甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

春?

2008-02-29 23:32:00 | 歳時記


 ↑材木町のすごい立派な蔵。随分前の写真です。


 今朝はぼたん雪。それがいつの間にか雨になっていました。
 2月の29日はなんだかおまけみたいな日です。春のような陽気は先取りの3月?

 こんな日はぶらぶらしたくてうずうずします。来週からここ行ってあっち行ってこれ食べて・・・と考えるだけの金曜の夜です。

 それにしても、今年の冬は長いですね。

住吉神社

2008-02-19 20:05:22 | 盛岡散歩


 ・住吉神社   住吉町

 900年程前、安倍貞任討伐に赴いた源頼義が大阪住吉大社の祭神(底筒男命、中筒男命、上筒男命、神功皇后)を当時の厨川村住吉に祀ったものが始まりだそうです。寛政7年藩主南部利視公により現在地に遷座されています。海上守護・縁結び・浄化・交通安全・商売繁盛・詩歌文教・安産の守り神なのだそうです。


 境内では、の大木と8基(4座4対)の石灯籠が目を引きます。
 灯籠は文化元年(1804)から8年かけて、城下の豪商近江屋をはじめとした経済交易に関係した人々によって寄進奉納されたものです。交易に携わる人々の間には航海安全を祈願する住吉信仰があったからです。現在でもこの灯籠に「海上安全」の文字が刻まれているのが読み取れます。この石灯籠は市指定文化財です。

 
 「パワースポット」という言葉があるそうですね。神社仏閣等、清浄な「気」にあふれる場所、といったような意味で、主にスピリチュアルな話題の中で使われている言葉のようです。
 スピリチュアルな話はあまりわからないのですが、私にとって住吉さんはまさに「パワースポット」。理屈抜きでここに来ると気分がいいんです。特に夕暮れ時、御神灯に灯がともり、風が吹いて御幣が揺れていたりしたら、なんだか嫌な気分も風と共に去りぬ、といった状態です。

 ここまで書いて「大丈夫か、私」と思ってしまいました。ちょっと疲れ気味かもしれません。

 住吉神社の社務所には、大きめの可愛い三毛猫がいます。

別の顔

2008-02-18 21:30:23 | 盛岡散歩


 いいお天気でした。ドライブ気分で北へ。八幡平市・旧西根町から見た岩手山です。
 山裾がはっきり見えて、大迫力の岩手山でした。お天気が良く、山頂までくっきり見えたからなおさら。それでも今日は、ぽっかり浮かぶ雲の影が映ったりして、なかなか和む眺めでありました。
 道路に雪もなく、快適なドライブでした。

愛宕山

2008-02-15 18:01:33 | 盛岡散歩


 盛岡グランドホテルには結婚式で何度か行ったことがありますが、その上に登って行こうなんて考えたこともありませんでした。大体、ここが公園だなんてことも知らなかったくらいです。
 道路は乾いてきたものの、びゅうびゅうと冷たい風のふく中、愛宕山に登ってきました。もちろん車でですが。グランドホテルの駐車場に誘導されそうになりながら・・・。

 愛宕山は標高196.3m。中央公民館の裏手に当たります。また、北山散策路の東の起点になっています。
 愛宕山展望台は皇太子ご成婚記念に作られました。なんだか不思議なシルエット。大鳥居みたいです。雪の広場に残るのは、雪だるま?


 展望台の上から、東側、つまり岩山の方角を見ています。岩山の展望台が見えていますが、岩山の方がずっと高いのがわかります。


 弧を描くバルコニーに2つの階段で上って行く、というデザイン。ローマの競技場をほうふつとさせる、と言ったら大げさでしょうか。何となく葛西臨海水族園を思い出しながら上りました。

 
 実はこの碑を見るために行ったようなものなのです。立原道造の詩碑です。写真は真っ黒でなんだかよくわかりませんが・・・。寒くて寒くて「とりあえず写真撮って帰ろう」という気分だったもので、いつにも増してひどい写真です。

  アダジオ

 光あれと ねがふとき光はここにあった!
 鳥はすべてふたたび私の空にかへり
 花はふたたび野にみちる
 私はなほこの気層にとどまることを好む
 空は澄み 雲は白く 風は聖らかだ


  詩人・立原道造は昭和13年(1938)友人深沢紅子の父の山荘であった「生々洞」に1ヶ月ほど滞在します。生々洞は愛宕山のふもとにあり、立原は愛宕山中をよく散策していました。
 立原道造「盛岡ノート」は内容も装丁も美しい、小さな本です。昭和53年にかわとく壱番館から出版されその後絶版となっていたものが、昨年(平成19年)1月に東山堂書店から再刊となりました。
 もっといい季節になったら(いつもこればかり書いている気がしますが)「盛岡ノート」を持ってもう一度愛宕山に行き、散策路も歩いてみたいです。


啄木新婚の家

2008-02-14 15:55:08 | 盛岡散歩

 寒い寒い寒~い岩手です。朝晩の道路は磨かれた鏡のよう。つるっつるにすべります。路肩に突っ込んでいる車や180度スピンしてしまった車、坂道を上れなくてタイヤでますます路面を磨いてしまっている車など恐ろしい光景があちこちでくりひろげられています。
 そんなバレンタインデー、我が家では灯油を切らしてしまいました。買いに行くのが億劫な本当に寒い午後です。


 ・啄木新婚の家  中央通三丁目

 啄木夫妻と啄木の父母・妹がこの家に住んだのは明治38年(1905)6月4日~25日というごく短い期間です。啄木が住んでいたからこそ保存されているのかもしれませんが、むしろ藩政時代末期の武家屋敷として保存し見学する価値がある建物だと思います。屋根はかやぶき、防火のためトタンで覆っています。市指定有形文化財です。
 啄木夫妻が四畳半に暮らしていたということから、すごく狭い家なのかと思っていましたが、実際は大小9部屋もある家だったのですね。他の部屋はどんな使い方をしていたのでしょう。3週間しか住んでいなかったので、他の部屋を使うこともなかったのかもしれません。


 玄関を入ってすぐ。古い柱時計や、さまざまな展示があります。六畳間をはさんで一番奥に啄木夫妻の四畳半の部屋があります。


 啄木夫妻の部屋。随筆「我が四畳半」に書いたのはこの部屋のこと。天井や鴨居が低いです。多分鴨居は170cmくらい。当時の人の身長はどれくらいだったのでしょう。


 啄木の父母と妹の部屋。
 啄木と節子の結婚式はこの部屋で行なわれました。ただし啄木は出席せず「花婿のいない結婚式」だったのですが。しかも何度も式を延期をした上での強行です。
 ではその頃啄木は何をしていたかというと、東京から盛岡へ向かう汽車を仙台で途中下車して10日も滞在しています。そして友達と会ってビールなんか飲んだりしているわけです。やっと汽車に乗って北へ向かったかと思えば、盛岡を通り越して渋民に行ったりしています。私が節子なら即刻実家に帰らせていただくところです。
 この部屋には今節子愛用の琴が展示されています。

 開館時間  9時~16時(冬季)
 休館日   火曜日
 入館料   無料


旧馬検場

2008-02-12 18:22:49 | 盛岡散歩


 ・旧馬検場 松尾町

 馬検場は清水町(旧地名では馬町)で始まりました。馬検場とは主に馬のセリ場として使われた場所です。秋の馬市はたいへん賑わったようです。
 軍馬の需要が増え手狭になったため明治45年に松尾町(旧地名では松尾前)に移されました。松尾前はそれまで田圃だったのを馬検場を目的に開発され、やがて木造の盛岡劇場が建ち、八幡町に続く花街となったのだそうです。
 現在は同じ敷地に畜産会館があります。旧馬検場は駐車場として使用されている様子。


 建物も趣がありますが、なんといってもこの看板が素晴らしい。結構な大きさです。 


 このお馬の親子は以前競馬会館の入り口を飾っていたものではありませんか?ここに移されていたのですね。知らなかった。
 「春風」という名の像だそうです。畜産会館前で会うことができます。

青山雪あかり

2008-02-11 10:40:29 | 盛岡散歩


 今年始まったイベント。2月7~9日に青山の覆練兵場周辺で行なわれました。
 7日には点火式が行なわれ、ローカルニュースでは厨川中学校の生徒さんたちが火を起こして点火している様子を映していました。
 最終日9日の7時過ぎに行ってみました。思ったより多くのスノーキャンドルが覆練兵場を囲むように設置されていました。また付近の歩道上、公園にも。
 住宅地で余計な明かりもなく、訪れる人も静かで、なかなかいい雰囲気でした。写真はへたくそなのでうまく撮れていませんが・・・。


原敬記念館

2008-02-10 14:53:40 | 盛岡散歩


 ・原敬記念館 本宮字熊堂

 平民宰相として知られる原敬の生家跡地に、生家・別荘等の一部を保存し、原敬の軌跡を顕彰する施設。付近は近年開発され、駅に通じる大きな橋もでき、大型ショッピングセンターやらマンションやらじゃんじゃん建っています。原さんが見たらびっくりするでしょうね。


 原敬の座右の銘「宝積」を刻んだ碑。
 宝積経にある言葉で「人に尽くして見返りを求めない」「人を守りて己を守らず」の意味があるとのこと。なかなかできることではありません。

 後ろの建物が記念館になっています。
 記念館内部には原の幼少期から最後の日を迎えるまでの一生を辿り、写真・新聞記事・書簡・日記等の多数の資料が展示されています。
 圧巻なのは暗殺されたときの衣服。赤い縞柄のシャツはかなりお洒落です。しかしそのシャツに赤い血痕が鮮明に残っているのです。

 原敬は政治家でしたので展示はどうしても大人向けになってしまいますが、その中で子供にも分かりやすい解説版がいくつもありました。博物館実習を行なった学生さんが作成したものとのこと。要点をしぼった解説で、大人が読んでも役に立つものです。この記念館のありかたの素晴らしさが垣間見える気がします。


 原敬が産湯をつかった井戸。原敬は生家で15歳までをすごしました。


 別邸・介寿荘の倉。赤レンガ総2階、大正3年大通3丁目の旧古川端に建築され、昭和55年移築復元されました。「原敬日記」もこの倉に収蔵されていました。
 なんとも素敵な倉です。もしこの倉が現在でも大通3丁目(七十七銀行やホテル東日本のあたり)にあったら・・・と空想してしまいます。


 鎌倉腰越別荘の書斎。昭和63年に移築復元。原はここで激務の合間に句作や思索にふけったそうです。原は優れた俳句も数多く残しています。号は「一山」または「逸山」。「白河以北一山百文」にちなんでいます。

  余十六歳にして郷里を出他郷に在ること五十年、今は六十六歳の老翁となりぬ

   わけ入りし霞の奥も霞かな

   大正10年3月、原暗殺の8ヶ月前の句です。


 原敬生家。第7代原家当主直記(敬の祖父)が嘉永3年(1850)に建てました。直記は盛岡藩家老職に就いていたため、200坪もある大きな屋敷に藩主を迎えるための「御成座敷」も作られました。
 第9代当主原恭(敬の兄)は明治6年に不要となった部屋を廃却しました。現在は当初の5分の1程度が残っています。市指定有形文化財。


 原家第3代茂平は勘定頭まで出世しますが、藩主信恩公廃立に連座したため咎めを受け、家禄没収と追放処分にあいます。菩提寺(光台寺)を頼るも断られ、住職の紹介で大慈寺に身を寄せ援助を受けます。その後本宮に居を定め、新田開発にあたります。再び召抱えられた後も居を城下に移すことはありませんでした。
 原家ではそれ以後大慈寺の恩を遺言で伝え、敬は大正8年(1919)寂れていた大慈寺を独力で復興し、恩に報いることになります。 


 庭園。雪のない時にまた訪れたい場所です。
 それにしても、原敬ってすごい人物ですね。


  開館時間 午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで) 
  休館日  月曜日 他 
  入館料  一般 200円  小中学生 50円

  ※中央公民館・遺跡の学び館・子ども科学館・先人記念館・盛岡てがみ館との共通入館券がお得です。650円で4館に、350円で2館に入場できます。

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お久しぶりです

2008-02-09 10:15:44 | 猫道楽


 こんにちは。お久しぶりです。はなです。こないだ1歳になりました。
 手術の傷もふさがって、あのとき剃られてしまったお腹の毛も随分生えてきました。


 手術以来ぐんぐん体が大きくなって、あんなに得意だったカーテン登りもできなくなっちゃいました。母ちゃんには「このデブ猫!」とよくののしられます。そんなときは遠慮なく母ちゃんの手の指を噛んで仕返しします。


 ・・・失礼しました。でも寝てるときが何より幸せです。最近よく寝言を言うそうです。ムムム、フフンって。それからよく鼻にシワを寄せてる、って言われます。


 三連休ですが、のんびりしてますか?お仕事ですか?はなの手でよければお貸ししましょう。肉球、やわらかいですよ。
 ではまた。

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盛岡八幡宮

2008-02-09 00:04:01 | 盛岡散歩


 ・盛岡八幡宮 八幡町

 八幡町の突き当たり、広い境内に9つの神社がありますが、そのほぼ中央に位置するのが盛岡の鎮守・盛岡八幡宮。八幡宮ですので祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)です。
 南部氏はもともと八幡神を氏神と仰いでいました。城下の人々の心のよりどころとして、また八幡信仰を城下に広める意図もあって、この神社が作られました。もとは盛岡城内にありましたが、城内では庶民の参詣ができないため延宝8年(1680)この場所に建立されました。
 例大祭は9月14日~16日、神輿渡御や流鏑馬神事などが行なわれ、旧城下町の町内からは山車が繰り出されます。境内の一角には「盛岡山車資料館」があり、山車2台が展示されていますが、開館日が限られています。また初詣の賑わいや、1月の裸参りもよく知られています。


 八幡宮以外のお宮も一通り見て回りました。
 まずは八幡宮に近いところにこのお宮、傘森稲荷神社です。八幡宮建立前から八幡山に祀られていた神社です。昭和32年山上から現在地へ移転しました。祭神は宇迦之魂神(うかのみたまのかみ:本来2字目は偏に点がもう一つつきます)、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神様です。
 新しく神社を作るときに前からいた神様を丁重に祀る、というのは大切なことらしいです。先輩は大事にしなければなりません。


 その向かい側にこの「梅宮様」。「ご婦人の守り神様」だそうで、丁寧にお参りを。社殿の造りや鳥居の形も様々ですね。


 傘森稲荷の隣にこのお宮、神明社。祭神は天照大神。国土平安の神様です。こちらのお宮は約1200年前の創建だそうです。現在地に移されたのは昭和43年。藩政時代は現在の神明町にあったということです。だから今神明町には神明社はないのですね。

 ほかにもお宮はあるのですが、お宮の名前もなく、雪の上に足跡もなかったりして・・・。 また「危険ですので裏に行かないで」「警戒中」などの看板が多く設置され、なんだか背中がざわざわします。


 岩手護国神社。宮沢賢治もお参りしています。
 ここまで来ると境内の中でもかなり北側になります。さらに北側にまだお宮やモニュメントや石碑が続きます。護国神社近辺は戦没者慰霊碑や郷土部隊記念碑が多いです。


 立派な銅像・・・と思ったら明治天皇だそうです。神社の由来看板は言葉遣いが難しいですね。


 こちらは米内光政像。米内はおしゃれでかっこいいイメージなのですが、なぜかこの像はくたびれて見えます。
 米内の居住地跡が八幡町にあります。


 八幡宮を背に、石段の上から大鳥居ごしに見る八幡町。もうすぐ夕暮れ、という時間。八幡町が輝きはじめる時間です。昔はお宮への参詣と遊興はセットだったのですよね。私も石段の下の方がいいかも。

松尾神社・峯壽院・金刀毘羅神社

2008-02-07 17:30:01 | 盛岡散歩


 ・松尾神社 茶畑

 らかん公園の向かい側の小高い丘の上にある神社。今ではさらに高いマンションから見下ろされてしまっています。
 松尾神社は全国に1000社近くあり、家内安全、農業などの産業振興、醸造業の神様と言われます。つまりお酒づくりに関係がある神様なのです。私は酒買地蔵尊やこの松尾神社のようにお酒に関する寺社にお参りするとき「いつもおいしいお酒をありがとうございます」と心の中でお礼を言います。飲兵衛のせめてもの罪滅ぼしです。



 ・峯壽院(馬頭観世音)(本山修験宗) 清水町

 清水町は素敵な(=古くて特徴のある)建物が多い界隈です。しかも通りに人がたくさんいる町です。もし引っ越すなら今度は清水町がいいな、などと思います。そんな素敵な町の小さなお寺です。
 江戸時代前期(1663)、現花巻市から移転。盛岡三十三観音が設定された際、一番札所となりました。
 この辺りは旧町名でいうと「馬町」。昔盛岡が馬産地として知られた頃馬市が開かれた町です。本来馬頭観世音とは、馬が草をむさぼるように人々のあらゆる苦悩を食いつくし断ち切る、という仏様。転じて牛馬や交通安全の守護仏として信仰されました。




 ・金刀毘羅神社 清水町

 料亭・大清水多賀の向かい側にあります。赤い鳥居をくぐって奥へ行くともうひとつの鳥居。この細い路地がいい感じです。 


 この真ん中の扁額、右から左へ縦書きになっているので、ちょっと読みにくいのです。でも色合いが素敵です。
 金毘羅神社は航海安全、豊漁、商売繁盛の神です。

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常安寺・判官稲荷神社

2008-02-06 14:58:58 | 宮古散歩


 ・常安寺(曹洞宗) 沢田4-11  

 宮古では大きなお寺です。
 天正8年(1580)横山八幡宮近くに開山しましたが、約30年後大津波によって流出したため、1625年現在地に移転・建立されました。本堂は江戸中期に大修築、大正9年にも改築されています。現本堂を飾る欄間彫刻と杉戸絵は旧本堂から移設されたもので、市の文化財に指定されています。

 本堂に入ってすぐ後ろを振り返ると、頭上に大きな地獄絵図があります。私は小さい頃この絵を見ながら祖母に地獄の話を聞きました。また本堂内のお地蔵様は子どもの守り神なのに、当時よく見かけた「インディアン人形」みたいな顔だったのでとても怖かったのを覚えています。(年がばれますね・・・)


 山門からたくさんの碑やお堂を経て、本堂に至ります。

 この参道は、お盆の13日夕方には提灯を持って迎え火に訪れる人でにぎわいます。本堂のろうそくの火を提灯に移して帰宅し、祭壇のろうそくに灯します。14日・15日の早朝にはお墓参り、16日には送り火です。16日には本堂前で山口太鼓の奉納があります。

 山門の右側の道路が墓地へと続きます。この道は山にへばりつくように作られた墓地を通り抜け国道45号へと続くので、実は地元の人にとっては格好の抜け道になっています。
 ここの墓地では、お盆のお墓参りのときに花火をする人が多いです。宮古ではお盆やその他数日「松明かし」をする日が決まっていて、子どもはその日しか花火をさせてもらえないことが多いです。お墓参りのときもお墓の前で松明かしをするので、それが花火に結びついたのだと思いますが、朝早くから爆竹が鳴り響き落下傘が落ちてくる墓地というのも珍しいのではないかと思います。もっとも私は高校を卒業するまでそれが当たり前だと思い込んでいたわけですが。

 ところで常安寺7世住職・霊鏡竜湖は名僧中の名僧と称された人で「浄土ヶ浜」の名付け親でもあるそうです。
 当時の浄土ヶ浜は昼でも薄暗い道を越えていくので地元の人もあまり訪れなかった場所でした。竜湖はその景観を極楽浄土の荘厳を自然に完備していると讃嘆し、「浄土ヶ浜」と命名したと言います。


 ・判官稲荷神社  

 常安寺のすぐそばにある神社です。

 「判官」ということは源義経に関係するということになるのですが、これは「義経北行伝説」に基づいています。義経は平泉の高舘において自刃したとされていますが、実はこの時自害したのは家臣で、義経は北へ逃げ延びた、というのです。その伝説の一つに、3年3ヶ月隠れていた黒森山を出た義経一行はこの地に甲冑を埋めて稲荷神社を祀り、更に北へ向かった、というものがあるそうです。社殿内に「判官稲荷塚記」の扁額が掲げられ、この地方に一行が来たことが記されているそうです。

 お狐さんの守る鳥居をくぐり、かなりきつい石段を登って社殿にたどり着くと、ちょっと樹木が邪魔ではありますが、宮古の市街地を見渡すことができます。

 
 「御用の方は横山八幡宮へ」との張り紙がありました。

 
 小さな祠がまとめて祀られています。赤い色がお稲荷さんらしく鮮やかです。

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横山八幡宮

2008-02-05 11:58:17 | 宮古散歩

  宮古で「八幡様」と言ったら、ここのことです。国道106号からすぐ、宮古第一中学校のそばにあります。

 「宮古」の地名はこの神社に始まったという伝説があります。
 寛弘年間(1004~12)、阿波の鳴門の大地が異常に鳴動した時、一条天皇は神社仏閣に祈祷を命じました。横山八幡宮の禰宜が祈祷中、夢で八幡神からの神歌を授けられたので阿波の鳴門まで行ってこの神歌を詠み上げると、異常な鳴動はやみ、おさまったと言います。天皇は喜び、宮中にこの禰宜を召し横山八幡宮について問うと、禰宜はそれに「我国に 年経し宮の 古ければ 御幣の串の 立つところなし」と和歌でこたえたため天皇は感服し「宮の古ければ」にちなんで「宮古」という地名を授けたということです。
 この禰宜が鳴門からの帰途に使用した杖をさしたところ成長したという「逆さ銀杏」の木が宮古一中の校庭にあります。 

  創建は天武9年(680年)と言われています。祭神は品牟陀和気命(ほんだわけのみこと)。現在の社殿は昭和19年(1944)建立。本殿の扁額は米内光政の揮毫だそうです。

 この石段、結構きついです。私の父は高校時代、柔道部のトレーニングでここをうさぎ跳びで上がったそうです。私はバレー部のトレーニングで走って上がりました。
 今では歩いて上がるのも息たえだえ。

 石段を横から見るとこんな感じ。結構な傾斜角度なのが分かります。この写真は女坂から撮りました。下りは女坂じゃないと危険です。

  社殿のあたりから見下ろすと、閉伊川が蛇行しているのが見えます。

  境内案内図。手作り感がいい味わい。鳴門の鳴動を鎮めた八幡神の神歌も書いてあります。
 「山畠に つくりあらしの ゑのこ草 阿波の鳴門は たれかいふらむ」


 この時期でも水は凍っていません。宮古は温暖ですから。


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宮古散歩

2008-02-04 11:52:18 | 宮古散歩


 この時期盛岡周辺では見慣れた風景です。でも白鳥と一緒に写っている鳥は・・・?


 ここは宮古市、津軽石川です。毎年白鳥が飛来します。ワゴン車で白鳥のエサも売りに来ています。河口に近いので、中津川とは鳥のメンバーが若干違うんです。
 今年はなんだか白鳥の数が少ないような気がします。


 閉伊川河川公園。一周1.5km位の周回コースになっています。お散歩、ウォーキング、ランニング、色んな人がいます。休日には小さい子どもや犬を連れた家族が遊びに来ています。駐車場も広くて、ただ車の中でのんびりするにもいい場所。川の水量が増えると移動されるトイレもあります。


 宮古のシンボル「ラサの煙突」。金の避雷針伝説があるとか。
 これを見ると宮古に帰って来たことを実感します。


 あまりいい写真じゃなくてよくわかりませんね・・・。「宮古市魚菜市場」です。朝6時から夕方6時まで、水曜定休です。
 魚屋さんが多いこと、真ん中にござを広げて野菜などを売るおばちゃんたちのスペースがあることが特徴でしょうか。観光客が必ず立ち寄るスポットです。
 私は必ず○○魚店と△△餅店に寄ります。初秋にいち早くマツタケを置く八百屋さんもあります。食堂も2軒あって、どちらもおいしいです。
 今回の収穫・・・毛ガニ、新巻き鮭切り身、タラ刺身、油カレイ刺身、黒砂糖のひゅうず(餅)。「毛ガニのゆで方」というチラシも一緒にくれました。これで失敗なし!今魚菜市場は毛ガニの赤い色であふれています。

 ご覧の通り、今宮古には雪がありません。春先にドカ雪が降ることがありますが、今の時期は雪がないことの方が多いんです。気温も内陸よりは高いですし晴れの日が多いです。冬場は魚がおいしい時期。そして今は毛ガニの旬。今こそ宮古へどうぞ!

↑山田町の四十八坂。海を見ると気分がのびのびしますね。


光原社

2008-02-03 10:45:36 | 盛岡散歩


 ・光原社 材木町

 何屋さん、なんでしょうか。焼き物・塗り物・染物等の民芸品店、裏に喫茶店、小さなミュージアム、小物屋・・・。
 店名は宮澤賢治がつけたと言われています。生前発表された唯一の童話集「銀河鉄道の夜」の出版元、ということは当時は出版社?

 ↑の写真は表通りから奥に足を踏み入れた場所。一瞬、ここはどこ?と思ってしまいそうな小広場です。


 さらに奥へ進んで中庭へ。雪のせいで何がなんだかよく見えませんが、大きな壷などもあるとのこと。


 賢治の顔のレリーフがはめこまれた石。


 土塀。この右奥は北上川です。


 1枚目の写真の広場で。土蔵なのですが、何と言うか、西洋風。


 賢治童話に関する小さなミュージアム。長岡輝子さんの朗読CDが聞けます。

 材木町は宮澤賢治ゆかりの場所がたくさんあります。行きつけの楽器屋さん、お父さんのつけで本を買った本屋さん、そしてここ。通りでは今でも腰掛けて休んでいる賢治さん(の像)に会うことができます。(ただし今は雪をかぶっています。)散歩に疲れたらここでコーヒーをどうぞ。