霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

三回目の萩往還(三田尻⇒山口市) その1

2012年07月21日 | 萩往還

2012年7月21日(土)
前回、萩往還を歩いたのは、三年前の9月から10月にかけてで(前回の記事)、久し振りにまたこの道を歩きたくなって出かけた。
今回は三田尻から萩へ向けて歩き始めることにして、JR山陽本線で防府まで行き、防府駅から南東方向へ道程で2km位のところにある「三田尻御舟蔵跡」(タイトル写真)へまずは向かい、ここからスタートする。
前回歩いた時と、途中の案内標識などに何ら変化は無く、相変わらず「不親切で不適切な」標識しか見当たらない。今日のオイラのように、他所から来て防府駅で降り、スタート地点の御舟蔵跡へ行こうと思っても、公式ルートマップなんぞを頼りにしていたのでは、到底辿り着けないようになっている。ま、最初からそんな奇特(?)な人は、想定していないのだナ。
そして、やっとの思いで御舟蔵跡を見つけてここからスタートしても、途中で何度も迷わないと、防府天満宮へ通じる往還道へ出られない。つまり、誰もが迷いそうな箇所には標識は無く(若しくは、標識が見つけにくく)、迷う筈がないどうでもいい箇所にお節介な標識が有るという、何とも間抜けな有様なのだ。この土地に詳しくない他所から来た人の目線に立って、分かり易く道案内の標識を建てようなんぞとは、これポッチも思ってないことがよく分かる。
  ★世間ではこういうのを、親愛の情と諦めを込めて、「お役所仕事」と言うらしい・・・へぇ~


てな具合で、迷いながらも漸く防府天満宮へ通じる往還道へ出ることができ、四つ角の道標(写真上)を見ると、「右 かみがた」「左 中のせき道」と彫ってあり、ここで言う「かみがた」は多分、三田尻から舟に乗って瀬戸内海を海路で京阪へ向かうことだと思う。なぜなら旧山陽道は、防府天満宮の前を周防国分寺方面へ向かう椿峠へ至る道なので、明らかにこことは違う場所になるからネ。また、写真のように、もう一つの面には「左 宮市天満宮 志ものせき道」とも彫ってある。

JRの高架を潜って旧国道二号を横断し、天神通りに入る(写真下)。土曜日の昼前だが、まぁ見事な位に通行人(買い物客)が・・・・・いないっ!!!

果たしてこれで商売が成り立つのかぁ~ぃと余計な心配をしてしまうのだが、すぐ近くのイオンやゆめタウンなどのショッピングモールには、同じ時刻でも人が溢れているのだから、買い物客が市内にいない訳ではないのだ。計画性に欠け将来を見通せない行政にも、責任の一端があると感じるのは、・・・オイラだけかなぁ~。
こんなことでは、菅原道真公もさぞや淋しい思いを抱いているのではなかろうか。

やがて天神通りは防府天満宮に突き当たり、ここでは大鳥居前で菅公に挨拶をしただけで左折する。ここから暫くは旧山陽道と同じ道を辿り、今市町外れの久野文具店角から旧山陽道を離れて右折する。ここでも、右折してからでないと萩往還の案内標識は見えないようになっており、気が付かずにそのまま直進する人もいるだろう。つくづく、不親切なこった。
少し左に外れる旧道を往くと佐波川に差し掛かり、「本橋」を渡ることになる。本橋を渡り終えてすぐ右下の河原に、かってここに架けられていた「舟橋」のレリーフ(写真下)を見ることができる。

寛保2年(1742年)に、ここで渡しの世話をしていた源八さんが、6艘の舟を並べてその上に板を渡すという素晴らしいアイデアを提供し、昭和16年までのナント約200年間に渡って人々の役に立ったってぇんだから、源八さんエライッ!!!
つまり、幕末の志士たちも、萩と三田尻の往復の際にこの橋を渡った訳で、目立たないかも知れないけど源八さんの功績は計り知れないと思う。

国道2号を地下道で潜り、山陽新幹線の高架も過ぎると、国道262号の右手を往く長閑な田舎道になる。・・・が、一昨年の大水害の爪痕はまだ残っていて(写真下)、微塵に壊れていた橋の欄干やガードレールは新しくなっているものの、川岸はまだ護岸工事の真っ最中だった。

写真の「つるぎせいりゅうばし」と書かれたプレートが、かっては清流だったことを偲ばせるが、今はその面影は全く見当たらない。防災上やむを得ないのかも知れないが、こうやってコンクリートでがちがちに固めた川を清流と呼ぶのも、皮肉に思えてしまうなぁ。

で、いよいよ本日最大の難所である鯖山峠に向かって坂道を登っていくのであった。
その2へ続く



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