甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

観武原碑

2008-01-22 13:07:29 | 盛岡散歩


  ・観武原碑  みたけ3丁目

 城北小学校向かい、酒屋さんの駐車場内に、いくつもの碑が立つ一角があります。その中でひときわ大きく古めかしい碑が、上の写真右側の「観武原碑」です。(左側は「観武ヶ原開拓の碑」)以前はここより1km南の青山四丁目に設置されていたようです。 

 
 観武原碑の碑文は漢文調の上欠損した字がある(大正時代、郵便飛行機がぶつかった)ので、到底私の手に負えるものではありませんが、親切に解説の碑があるのです。助かります。 これによると、この碑には観武原が命名された由来が書いてあるようなのです。要約すると・・・

 明治41年九月、工兵第二、第七、第八大隊と第八師団の歩兵が参加して岩手山南麓地方で特別工兵演習が行なわれたとき、皇太子(大正天皇)が訪れ、無名だったこの地を観武原と命名した。これを記念して碑を建てることになり、文章は山県有朋に依頼された。明治41年12月。

 「観武」とは「天皇が武勲を観た」ことに由来しているのですね。現在のように「みたけ」とひらがな表記にしたのはおそらく戦後のことなのでしょう。
 工兵第八大隊(のちの第八連隊)はこの3ヶ月前に盛岡に来たばかり。もしかしてお披露目的な意味合いもあったのかな?などと想像します。


  観武ヶ原開拓25周年記念碑。戦後すべての部隊は解散し、この地は食料増産のため開拓が行なわれました。また、覆練兵場兵舎等の軍施設は引揚者用の住宅・学校等に利用されました。


  燕航空部隊発祥地碑。観武ヶ原に設置されていた航空隊を記念して建てられたもの。運動公園正門前の道路は昔飛行機の滑走路だったそうです。他に歩兵独立兵団、戦車隊、通信教育隊、航空教育隊なども設置されています。
 観武ヶ原は騎兵・工兵の演習場から、戦車・飛行機の演習場へと時代と共に移り変わっていったのです。月が丘は起伏が多かったため戦車山と呼ばれる戦車の教習所になっていたそうです。


  ・陸軍特別大演習観武ヶ原野立所跡  月が丘二丁目

 「大元帥陛下御野立所聖蹟」とあります。花巻にも同様の記念碑があります。
 昭和3年、陸軍特別大演習が岩手県下で大規模に行なわれました。この演習は各都道府県で毎年行なわれ、演習という意味合いのほかに、軍国主義的意識の高揚という目的も持っている大イベントでした。天皇の他皇族や将官たちが大勢訪れるため、何年も前から準備されたそうです。
 野立所というのは天皇の休息所という意味なのですが、実際に天皇がこの地を訪れてじきじきに統裁した場所、ということで記念碑が建てられているようです。花巻野立所で統裁する昭和天皇の写真も残っています。


 探してみると色々あるものなんですね。石碑ひとつとっても、建てられた経緯や文面から(時にはその傷から)時代の空気がにおってくるようです。



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