きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

聖徒=ハギオス

2016年01月30日 | 羊、朝の一声


キリスト者は「聖徒」と呼ばれる。原語のギリシャ語は『ハギオス』で、この元にある意味は「他のものとは異なっている」という意味だそうだ。神殿は他の建物とは異なっているから『ハギオス』、安息日は他の日とは異なっているから『ハギオス』、祭壇は他のものとは異なっているもので『ハギオス』、ユダヤ人は他の民族とは異なっているから『ハギオス』、それぞれそう呼ばれている。そしてキリスト者は、他の人とは異なっているから『ハギオス』なのだ。キリスト者が他の人々とは区別され、分かたれている故に「聖徒」と呼ばれる。

「聖徒」であることを確認させられたメッセージをいただいた。以下、ロイドジョンズの著作から抜粋。



 山上の説教は、人間の行為の単なる描写ではない。その核心は、キリスト者と非キリスト者との間のこの相違なのである。新約聖書はこの点を、全く基礎的、根本的事柄であると見ている。

 現代の世相を見るとき、教会における第一の必要は、この根本的な相違の明白な理解なのである。この相違は漠然とされてしまっている。世は教会の中に入って来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も。教会の歴史における偉大な時期の一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部の人にも魅力的にすべきであり、できるだけ外部の人と似たようにするべきであるという考え方に接してきた。

 第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろのことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ますためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来るであろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。

 教会は絶対的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たちの希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていたいと切望すべきである。私たちが切に願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに似れば似るほど、望ましいことである。キリスト者は、キリストに似る者となればなるほど、ますます非キリスト者とは似ない者になるのである。