隊員NO.4まこで~す(^^)
7月20日(土)の加賀市観光ボランティア大学第8回講座
「城下町発見!大聖寺ブラブラさんぽ」で、大聖寺敷地町にある菅生石部神社を
見学させていただきました。わたしたちに、菅生石部神社のことについて、
いろいろと教えて下さったのは、権禰宜(ごんねぎ)を勤めておいでる野根さんです。
野根さん、たくさんお話をしていただき、本当にありがとうございました。
菅生石部神社はとっても由緒正しい神社です。神社のいい伝えによると、神社の歴史は、
1400年以上にもなります。敏達天皇の頃、加賀地方で流行していた疫病をしずめるために、
用明天皇の即位の年(585年)にあわせ、宮中でおまつりしていた神々をこの地にお遷し
したのがはじまりです。その後越前国の三ノ宮に、さらに823年6月加賀国ができた後は
加賀国二ノ宮に列せられました。そして室町時代までは年に2度の天皇の使いがやってきて
神宝が捧げられるほど朝廷の崇敬もあつかったといいます。
くわえて中世、菅生石部神社があった場所を福田の庄といい、京都北野天満宮の所領と
なったこともあって、この地は天神信仰の中心になりました。
そして菅生石部神社はここ加賀国の人々だけでなく、お隣越前国の人々からも
崇拝を集めていったのです。
そんな越前国に、鎮守府将軍という役職をつとめた藤原利仁(としひと)という有名な武人が
おりました。そしてその子・叙用(のぶもち)という方は武人としては異例の起用で、
伊勢神宮祭祀の象徴的存在である「斎宮頭(さいぐうのかみ)」という役職に任ぜられました。
「斎宮頭」は、数百人規模の斎宮寮という役所の長官で、皇室にとってもきわめて重要な
役職でした。普通は公卿しかつけない役職に就いたので、叙用はこの役職を誉れと
考えたのでしょう。「斎宮の藤原」略して「斎藤」と名乗ることにしたのです。そして藤原叙用は
菅生石部神社の天神様を篤く崇敬し、一族の氏神としました。その後斎藤氏は美濃国の
目代に任ぜられ、今の岐阜県に居を構えたときに、菅生石部神社の神様のお御霊分けをし、
新たに菅生天神を作ったのだそうです。そして斎藤氏の氏神をまつる菅生天神が美濃国に
17社もできたそうです。ですから、この藤原叙用という人こそが、現在では全国に約57万人
いるとされる全国の斎藤さんのご先祖様にあたるのです。そしてここ大聖寺の菅生石部神社
こそが全国の斎藤さんの氏神様になるんですよ。みなさん、ご存じでしたか?
全国の斎藤さ~ん、一度菅生石部神社を訪問されませんか?