甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

観武ヶ原練兵場 まとめ

2008-01-23 21:20:03 | 盛岡散歩
 青山・月が丘・みたけ地区の軍事遺跡を探しながら、分かってきました。なぜ盛岡に練兵場があったのか。


 その答は戊辰戦争にさかのぼります。

 盛岡藩は奥羽越列藩同盟の一員として薩長を中心とした新政府軍と戦って破れたため賊軍の汚名を着せられることとなり、盛岡藩出身者は明治新政府の中で重要なポストに着けませんでした。それどころか「白河以北一山百文(白河より北の地は価値がない)」などとばかにされたりもしたのです。軍隊の誘致は汚名挽回のチャンスでした。

 そんな折、弘前の工兵隊では演習地が不足しており、また火災にも遭ったため、盛岡への移駐請願運動が高まりました。そして明治41年(1908)に念願の工兵第八大隊盛岡移駐が実現し、翌年には騎兵第三旅団が盛岡に新設されました。合計3000の兵は盛岡市民に大歓迎を受けました。軍隊は馬や大量の農作物を購入しますし休日には兵隊が町へ外出します。当時の盛岡の産業振興に大いに役立ちました。また騎兵第三旅団は馬産地の良馬にまたがる最強の騎兵旅団として将兵の羨望の的だったそうです。

 昭和6年(1931)の満州事変を受け、騎兵第三旅団は昭和10年、工兵第八連隊は昭和12年にそれぞれ満州へ移駐します。

 騎兵第三旅団はゲリラ兵の討伐に当たり(そこで命を失う兵もいましたが)大きな戦闘に参加することがなかったため「幻の旅団」とも呼ばれました。故田中角栄氏もこの旅団に入隊しています。昭和20年(1945)2月に改編のため解散となりました。また、盛岡に残された第三旅団の敷地には昭和14年(1939)兵制上初めての盛岡陸軍予備士官学校が新設されています。

 一方工兵第八連隊は南進政策によりフィリピンに向かう途中米軍潜水艦の攻撃を受け多数死傷し、またフィリピン上陸後も多数の犠牲者を出しました。


 偶然見つけた赤レンガの覆練兵場のおかげで、関連する新聞記事に目を留め、本を探し、そしてこういうことを知ることができました。

 木造の兵舎跡(1階は購買部、2階は集会所だった)は取り壊しが始まりました。覆練兵場はどんな活用をされるのでしょう。もしその中で子供達がサッカーやテニスをすることになっても「この建物はね、昔・・・」と大人が話して聞かせるきっかけは残ります。もしその中で大人達がビールを飲むことになっても・・・。(まだ言ってる。すみません。)


 以下の2冊の本から多くのことを学びました。

 「岩手の戦争遺跡をあるく」加藤昭雄 熊谷印刷出版部
 「いわて歴史探訪」岩手日報社