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2012年10月20日(土) その1からの続き
一升谷の下り坂には、そのちょうど中程に見事な石畳があり(タイトル写真)、街道の左手に沿うようにサラサラと流れる渓流と共に、ゆっくりと往時を偲びながら木立の間を歩いていける。
更に下って明木市(あきらぎいち)のすぐ手前で国道262号の地下道を潜ると、赤間関街道中道筋の分岐点があり、その先で三叉路に突き当たる(写真下)。
この道が旧国道262号で明木市のメーンストリートなのだが、今は写真のように人も車もほとんど通らずにひっそりとしていて、逆に、道の真中を堂々と歩けるので気持ちがいい(ヲィヲィ)。
ストリートの中程には、「明木市てくてく見て歩き」と書かれた案内板が建っていて(写真下)、楽しい絵柄と共に、ここの説明や宣伝が簡潔に記されている。よく見られるありきたりの案内板に比べると、遥かにこちらの方が見やすくて、読んでいても楽しくなる。
明木橋を渡って明木市に別れを告げ、更に少し往くと、国道が「道の駅萩往還」方面に分かれる辺りに、「吉田松陰短古石歌碑」がある(写真下)。
安政元年に下田での密航に失敗し、囚われの身となって萩へ護送されてきた際に、この明木の地で詠んだのがこの五行の詩らしい。この時、松陰は弱冠24歳だ。
少年有所志 少年(の頃に)、志すところあり
題柱學馬郷 柱に題して馬郷を学ぶ(中国の故事)
今日檻輿返 今日、檻輿の返(そして今は、檻に入れられて返ってきたが)
是吾晝錦行 是れ吾、晝錦の行(私は故郷に錦を飾る思いなのである)
罪人となり、並の人間なら恥じ入るであろう身でありながら、この堂々たるそして血気盛んな心意気はどうだろう。
この後、野山獄への幽囚と杉家での幽閉に続いて、安政四年から松下村塾での指導にあたり、短期間で多くの憂国の志士を育てたと思ったら、安政五年には倒幕を企てたことで再度野山獄へ幽囚され、続く井伊直弼による「安政の大獄」で江戸伝馬町牢屋敷に送られ、そして安政六年に満29歳で斬刑に処されたのだナ。
20代半ばにして、このような自己に対する強烈な自信を持っていたことにも驚く他無いが、密航や倒幕などの、当時の世間一般では考えもしないことを実行に移そうとした行動力にも、これまた畏れ入るばかり。
暫くは田園地帯をゆったり進み、街道はやがて鹿背坂への山道に入るのだが、街道とは少し別れた所に明治期に開通した「鹿背隧道」が今も残っている(写真下)。
今はほとんど人馬が通ることもないトンネルだが、明治期にできた石造りトンネルとしては大変希少かつ、国内最大の長さ(182m)だそうで、国登録有形文化財に指定されているのだ。
「鹿背隧道」を後にしてひたすら山道を登り、峠を過ぎて今度は鹿背坂を下って行くと、その先が「道の駅萩往還」だ。
その3へ続く
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