銀行建築

2008-01-18 23:25:18 | 盛岡散歩
 明治の銀行設立ブームにのり、金融街として成長したのが中ノ橋通から肴町へかけて(旧町名では紺屋町~呉服町)の一帯です。紺屋町に明治10年(1877)第一国立銀行盛岡支店が開業し、内丸の県庁との連絡を図るために架けられた橋が現在の与の字橋。当時は銀行橋と呼ばれていました。現在の橋↓は昭和44年架設です。



 現在残っている明治~昭和初期の銀行建築は、私の知る限り4つ。すべて一本の道筋にあります。さらにこの道筋を北に伸ばせば紺屋町番屋が、南に伸ばせば旧石井県令私邸があります。まるで「モダン建築の道」です。(勝手に名づけてしまいました。)




 ・旧盛岡貯蓄銀行(現盛岡信用金庫本店) 中ノ橋通一丁目

 昭和2年(1927)築、葛西萬司設計。市指定保存建造物。 
 6本の太い円柱、花崗岩に施したレリーフが素敵です。内部もステンドグラスや大理石のカウンターなど重厚でモダンなデザインだそうです。現役の信用金庫です。中を見るために口座を開きたくなります。
 


 ↑建物向かって左側の路地は「愛染横丁」と呼ばれます。この静かな小路沿いに建物をじっくり堪能できます。





 ・旧盛岡銀行本店(現岩手銀行中ノ橋支店)中ノ橋通一丁目

 明治44年(1911)築、葛西萬司設計。国指定重要文化財。
 以前も紹介したこの建物ですが、実は赤レンガの上から色を塗ったり落としたりしたことがあるのだそうです。
 バルコニーの形がかわいらしいです。




 ・旧第九十銀行本店(現もりおか啄木・賢治青春館)中ノ橋通一丁目

 明治43年(1910)築、横濱勉設計。国指定重要文化財。
 これも以前紹介しました。内部も重厚な造りです。以前の金庫室は現在賢治童話の世界を5分で体感できる展示室になっています。銀行の金庫なんて、めったに入れませんよね。
 


 ↑この建物の屋根のてっぺんが気になっています。とんがり屋根かと思えばそうではなく、なんだか「西洋しゃちほこ」みたいな感じなんです。わかります?




 ・旧共栄貯蓄銀行盛岡支店(現東北総業)

 明治45年(1912)築。東京の銀行の支店でした。
 実はレンガ造りは正面と一階部分だけなんです。

 

 ↑当初は隣にも建物があったのでしょうね。合理的なつくりです。