やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

診断困難な結核症

2014年05月19日 04時15分20秒 | 感染症
一般臨床の場ではシマウマを探すなという。普段見慣れているはずの疾患でも、その呈しうる症状、所見が想像以上に広く、多様であるというのはままあることだ。そして現れているのが非特異的な所見ばかりだとすれば、相応の覚悟で臨む必要がある。そのようなものとしてよく知られてはいるものの、しばしば対応が後手に回り苦杯を嘗めさせられる、それが結核である。

実際、病理剖検輯報を用いて結核臨床診断の精度を検討したところ、1999~2004年における剖検での結核1725例において、肺結核の生前診断率は55.7%、粟粒結核にいたってはわずか21.9%にすぎなかったという(結核 2007; 82: 165-171)。そこで肺結核見逃し例の生前診断名をみると、呼吸器疾患では肺炎・気管支炎(30.8%)が最も多く、34.0%は呼吸器外疾患と診断されていた。粟粒結核見逃し例においては呼吸器外疾患と認識されたのが72.0%と多かったというのは頷けるにしても、腎不全や悪性腫瘍、敗血症などとされていた。また、新たな検査法の導入により診断率の改善が期待されるけれども、1984年以降明らかな変化はみられていないようだ。結核を念頭に置いた精査が十分に行われていないことも示唆される。

結核を疑わせる典型的所見に乏しければ診断に難渋する一因となるのは言うまでもない。とりわけ胸部画像所見はその診断の契機になりうる、要諦ともいうべき位置を占めている。しかしながら、剖検で活動性肺結核が確認された18例(粟粒結核5例を含む)を対象とした研究において生前に診断されたのはわずか4例にとどまっていたのだが、胸部 X線で被包乾酪巣など内因性再燃の先行病変を示す結節・線維化巣がみられたのは 9 例のみで、6例では結核病変の陰影が肺線維症、胸水および癌の陰影に紛れて指摘できず、さらに11例は病変が好発部位に存在していなかったと報告されている(結核 2009; 84: 71-78)。

粟粒結核は結核菌が血行性に播種し、少なくとも2臓器以上に粟粒大の結核病巣がびまん性に散布しているものと定義されるけれども、上述のようにこの病型はさらに診断困難である。肺病変はきわめて特徴的な所見を呈するとはいえ、剖検により粟粒結核と確定された254例のうち140例は胸部X線で所見が明らかでなかったと報告されているように(Scand J Infect Dis 2003; 35: 794-796)、胸部X線写真で異常がみられないからといって否定できるわけではない(Am J Roentgenol 1980; 134: 1015-1018)。そもそも粟粒結節を示す陰影の出現は病理組織所見の形成に数週遅れることもありうるのだ(Thurlbeck’s Pathology of the Lung 3rd ed. Thieme Medical Publishers 2005年)。これらを踏まえ、粟粒結核という用語は、Disseminated tuberculosisのうち胸部X線で粟粒影を伴うものに限定して使われるべきだという意見もある。逆に言えば、このような問題意識の下にDisseminated tuberculosisという言葉が用いられていることがしばしばあることに留意しておく必要があるだろう。

このように粟粒結核を疑うべき臨床的ないし画像的な特徴を欠く症例は決してまれとは言えず、このような一群をとくにCryptic miliary tuberculosisと呼ぶことがある(Br Med J 1969; 2: 273-276)。発熱がなく転移性癌を強く疑わせるような進行性の衰弱を呈するもの、と紹介する文献もあるが、必ずしも厳密に定義づけられたものではない。発熱、体重減少、貧血など非特異的な症状を呈し、ツベルクリンテストもほとんど常に陰性で、かつては剖検ではじめて診断される例がほとんどであった。胸部X線や通常のCTでは典型的粟粒影を指摘できず、そのような例では画像検査を繰り返す必要があるのと同時に、積極的にHRCTを行う意義がある(J Comput Assist Tomogr 1998; 22: 220-224)。血液の抗酸菌培養に加え、骨髄や肺、肝の生検も考慮すべきなのは述べるまでもない。 

このCryptic miliary tuberculosisは高齢者や悪性腫瘍などの基礎疾患を有するものに多いことが知られている(Q J Med 1986; 59: 421-428)。近年ではHIV感染症の存在も無視できない。つまり免疫反応の低下を背景に持ち、病態にも深く関わっていることが推測される。とすればこれが必ずしもコインの両面に譬えられるというものでもないけれども、Nonreactive tuberculosisが連想されるに違いない。すなわち、抗酸菌に富んだ微小な壊死巣はみられるもののほとんど細胞浸潤がなく、肉芽腫の形成に乏しいという特異な病理像である(Intern Med 2003; 42: 1268)。

いずれにせよ、免疫能が低下している患者では、結核の臨床像および画像所見が非定型になりうることから、とくに慎重な判断が要求される。併存疾患を有することの多い高齢者ではさらに診断が困難になることから、原因不明の発熱症例などでは常に疑ってかからなければならない。ときには積極的精査を行うだけの根拠に乏しいと感じ、しつこく検査をオーダーするのにも躊躇してしまいがちかもしれないが、そうではないなのだ(Ann Clin Microbiol Antimicrob 2008; 7: 8)。まれな臨床所見を呈する粟粒結核症例が数多く報告されており、air-leak syndromes(pneumothorax, pneumopericardium)やARDS、腎不全、心血管系疾患などとして発症した場合には想定すらできないことも多い(Ther Clin Risk Manag 2013; 9: 9-26)。結核の確定的な証拠がなくとも抗結核治療を迅速に試みるべき例もあるかもしれない(Am J Med 1982; 72: 650-658)。結核罹患率が低下しつつあるとはいえいまだに問題であり続ける結核について、総合診療に携わる者こそこれまでの経験から学び、改めて深く認識しておくことが求められるのである。

結核の減少のかなりの部分は衛生環境や栄養状態の改善によるという。衣食足りての成果といえそうだが、われわれの社会はそれに見合う精神的成熟を遂げているだろうか。多様性を受け入れられず、馴染みのない思考や習慣を見下し、仲間だと思えなければ排斥する、というのは洋の東西を問わず昔からうんざりするほど観察されてきたことだが、この頃ではさらにすすんで、自分とは異なる考え方感じ方をする人間が存在するということすら了解できない人間が増えているらしい。世界は自分の心に適う形でしか見えていないのかもしれないなどと疑ったことは一度もなく、また脆い自我の持ち主であるが故に自らの正当性を常に確認しなければ心が安まることのない人間は、ものごとを過剰に合理的な物言いで決めつけ、あるいはごく親しい身内以外の他人に怠惰、偏狭、排他的、頑迷固陋、その他あらゆる負の記号を押しつけては、周囲を辟易させる。このところ世間をにぎわす“モンスター”はそのような存在であるのかもしれない(片田珠美 他人を攻撃せずにはいられない人 PHP新書)。己を犠牲にするというほどでなくても二の次に考える、あるいは面倒なことがあっても相手のおかれた状況を慮りお互い様だと譲り合う、そんな日常に暮らしたいと思う。 (2014.5.19)