いかに生き、いかに死ぬか。人間に突き付けられたこの問いをめぐって、古来さまざまに思索が重ねられてきた。それは唯物的享楽主義が極まったかのようにみえる現代においても、関心が薄れるどころかますます多くの人々の心をとらえて離さない。人生の終末期に日常的にかかわっている医療現場においてはなおのこと日々問い直されてしかるべきだろうが、そんなことにいちいち拘泥してはいられない、との声も聞こえてきそうである。ベルトコンベア式に次からつぎへと課題を処理しなければ病院機能がストップしてしまいかねないというのだろう。とはいえ、患者にとって最善の治療が何であるのかを模索するのが医療の務めであるとすれば、このことを無視してはならないように思うのだ。
このことが端的に顕われているひとつの例として嚥下障害を抱えた高齢者に対する対応が挙げられるだろう。経口摂取が困難、あるいは誤嚥を繰り返している患者に対して真摯に対応しようとすれば、嚥下機能を評価したうえでそれに応じた訓練を行い、さらに、より安全な食物形態や食事の姿勢を探っていくのが筋である。最近では口腔ケアの重要性が認識され、嚥下機能の改善に薬物療法が試みられることも少なくないけれども、もちろんそれで解決するとは限らない。評価さえ十分に行えず、次の一手に苦慮した挙句、経管栄養を導入せざるを得ないとあきらめてしまうことも稀ではないのだ。
誤嚥を繰り返す患者の予後は今さら言うまでもなく不良である。嚥下性肺炎の発症を機に胃瘻(PEG)を造設された、というのもよく聞く話だろう。けれども、その意思決定の場面では医学的根拠を踏まえて十分に検討がなされているだろうか。安直にも、経口摂取をやめれば誤嚥がなくなり(誤嚥が減り)、予後も改善するに違いないと思い込み、PEGを勧めているようなことはないだろうか。
実のところ胃瘻からの経管栄養により予後が改善するという明確なエビデンスはない(老年医学 2007; 45: 1289-1293)。PEG造設した症例においても誤嚥性肺炎はしばしば経験されるのだ。たとえ経口摂取をやめたとしても当然のことながら唾液は分泌され、口腔内細菌などとともに気道内に流入するリスクはそのまま残される。それどころか、胃瘻チューブを留置することで下部食道括約筋の緊張が低下するため胃食道逆流は起こりやすくなるとの報告があり、経管栄養そのものが誤嚥の危険因子になるという(Lancet 1996; 348: 1421-1424)。さらに、認知障害のあるナーシングホーム入所者を前向きに検討した研究によれば、経管栄養導入の有無で生存率に差はみられなかったと報告されている(Arch Intern Med 1997; 157: 327-332)。経鼻チューブと比べてもPEGは生命予後を改善しているどころか、むしろ悪化させているというのだ(Lancet 2005; 365: 764-772)。
このように積極的に胃瘻を勧める根拠はないものの、だからといって、PEGなど有害無益であるとして捨て去ってしまうのも短絡的にすぎると思う。現時点では無作為化比較試験がほとんどなく、結論めいたことがいえる段階にはない。胃瘻を造設後に長期生存している例が少なからずみられるのも事実であり、生命予後に限らず、リハビリや介護の側面も踏まえて対象患者を慎重に選択することにより、ごく一部の集団であるのかもしれないが十分な利益を見いだせる可能性も残されているのだ。予後不良因子の検討が熱心に行われているのもそのような背景を反映しているのだろう。その結果、たとえば誤嚥や肺炎の既往がある例ではPEG造設後もやはり高頻度に誤嚥性肺炎を合併することが知られている(J Postgrad Med 2005; 51: 23-29)。あるいは、経管栄養を成功裡に継続するためにはより細やかな配慮が必要なのかもしれない。経腸栄養を半固形で投与し、胃食道逆流を減らそうというのもそうした試みの一つとして注目されるのである(Clin Nutr 2009; 28: 648-651)。
いずれにせよ、PEGを造設したとしてもその予後は良好とは言いがたい。1年生存率40%前後というのが地域の一般病院も含めた実情だろう(Geriatr Gerontol Int 2008; 8: 19-23)。上に述べたように、医学的な介入を行うことによって生存率の上昇に寄与しているのか否かも明らかではない。また、たとえ予後が改善するにせよ、人生の終末期を経管栄養に依存したままで過ごすのが果たしてよいことなのか。残された時間を親しい者とともに暮らすという例は少なく、むしろ家族の足も次第に遠のき、見知らぬ土地の見知らぬ人々の中に取り残され、部屋にならべられたベッドのなかでたまに視線を動かすほかは眠りこけてばかりいる、というのが大半ではないだろうか。いずれとも決めかねる問題であるには違いないが、対象者はもちろん、その肉親の方、さらには介護者などとりまく人びとの意見を尊重しつつ対応するしかないのだろう。とはいえ、多くの場合当の本人に判断能力が欠けているのだ。尊厳とはほど遠い状況に追いやられ、何かの事情でただ生かされているだけの人間などここには存在しないと言い切る自信がないのである。 (2012. 6. 4)
このことが端的に顕われているひとつの例として嚥下障害を抱えた高齢者に対する対応が挙げられるだろう。経口摂取が困難、あるいは誤嚥を繰り返している患者に対して真摯に対応しようとすれば、嚥下機能を評価したうえでそれに応じた訓練を行い、さらに、より安全な食物形態や食事の姿勢を探っていくのが筋である。最近では口腔ケアの重要性が認識され、嚥下機能の改善に薬物療法が試みられることも少なくないけれども、もちろんそれで解決するとは限らない。評価さえ十分に行えず、次の一手に苦慮した挙句、経管栄養を導入せざるを得ないとあきらめてしまうことも稀ではないのだ。
誤嚥を繰り返す患者の予後は今さら言うまでもなく不良である。嚥下性肺炎の発症を機に胃瘻(PEG)を造設された、というのもよく聞く話だろう。けれども、その意思決定の場面では医学的根拠を踏まえて十分に検討がなされているだろうか。安直にも、経口摂取をやめれば誤嚥がなくなり(誤嚥が減り)、予後も改善するに違いないと思い込み、PEGを勧めているようなことはないだろうか。
実のところ胃瘻からの経管栄養により予後が改善するという明確なエビデンスはない(老年医学 2007; 45: 1289-1293)。PEG造設した症例においても誤嚥性肺炎はしばしば経験されるのだ。たとえ経口摂取をやめたとしても当然のことながら唾液は分泌され、口腔内細菌などとともに気道内に流入するリスクはそのまま残される。それどころか、胃瘻チューブを留置することで下部食道括約筋の緊張が低下するため胃食道逆流は起こりやすくなるとの報告があり、経管栄養そのものが誤嚥の危険因子になるという(Lancet 1996; 348: 1421-1424)。さらに、認知障害のあるナーシングホーム入所者を前向きに検討した研究によれば、経管栄養導入の有無で生存率に差はみられなかったと報告されている(Arch Intern Med 1997; 157: 327-332)。経鼻チューブと比べてもPEGは生命予後を改善しているどころか、むしろ悪化させているというのだ(Lancet 2005; 365: 764-772)。
このように積極的に胃瘻を勧める根拠はないものの、だからといって、PEGなど有害無益であるとして捨て去ってしまうのも短絡的にすぎると思う。現時点では無作為化比較試験がほとんどなく、結論めいたことがいえる段階にはない。胃瘻を造設後に長期生存している例が少なからずみられるのも事実であり、生命予後に限らず、リハビリや介護の側面も踏まえて対象患者を慎重に選択することにより、ごく一部の集団であるのかもしれないが十分な利益を見いだせる可能性も残されているのだ。予後不良因子の検討が熱心に行われているのもそのような背景を反映しているのだろう。その結果、たとえば誤嚥や肺炎の既往がある例ではPEG造設後もやはり高頻度に誤嚥性肺炎を合併することが知られている(J Postgrad Med 2005; 51: 23-29)。あるいは、経管栄養を成功裡に継続するためにはより細やかな配慮が必要なのかもしれない。経腸栄養を半固形で投与し、胃食道逆流を減らそうというのもそうした試みの一つとして注目されるのである(Clin Nutr 2009; 28: 648-651)。
いずれにせよ、PEGを造設したとしてもその予後は良好とは言いがたい。1年生存率40%前後というのが地域の一般病院も含めた実情だろう(Geriatr Gerontol Int 2008; 8: 19-23)。上に述べたように、医学的な介入を行うことによって生存率の上昇に寄与しているのか否かも明らかではない。また、たとえ予後が改善するにせよ、人生の終末期を経管栄養に依存したままで過ごすのが果たしてよいことなのか。残された時間を親しい者とともに暮らすという例は少なく、むしろ家族の足も次第に遠のき、見知らぬ土地の見知らぬ人々の中に取り残され、部屋にならべられたベッドのなかでたまに視線を動かすほかは眠りこけてばかりいる、というのが大半ではないだろうか。いずれとも決めかねる問題であるには違いないが、対象者はもちろん、その肉親の方、さらには介護者などとりまく人びとの意見を尊重しつつ対応するしかないのだろう。とはいえ、多くの場合当の本人に判断能力が欠けているのだ。尊厳とはほど遠い状況に追いやられ、何かの事情でただ生かされているだけの人間などここには存在しないと言い切る自信がないのである。 (2012. 6. 4)