甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

骨寺村荘園

2008-05-08 22:06:08 | 平泉散歩


 毛越寺~達谷窟からさらに進み、厳美渓も過ぎてしばらく進むと、左手に骨寺村荘園遺跡の案内所があります。案内所から道路をはさんだ一帯が荘園跡。
 案内所で地元の方たちからパンフレットを貰い、「傘かしましょうか?」などと親切な言葉をかけていただきながら出発。小雨の中、1時間のショートコースを歩いてきました。

 ここは平泉町ではなく一関市。現在は「本寺」地区です。
 東北ではよく見る当たり前の風景。田んぼに水が入り、山が映っています。さすが県南、早い。


 骨寺村荘園、というのは中尊寺の荘園。陸奥国骨寺村絵図(↑の右の図)に描かれた中世の荘園が、ほぼそのままの状態で現存しています。


 古絵図の上方にも描かれている駒形根神社から見た景色。古絵図を縦断する川(現・本寺川)が現在こんな風に流れています。


 鳥居前に並ぶ様々な石碑。一つ一つ詳しく見たくなります。


 狛犬ウォッチング。吽形イワク 「ふふん。」


 阿形ワラウ 「にかっ。」

 社殿。奥殿もある立派な造りです。


 社殿の軒下に下げられた絵馬。ボケボケ写真ですが、相撲の土俵入りの様子が描かれているのが見えます?


 社殿の奥にもさまざまな石碑や祠。


 本殿の右側に馬小屋が?かわいい馬のご神体。「駒形根神社」ですから。


 鐘楼。鐘楼を持つ村、良く考えてみるとすごいです。


 鐘楼そばから見下ろしています。 水戸黄門御一行が歩いていそうです。

 さて、神社から下りて荘園跡を歩いてみます。
 コース内にいくつか遺跡がありますが、これは梅の木田遺跡。荘園経営のための重要施設跡か、と言われています。 

 中尊寺まで牛車が往復したという沢。 中尊寺・・・結構遠いですよ?

 遠西遺跡。荘園時代の生活の跡と考えられています。


 田んぼでは農作業の真っ最中。ここは観光地ではなく「生活の場」なのです。そして現在でも生活の場であるということに、価値があるのだと思います。
 何だか「よそ者がお邪魔してすみません・・・」というような気分になってしまいましたが、すれ違う人々は気持ちよく挨拶をしてくれました。

 ガイドツアーもあるようです。ツアーでなければ行けない場所もあるので、ぜひまたガイドツアーで歩いてみたい場所です。
 帰りしなに案内所(=ミニ直売所)で買った筍、おいしかったです。さすが県南。

達谷窟(たっこくのいわや)

2008-05-07 23:52:05 | 平泉散歩


 平泉駅から毛越寺に至る県道をそのまま厳美渓方面に5kmほど進むと、道路わきに「髢石(かつらいし)」、太田川の川岸に「姫待(ひめまち)の瀧」などといった表示が見られるようになります。山の中に入っていく気分ではありますが、辺りには田園風景が広がり、決して「深山幽谷」ではありません。
 やがて右手に唐突に表れるのが、↑の毘沙門堂。

 狛犬の顔を確かめるのが癖になりました。上は「真実の口」風。下は笑いを必死でこらえてる風。
 ところでここは西光(せいこう)寺という天台宗のお寺の中。毘沙門堂の中には25体の毘沙門天像が安置されています。
 神仏混淆って、むずかしいですね。拍手を打つべきかどうか、悩みどころです。

 さて、急な木造りの階段をあがり、薄暗い毘沙門堂にお参りします。

 約1200年前、悪路王などと呼ばれた蝦夷たちがここを拠点として人々を苦しめていたのを、801年、征夷大将軍・坂上田村麻呂に平定されました。毘沙門天のご加護、と感じた田村麻呂が毘沙門堂を建てたことが始まり、と言われています。

 毘沙門堂の床下。京都の清水寺を模して作られた、というのも納得です。

 毘沙門堂を左側から。岩穴にすっぽりはまるように作られています。

 毘沙門堂を正面から。堂の上の方、岩が崩れたようなあとがありませんか・・・?

 岩面大佛。北限の磨崖仏。これだけ見ると、ここは中国?といった感じ。大日如来とか阿弥陀如来とかいわれているそうです。

 明治の地震で肩から下が崩落してしまったそうです。今後これ以上崩落することがなければいいのですが・・・。実際摩滅は進んでいるようです。

 姫待不動堂。「姫待瀧」の傍らにあったものが移されたようです。
 「姫待瀧」とは、悪路王たちが都からさらってきたお姫様が逃げだそうとしたとき待ち伏せした滝なのだそうです。見せしめに姫の髪を切ってかけたのが「髢石」。都から連れてこられた姫の悲しみや如何。

 姫待不動尊。ものすごい形相ですが、とても心を惹かれました。桂材の一木彫、平安後期の作。火の神様、眼病の神様としても知られているそうです。納得。

 金堂。平成7年完成ですのでピカピカですが、後世に技を伝えるため昔ながらの工法で作られているそうです。本尊は薬師如来。

 蝦蟇が池。すごい名前です。実際、蛙の声はひっきりなしに聞こえていました。平安末期のかわらけが大量に発掘された場所でもあります。
 池の中の弁天堂には八肘の美しい弁天像が安置されていました。

 平泉では田んぼに水が入り、蛙たちが大喜びのGWでした。

観自在王院 哭まつり

2008-05-06 18:10:49 | 平泉散歩

  毛越寺の東側の生垣越しに外側を見ると、手前に玉砂利が広がり、その奥に観自在王院の「舞鶴が池」が見えます。玉砂利は「車宿(くるまやどり)」といって牛車の駐車場です。
 観自在王院は藤原基衡の妻(安倍宗任の娘)が建立。南門跡、大阿弥陀堂跡、長阿弥陀堂跡の遺構が残っていますが、現存する建物は享保年間(1716~36)に再建された阿弥陀堂のみ。

 5月4日、妻の死を悼む基衡の泣き声に似せて読経する「哭(なき)まつり」を見ることができました。
 

 池のほとりをめぐる10人ほどの僧侶の列。やがて、烏帽子に白装束をつけた人々が待つ阿弥陀堂へ。

 僧侶はすべて阿弥陀堂前のお堂の中へ。(左端が阿弥陀堂)

 阿弥陀堂側の窓が開けられていて、中の様子が見えました。

 「あ~ぁあ~ぁあ~ぁあ~」「お~ぉお~ぉお~ぉお~」といった感じで読経が続きます。これが泣き声ということなのでしょう。
 蓮の葉を撒く仕草。これは天台宗独特のものなのだそうです。

 窓の前にはお神輿。阿弥陀堂の扉も開けられています。

 この後、柩に見立てた輿(お神輿)を僧侶たちが担ぎ、「なきこ」と呼ばれる従者(おそらく白装束の人たち)も加わった葬送の列が阿弥陀堂を3周し、阿弥陀堂の右奥にある基衡の妻の墓碑に向かった・・・ということを新聞で読みました。

毛越寺

2008-05-06 18:08:50 | 平泉散歩

 春の藤原祭りが行なわれる中、混雑を覚悟で平泉に行ってきました。とはいえ、最も人出の多そうな「義経東下り」のある3日を避けて。

 7月にはいよいよ世界遺産登録か?!と、メディアを中心に盛り上がっている岩手ではありますが、実は意外と平泉についてよく知らない人も多いのです。(私もその一人。)もし本当に世界遺産になるのなら、その前に「地元」岩手県民として平泉に行っておかなくては、と思ったのでした。

 毛越寺は平泉駅から700mほど。
 寺伝によると・・・嘉祥3(850)年、慈覚大師が霧のために進めなくなっていた時、ふと地面に点々と白鹿の毛が落ちているのを見つけ、その毛をたどったところ白鹿がうずくまっていた。白鹿は姿を消し、代わりに白髪の老人が現れてこの地に寺を建てよ、と告げた。大師はこれを薬師如来の化身と感じ、嘉祥寺を建立した。・・・ということで、これが毛越寺の起こりとされています。その後藤原氏によって再興されます。

 毛越寺にはかつて、金堂円隆寺、嘉祥寺、講堂、常行堂、経楼、南大門などがたちならび、その前庭に大泉が池を中心とする浄土庭園が広がっていました。それらの伽藍は13~4世紀に焼失してしまいました。現在当時の面影をしのばせるものは大泉が池。↑の復元図の左側の大きな池です。(右側は「観自在王院」)
 大泉が池には「中島」があり、南大門と金堂との間に橋が架けられていたようです。


 現在の毛越寺本坊。本尊薬師如来。
 右側に「南大門」跡があり、大泉が池に続きます。かつてはこの南大門が毛越寺の、そして平泉の南の玄関口だったそうで、両側に仁王像を安置した二階惣門だったようですが、現在は礎石12個を残すのみ。


 大泉が池。大きくてとても一枚に収め切れません。これは南大門を背に、右側。中島が見えています。

 そして左側。かつてはこの対岸に大伽藍が並んでいたのです。

 鐘楼跡。金堂を中心として、左右に経楼と鐘楼が配置されていました。
 鴨が泳ぐ池にはかつて「竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)」の船を浮かべて管弦の楽を奏したとのこと。現在でもそれらしい船が浮かんではいます。

 池の北側に「遣り水」があります。渓流と大河を模して作られた流れで、「曲水(ごくすい)の宴」が行なわれる場所でもあります。鳥の形の小さな舟に杯を乗せて上流から流し、歌を詠むという風雅な遊びです。実際にはとても狭い場所です。

 常行堂。本尊宝冠の阿弥陀如来。奥殿に秘仏摩多羅神。正月20日に法楽「延年」の舞が奉納されます。

 常行堂の中。御幣ともちがう、切絵のようなものが気になります。名前は忘れてしまいましたが、決まった様式をもつもので、すべてお坊さん方によって作られるのだそうです。


 本坊前で鹿(しし)踊りの奉納。


 一つ前の写真と同じ場所が翌日にはこうなっていました。 「延年」の舞の披露です。


 二人の童子が登場する「唐拍子」という舞。毛越寺十八坊の師弟は6歳になると舞を習い始めるそうです。床を打つ音、お坊さん方のお経(声明?)に合わせて子ども達が舞います。


 平泉は「奥の細道」の旅で芭蕉が訪れたことでも知られています。これは芭蕉真筆を用いた句碑(左)と、その損傷が激しいことから新たに(とは言え1806年に)建てられた句碑。
   
      夏草や 兵どもが 夢の跡


 そしてこれはその英訳。訳したのはなんと新渡戸稲造です。

     The summer grass
     'Tis all that's left
     Of ancient warriors' dream

 平泉は桜が終わってすでにツツジが満開。藤の花もちらほら見えていました。
 毛越寺はあやめが有名です。