甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

岩手公園4

2007-12-31 00:34:40 | 盛岡散歩


 ↑彦御蔵の屋根瓦。南部家の家紋、向かい鶴。美しい意匠です。
 3回シリーズのはずの岩手公園レポートですが、今日は補足です。

 【盛岡城・岩手公園の歴史】
 慶長2年(1597)南部信直公により築城開始。
 明治5年盛岡城閉鎖。7年廃城、陸軍省の用地となり建築物のほとんどが取り壊しとなる。明治23年南部家へ払い下げられ、39年岩手県へ貸与となり、公園として整備される。設計は当時の第一人者・長岡安平。平成18年(2006)開園100周年。愛称が「盛岡城跡(もりおかじょうあと)公園」に決定。


 実は私はこれまで、時鐘も彦御蔵も烏帽子岩も見たことがありませんでした。子供のころから何度も訪れたはずの岩手公園ですが、実は何も見ていなかったのではないかと思ってしまいます。変わってしまった部分もありますし。(イワマ靴店がなくなったり、多目的広場から孔雀がいなくなったり。)
 また、下調べをしてガイドブックを手に歩いたのに、見落としてしまった場所がいくつもありました。意外と広いのです。やはりもう一度歩いて見なければなりません。おそらくこのシリーズも続く!

 今回初めて岩手公園を丁寧に見て、ここはやはり城跡なのだということを感じました。ずっと「岩手公園」と呼んできたので今さら呼び方を変えるつもりはないのですが、私たちの祖先が大切にしてきたお城の跡に対し、敬意を払うことを忘れないでいようと思います。

 これで私も仕事納めです。皆様よいお年を。

岩手公園3

2007-12-30 16:39:59 | 盛岡散歩
 啄木が盛岡中学を窓から抜け出して寝転んだ城跡は当時荒れ放題だったようで、まさしく「お城の草に」といった風情だったのでしょうけれど、その後公園として整備された時は随分とハイカラに見えたようです。
 現代の岩手公園は、お散歩はもとより花見にデートにお外ランチに、新興宗教やデモ行進の集合場所としてまで、実に多彩に気楽に使われています。
 そんな「公園」としての姿と、数少ないお城の遺構を。
 


 ↑石川啄木歌碑。記されているのは「一握の砂」に収められている歌。

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心

 このあたりから盛岡中学跡(現岩手銀行本店)が見えるそうです。
 私はてっきり、啄木は上田の現盛岡一高を抜け出してはるばるここまで来たのだとばかり思っていました。遠すぎますよね。
 この碑は昭和30年南部藩士邸にあった庭石を使用して建立されました。歌は啄木と親交の深かった金田一京助の筆によるものです。
 啄木の歌はセンチメンタルなものが多いように思いますが、この歌からは晴れ晴れとした気分が感じられ、私は気に入っています。




 ↑新渡戸稲造の碑。

  願わくはわれ太平洋の橋とならん

 「太平洋のかけはし」だとばかり思っていました。勘違い。
 この言葉、明治16年(1886)21歳の新渡戸が東京大学選科生となる面接試験で「英文学を学ぶ目的は?」との問いに対して答えたというもの。大志を持った青年です。
 そしてもちろん、国際連盟設立時の事務次長を務め、『BUSHIDO (THE SOUL OF JAPAN)』の出版により世界中に日本文化の理解を広めるなど、その後の活躍は太平洋の橋に留まらないスケールの大きなものとなりました。
 『BUSHIDO』って英語で著したのですよね。岩波文庫で矢内原忠雄訳による日本語版を読むことができます。これを書いたとき、新渡戸38歳。おそるべし。




 ↑宮野小提灯句碑。宮野小提灯は『ホトトギス』で活躍し『夏草』を創刊。郷土を愛し続け大正から昭和の(戦時中も含め)岩手俳壇の発展に尽くしました。

  月待つや独り古城の松のもと




 ↑南部中尉銅像台座。南部家42代利祥(としなが)公は時の皇太子(大正天皇)の学友でした。陸軍に仕官し日露戦争に出兵、満州の最前線で明治38年(1905)戦死。旧盛岡藩士らによって明治42年(1909)銅像建造。台座は旧第九十銀行を設計した横濱勉設計。この銅像の除幕式に皇太子が来盛することになり、宿舎と公園を結ぶ橋として建設されたのが毘沙門橋ということです。(現在の橋は昭和36年建設。)銅像は昭和19年(1944)金属供出されてしまいました。




 ↑北側に設置されている案内表示。供出される前の銅像の写真を見ることができます。この馬の頭の石膏型と言われるものが報恩寺に展示されています。本堂から羅漢堂へむかう途中(鋳金原型堂)にあります。かなり大きいものでした。
 台座だけでも充分立派ですが、やはり実物の銅像を見てみたかったです。




 ↑渡雲橋。二の丸と本丸をつなぐ朱塗りの御廊下橋。かつては屋根がかかっていました。絵になる場所です。




 ↑朝日谷。朝日が最初に差し込む場所。紅葉の時期は見事な眺めとのこと。




 ↑宮沢賢治詩碑。『岩手公園』の詩碑と街灯がいい感じです。昭和45年建立。




 ↑詩碑をアップで。牧師ヘンリー・タッピング夫妻をモデルとして創作された文語詩です。

 岩手公園

 「かなた」と老いしタピングは
 杖をはるかにゆびさせど
 東はるかに散乱の
 さびしき銀は声もなし

 なみなす丘はぼうぼうと
 青きりんごの色に暮れ
 大学生のタピングは
 口笛軽く吹きにけり

 老いたるミセスタッピング
 「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
 中学生の一組に
 花のことばを教へしか」

 孤光燈(アークライト)にめくるめき
 羽虫の群のあつまりつ
 川と銀行木のみどり
 まちはしづかにたそがるゝ

           賢治




 ↑彦御蔵。城跡唯一の現存建造物。木造2階建ての土蔵造り、屋根は新山御蔵同様の二重構造。参勤交代の道具を入れていたと考えられています。平成2年に吹上御門下から現在地・腰曲輪下に移設されました。もともとここ腰曲輪下には米内蔵と呼ばれる米蔵があったようです。

岩手公園2

2007-12-29 16:05:33 | 盛岡散歩
 岩手公園といえば石垣。今日はこれでもかというほどの石垣づくしをお届けします。




 ↑櫻山神社の右手、かつて鳩御門があったあたりが北側の入り口です。入ってすぐの右側がこの石垣。このあたりに宝永2年(1705)の石垣普請奉行銘石があるはずです。
 石と石との隙間がほとんどない、きれいな切込接(きりこみはぎ)です。




 ↑一枚目の写真の向かい側です。傾斜しているラインにそって算木積(さんぎづみ)で角を作り、強度を持たせています。




 ↑上の2枚からほんの少し上に移動。瓦御門跡付近。算木積の美しさが分かるのはこういう部分だと思います。長方形の石を長辺・短辺交互に積んで角を作っています。くっきりしてます。




 ↑車御門跡付近。背後に教育会館の建物が見えています。この近くに啄木の歌碑があります。
 この石垣を土台にして門があったのでしょうか?小さな石組みですが、だからこそ組み方が難しそうです。




 ↑二ノ丸から吹上馬場に向かって行きます。御二階櫓南西角。
 どうやら私は算木積のすっきりした角のラインばかり追いかけているようです。




 ↑虎屋敷跡付近から二重隅櫓(大櫓)跡を見るとこんな感じになります。ずっと奥に小櫓跡も見えて、三重の角です。角・角・角。算木積ファンにとってはたまらない場所です。




 ↑米内蔵跡付近から。青い空に映えます。昭和・平成の大修理で復元されたのはこの石垣のはずです。(上、下の写真も含めて)




 ↑南西角。角の傾斜が直線ではなくわずかに曲線を描いています。これにもきっと理由があるはず・・・。




 ↑菜園通り側出口に向かって、石垣も斜めに下がっていきます。




 ↑石垣の斜度が切り替わっています。侵入者をよけるためでしょうか。それとも排水のためでしょうか。上の方に穴がありますが、蛇口跡(排水口跡)でしょうか、それとも矢穴跡でしょうか。専門家の話を聞いてみたいです。

 石垣の美しさは、場所にあわせてきっちり丈夫に組んでいく機能美なのですね。まだまだ見落としているポイントがたくさんあります。石垣の世界は深い。

岩手公園1

2007-12-29 00:22:11 | 盛岡散歩
 岩手公園のレポートをアップしないうちは仕事納めになりません。写真の写りがよくなかったり(いつものことですが)、撮り忘れたポイントがあったりで、もう一度岩手公園を歩くつもりだったのですが、それは来年への宿題ということで。
 3回シリーズでお届けします。今日は岩手公園北側をレポート。



・時鐘  内丸四

 中央通から鳥居をくぐって左手にある内堀跡・鶴が池のほとりにある時の鐘。延宝七年(1679)小泉仁左衛門清則により鋳造されたもので、市指定文化財になっています。日影門外時鐘と言われ、現在の中央郵便局裏(外堀土塁上)にあったものですが、明治維新後にこの地に移され、昭和30年(1955)年頃まで実際に時を告げていました。
 戦時中の金属供出を免れたのはなぜなのでしょう。利祥公の銅像も供出しているのですが・・・。時の鐘はそれほど大切にされたということでしょうか。
 今でも時の記念日(6月10日)正午と大晦日の除夜の鐘として鳴らされているそうです。




・櫻山神社

 南部氏の始祖・光行、初代藩主・信直、2代藩主・利直、11代藩主・利敬を祭神として祭っている神社。城内腰曲輪の淡路丸に寛延2年(1749)創建されたものが明治維新で移され、他所を経て明治32年(1899)にこの場所に移されました。1月26日には裸参りが行なわれています。この場所にはかつて藩の勘定所がありました。狛犬の右側は火消しの1番組、左側は2番組が奉納。神門は綱御門(大手門)の木材で作ったと言われており、また江戸藩邸にあった「おもかげ地蔵尊」や高橋萬治作の灯篭もこの神社の入り口付近にあります。
 年の瀬だからでしょうか、神門には茅の輪が設置してありました。



・烏帽子岩

 盛岡城築城時、かつて八幡社のあった傍らに三角状の岩があり、掘ってみたところ烏帽子に似た二丈ばかりの巨大な岩が現れたため、利直公はこれを瑞兆として喜び、この岩を宝大石として崇めました。災害・疫病などがあった時など、この岩の前で神事が行なわれ、南部藩盛岡の「お守り岩」とされました。
 ↑の写真は櫻山神社右側の階段を上がって撮影。↓は反対側の三ノ丸側から。
 

旧覆練兵場

2007-12-27 23:41:12 | 盛岡散歩
 
 何となく時流に乗り遅れているこのブログではありますが、珍しくタイムリーな話題です。



 ・旧覆練兵場  青山二丁目

 県営体育館や青山小学校・青山児童館に囲まれて、赤レンガ造りの大きな建物があります。
 1909年築。旧陸軍に使用され、戦後は引揚者用の施設となった歴史があります。軍関連施設が多くあった青山町でも、このような建物は他にはほとんど残されていません。

 この建物を、スポーツや集会などができる多目的施設として活用する提案が出されています。
 歴史的建物を保存するだけでなく積極的に活用していこうという動きには大賛成です。内部を見ていないのですが、どんな施設にしたらこの建物の良さが生きるのだろう、と想像力をかき立てられます。ビアホールなんかいいんじゃないか、とか、ワインセラーは?と思う私はただの酒飲みですね・・・。夢がない。反省。

 青山小や青山児童館と連携して活用する方向性にもあるそうですが、実際子供達はこの建物をどのように見ているのでしょうか。気になるところです。




 ↑こちらは日本通運青山倉庫です。現在も使用されているからでしょうか、建物の状態もいいようです。この奥にももう一つ、別の会社に使用されている同様の建物があります。

下町史料館(御蔵)とあさ開

2007-12-23 23:13:06 | 盛岡散歩
 天皇誕生日の日曜日、町は雪ならぬ小雨の中、クリスマスのきらめきでいっぱいです。
 そんな華やかさはさておき、今日は月に一度の(冬季)下町資料館の開館日。見学ついでにあさ開の工場見学もしてきました。ほろ酔いで帰宅してもM-1グランプリに間に合うという、健全な(?)クリスマスイブイブです。



 ・下町史料館(御蔵)  南大通三丁目12番30号

 江戸時代後期築。盛岡市指定有形文化財。盛岡藩の米蔵として使用されたものです。飢饉にそなえた米蔵は他にもあったようですが、最終的にこの御蔵に集約されたようです。北上川沿い、旧舟橋そばのこの位置にあって、幾度となく大洪水に見舞われながらも御蔵の内部には水が入ったことがないということです。高床式にして換気をしやすくしてあること、屋根の屋地板を二重構造式にして間に空気層を設けて断熱してあることなど、米蔵ならではの建築技術が生かされています。
(以前の記事へ)

 昭和58年に盛岡市が取得、御蔵管理委員会により「盛岡市下町史料館」として生まれ変わりました。内部には新山舟橋ゆかりの史料、江戸時代以来の庶民の日常生活用具、農具、消防関連用具など約1000点が展示されています。

 様々な旧家の蔵から出てきたものなのでしょう。1つ1つが物語を持っていそうでおもしろいです。内側に「おかめ」外側に鬼が描かれたお猪口は節分に用いられたもので(鬼は外~福は内~)「へなちょこ」というそうです。へなちょこになるまで飲ませろ、という意味のネーミングだそうです。明治時代のままごと道具は陶器と銅で、小さいのに精巧なつくりです。

 西郷隆盛の書、書店「文明堂」の看板やその下書きとなった書(有名な書家の手になるもので「なんでも鑑定団」に出るらしい)、五月人形の立派な螺鈿細工、杉土手は夜になると怖くて通りたくなかったことなどについて、管理委員会の方の説明をいつまでも聞いていたかったのですが、いかんせん年の瀬の蔵の中は寒くて、長くいることはできませんでした。ぜひ暖かくなってからまた訪れたいと思います。

  開館日   5月から10月 第2・3・4日曜日
         11月から4月 第4日曜日
  開館時間  午前9時から午後4時
  入館料   無料




 ・あさ開  大慈寺町10-34

 見学をお願いすると、係の方が案内をしてくれました。日曜でしたので実際に作業をしているところを見ることは出来ませんでしたが、まずは昭和旭蔵内で手作りでの酒造りの工程と、機械化された現代の酒造り工程について説明を受けました。それから別の建物で瓶詰め工程を、最後に地酒物産館で3種のお酒を試飲しました。
 少しずつでも3種飲めば内臓から温まっていい感じになります。一番気に入った蔵出し大吟醸生原酒をビンにつめてもらってお土産に買いました。
 
 その後は、半端な時間ではありましたが、付属の多国籍レストラン「ステラモンテ」で食事です。豆乳と酒かすを使った「雪見鍋」がおいしかったです。これが我が家のクリスマスディナーになりました。

   工場見学  午前9時から午後4時30分まで
   地酒物産館 午前9時から午後9時まで
   レストラン  午前11時30分から午後10時まで
          (平日昼 バイキング 午後2時ラストオーダー)

ござ九

2007-12-21 22:26:29 | 盛岡散歩


 ・ござ九  紺屋町

 文化13年(1816)創業。岩手県指定文化財。現在も竹細工・わら工芸品や荒物を扱っています。現存の建物は江戸末期から明治まで増改築したもので、間口20間、総2階の木造建築です。紺屋町側の母屋のほか、裏側の土蔵7棟、川べりの土塀があります。

 今年11月、盛岡の市民団体による清掃活動が行なわれた折、ござ九の土塀の落書きがきれいに消されました。この落書きは30年ほど前にはすでにあったもののようですが、今では写真の通り真っ白です。これからこの白壁が黄ばんで黒ずんで古びた味わいになっていくまでずっと、落書きができなければいいのですが。

 ござ九さんではネット販売もしているようです。

岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店)

2007-12-19 00:02:54 | 盛岡散歩


 ・岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店) 中ノ橋通り一丁目

 辰野・葛西建築事務所設計。明治44年(1911)建造。平成6年(1994)国重要文化財指定。
 葛西萬司は盛岡出身の建築家。日本銀行本店(旧館)、旧国技館、東京駅、女子学習院、旧盛岡貯蓄銀行本店(現盛岡信用金庫)、旧南部家別邸、岩手医科大学1号館などを手がけました。東京駅とこの岩銀中ノ橋支店は似ているそうです。

 盛岡のランドマークと言えるかもしれません。周囲には岩手公園、中津川河畔、ござ九などの古い店舗、観光案内所(プラザおでって)等観光客が見るべきものがたくさんあります。日没後はライトアップされます。朝昼夜、晴れていても雨でも雪でも、それぞれ違った風情があります。

 現役の銀行として使われているところがいいですね。古い建物はえてして使い勝手が良くないものですが、手入れをして使い続けることが何よりの保存方法だと思います。

医大・石割桜・公会堂

2007-12-17 19:38:57 | 盛岡散歩


・岩手医科大学1号館 内丸

 葛西萬司設計、大正15年竣工。

 この中に、開かずの金庫があると聞いたことがあります。開け方も、何が入っているのかも不明なのだとか。医大は矢巾町に移転することになっているのですが、その時はこの金庫も開くのでしょうか。

 医大病院は複雑な構造で迷路のようです。案内を請うと、床に引かれた様々な色のラインをたどって行くよう指示されます。

 個人的には、外来会計前ベンチの一番奥、振り子時計と誰かの像と、戴帽式を描いた大きな絵のある場所が好きです。

 


・石割桜   内丸(盛岡地方裁判所構内)
 
 直径1.35m、樹齢360年超のエドヒガンザクラ。大きな花崗岩の割れ目に生える姿から「石割桜」と呼ばれますが、明治初期には「桜雲石」と呼ばれていたとか。大正12年天然記念物指定。

 いつも観光客や修学旅行生に取り囲まれている石割桜も、さすがに葉が散りきったこの時期はひっそりとしていました。

 盛岡城が完成したころから生きている石割桜です。花も葉も落としても、見事な枝ぶりです。大切に守る人たちの努力がずっと続いているのだろうと思います。




・岩手県公会堂  内丸

 昭和2年(1927)、当時の皇太子(昭和天皇)ご成婚を祝い、建築されたもの。佐藤功一設計。様式が似ている日比谷公会堂も同じ人の設計です。平成18年、国の有形文化財登録。

 ↑の写真は中央通り側の正面入り口。当初は県会議事堂・西洋料理店・皇族方の宿泊所・ホールの4つの機能を持った建物だったようです。正面入り口右側の西洋料理店(公会堂多賀)と北側の大ホールは現役です。 

 公会堂には昭和33年製造のコンサートピアノがあります。このピアノ、そしてホールの響きがとてもいいと、5月に出前コンサートに来た矢野顕子さんが話しておりました。今度ジャズコンサートでも使用されるようです。
 
 この正面入り口前と、県庁側(西側)の入り口前には大きなクリスマスリースが設置されています。夜にはライトアップもされているようです。中ではリース展が行なわれていました。



 正面入り口左手にある原敬像。昭和26年、本山白雪の作。若いお姿の原敬先生です。



 県庁側入り口前のリース。正面入り口と少し違うのかな?北側の入り口にはありませんでした。



 西側の壁。小さくてよく見えませんが、アールデコ調のレリーフが美しいです。
 

川と銀行 木のみどり

2007-12-15 11:45:01 | 盛岡散歩

 
 13日の雪が溶けてシャーベットや泥んこになっている中、岩手公園付近を散歩してきました。靴の底に泥んこがついて、靴底がどんどん厚くなる感じでした。
 この時期の午後は、あっという間に日が翳ってしまいます。医大・公会堂・岩手公園・市役所裏・与の字橋・ござ九裏と歩いて中の橋まできたときには、もはや夕暮れでした。

 まさしく賢治の詩の一節
「川と銀行 木のみどり まちはしづかにたそがるゝ」の風情。



 これまで何度も歩いた岩手公園ですが、今回初めてじっくり歩いてみて、石垣の美しさ・多様さに参ってしまいました。また改めてレポートします。
 


 市役所の裏を歩いていたら、上空を白鳥が数羽飛んで行きました。

岩山

2007-12-14 10:31:38 | 盛岡散歩
 ・岩山

 岩山は盛岡の東部にある標高340.5mの小高い山です。カップルは夜景を見に頂上の展望台へ、家族連れは遊園地や動物公園(どちらも冬季は休業)・ファミリー向けのスキー場へ、大人は「漆芸美術館」(ここも冬季は休業)やゴルフ場へと、広く愛されている場所です。
 ただし町から気軽に行けるとしても山は山。道路は急勾配ですし、ふもとではとうに溶けてしまった雪も頂上には残っていました。冬場はあまり行きやすい場所ではありません。本格的な雪になる前に、と思って行って来ました。(13日の雪が降る前のことです。行っておいて良かった・・・。)



 展望台は上下2箇所あります。このUFOみたいなものが上の展望台。盛岡出身の実業家・鹿島精一(鹿島建設)を記念して昭和37年(1962)に作られました。展望台の階段を登っていく途中に像があってビックリします。



 下の展望台はレストラン(これも冬季休業)の上にあります。そばには茶屋(営業していました)もあります。下の展望台からの眺め。



 ズームして4号線の「平安閣」あたりを見てみました。夜景は8時頃がきれいです。



 茶屋のすぐそばに、「啄木望郷の丘」と名づけられた一角があり、啄木の像や歌碑がありました。この像は照井栄による「啄木望郷の像」(昭和57年)です。なんだかひょろっとした啄木さんです。このそばに「啄木詩の道」という散歩道も整備されていますが、寒いのでパスしました。



 啄木の像が眺めている風景。ちょっと方向がずれたかな?姫神山か岩手山の方角じゃないとおかしいですよね・・・。





 啄木と妻・節子の歌碑です。夫婦そろっての歌碑というのは珍しいらしいです。




 岩山へ登る坂道の途中に「岩山漆芸美術館」があります。ここでは韓国出身の漆芸家・全龍福(チョン・ヨンボク)さんの作品を中心として、漆塗りの作品を展示しています。この建物では以前「橋本美術館」として橋本八百二の作品や収集品を展示していました。私は橋本美術館には2度入館したのですが、漆芸美術館はまだです。12月から冬季休業ということで入館することはできませんでしたが、建物の外観も一風変わっていて素敵でした。

三ツ石神社

2007-12-13 11:16:02 | 盛岡散歩


 ・三ツ石神社 那須川町
 
 盛岡散歩でぜひ訪れたいのが「三ツ石神社」の鬼の手形です。「不来方(こずかた:この地域を指す古い言い方)」「岩手」といった地名の由来でもあり、また「さんさ踊り」の起源とも言われているからです。
 鳥居をくぐるとぽっかりひらけた空間があり、その奥に注連縄と鎖を巻いた花崗岩の巨石が三つ鎮座しています。これがこの神社のご神体・三ツ石様です。



 左側の石の注連縄のまいてあるあたりが大人の男性の身長くらい(170cmほど)です。石の高さは多分3mを超えています。



 前から見ると石は2つに見えますが、後ろから見ると3つあるのがわかります。

 昔、里人を苦しめていた鬼(羅刹)が、三ツ石様に退治されました。このとき鬼は「二度と来ません」(不来方)と誓い、手形を押しました。岩に手形で「岩手」というわけです。里人たちが喜んで「さんさ さんさ」と踊ったのが、さんさ踊りの起源といわれています。



 
 北山・寺町にある東顕寺の裏、下小路中学校のすぐそばにあります。この近く、本町通り界隈も古い町なので、裏通りには古い店構えなど見ることもできます。

河南の寺町散歩3

2007-12-13 11:14:19 | 盛岡散歩


・浜藤酒造店跡(岩手川第二工場跡)鉈屋町

 「いわ~て ふるさ~とよ~」のCMソングは岩手県民ならおなじみ。残念ながらもう「心の酒です いわてがわ~ ぱらら~」のCMも、お酒自体も味わうことはかなわなくなってしまいました。2006年2月に134年の歴史に幕を下ろしたのです。
 ↑は事務所と思われる建物ですが、杉玉が下がっていました。
 この右並びには鍛冶屋さんがあって、「カンカン」といい音が界隈に響いていました。



 反対側から見た様子。蔵の壁がまぶしいくらいに白いです。
 窓が開いていたのは換気のためでしょうか。
 これらの建物は八戸資本のスーパーマーケットが取得したそうです。



 土蔵に柿の木。似合いすぎです。





・新渡戸稲造生誕地(新渡戸公園)下の橋近く

 旧五千円札でおなじみの新渡戸稲造の生誕地が、新渡戸公園として整備されています。公園といってもさほどの広さはありませんが、新渡戸像を中心として居心地の良い空間になっています。
 何と言っても新渡戸像が素晴らしい。作者は朝倉文夫です。椅子に座って頬杖をついている新渡戸稲造は、穏やかな微笑みを浮かべています。まるで観音様のような、癒される笑顔です。



 像の裏側にも素晴らしい言葉が彫られていました。新渡戸の言葉ではなく、公園設立にあたっての献辞でした。
 ここは、素晴らしい空間です。




・もりおか啄木・賢治青春館 中の橋通り一丁目

 明治43年着工、横濱勉設計の旧第九十銀行本店の建物を利用して、盛岡で青春時代を過ごした二人の文学者の足取りを、分かりやすく展示しています。
 ロマネスク様式の建物自体がたいへん美しいのですが、それを損なわないよう配慮した展示になっています。啄木記念館は玉山区に、賢治記念館は花巻にあるのですが、どちらも盛岡の市街地から遠いのが難点です。盛岡を訪れた啄木・賢治ファンに、二人ゆかりの岩手公園から遠くない場所で、このような施設で資料を見てもらえるのはとてもいいことだと思います。
 私が訪れたとき、二階の展示スペースで立原道造の企画展をやっていました。おかげでずっと欲しかった「盛岡ノート」を購入することができました。
 喫茶コーナーではおいしいコーヒーをいただきました。チーズケーキセットで650円。いい感じでした。



・小野組土蔵  もりおか啄木・賢治青春館向かい

 上方商人・小野組の土蔵です。江戸時代の建物です。現在は郷土料理やお酒を楽しめるお店になっています。


ごあいさつ

2007-12-12 11:50:20 | 御挨拶 (始めにお読みください)


 私・甚六の拙いブログにお越しくださってありがとうございます。
 このブログでは盛岡近辺・岩手県内の見どころ・食べどころなどを私自身の体験を通してつづっていきたいと考えています。また、時には我が家の変な猫の様子もご覧いただきたいと思います。
 「盛岡散歩」のカテゴリーでは主に盛岡の神社仏閣歴史的建物などを訪れてレポートしますが、私の知識の足りない部分は各施設のパンフレット、現地の案内板の他、以下の図書やウェブサイトを参考にさせていただいています。

【図書】
「岩手県の歴史散歩」岩手県高等学校教育研究会地歴・公民部会 歴史部会日本史部会編 山川出版社 2006
「盛岡もの識り検定試験参考書 もりけん本」文化地層研究会編 盛岡商工会議所 2007
「盛岡町家 盛岡市街並み保存活用計画調査報告書」盛岡市街並み保存活用計画策定協議会企画編纂 盛岡まち並み塾 2007
「いわてのお寺さん 盛岡とその周辺」北稿房E&R/外内英子 テレビ岩手 2005
「シリーズ藩物語 盛岡藩」佐藤竜一 現代書館 2007
「もりおか歴史散歩」アップル編集部 東北堂 2006
「岩手県市町村地域史シリーズ1 盛岡市の歴史」長岡高人 熊谷印刷出版 1991
「ぶらり盛岡 河北版/河南版」ぶらり盛岡研究会 2002
「盛岡ノート」立原道造 東山堂 2007
「一握の砂・悲しき玩具」石川啄木 新潮文庫 2007
「岩手県の歴史」細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏 山川出版社 2004
「いわて歴史探訪」岩手日報社 2006
「岩手の戦争遺跡をあるく」加藤昭雄 熊谷印刷出版部 2006

【ウェブサイト】
財団法人盛岡観光コンベンション協会
盛岡商工会議所
盛岡タウン情報
テレビ岩手 夢見るピノキオ


 このブログ全体を通して、間違った記述等ありましたらお知らせください。
 また私は専門家ではありませんので、このブログからの引用はおやめください。