霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

三回目の萩往還(佐々並⇒萩市) その3

2012年10月20日 | 萩往還

2010年10月20日(土) その2からの続き

「道の駅萩往還」は、さっと通り過ぎようと思っていたのだが、売店に入って商品を眺めている内に何か買いたくなって悩んでしまい、結局30分程度店内をウロウロしてしまうはめになってしまった。
結局これが、萩へついてから帰途のチョンボに繋がるのだが、・・・まぁ、それは置いといて。

道の駅横の地下道を潜ると直ぐに、「女体解剖地跡」なる何だかおどろおどろしい説明板と、その直ぐ横に「刑屍体腑分之跡」と書かれたこれまた不気味な石碑が建っている(タイトル写真)。
宝暦九年(1759年)にこの地にあった大屋刑場で、毛利藩医の栗山孝庵が、我が国で最初の女体解剖を行った場所らしい。石碑の後ろ側には刑死者を供養する石地蔵が建っているので、いつもより懇ろにご冥福をお祈りしておいた。

更に進むと、悴坂(かせがざか)一里塚が見えてくる(写真下)。ここは萩往還起点の「唐樋札場跡」から最初の一里地点になるので、ゴールまではあと一里と言うことになる。


「萩往還梅林園」を左下に見たすぐ先にあるのが「涙松遺跡」(写真下)で、ここにも吉田松陰歌碑が残っている。

往時の涙松そのものは既に枯れてしまったが、萩を出入りする旅人が思わず涙したであろうことが、この地に立って萩市内方向を眺めて見ると、よく理解できる。
同様に、吉田松陰が安政の大獄で江戸伝馬町へ護送される際に、『かえらじと、思いさだめし旅なれば、一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな』とこの地で詠んだのだが、もう二度と故郷へ返ってこられない覚悟を決めてはいても、思わず流れる涙を抑えられない松陰自身の無念さも感じられる。

で、漸く萩市内へ入り、JR山陰本線を高架で跨いだあとすぐに左折して、一旦JR萩駅前に出る(写真下)。

大正14年に建てられ、国登録有形文化財に指定されているとても趣のあるこの駅舎は、平成10年に復元されたとのことだ。駅舎の向かって左側半分が本来のJR駅機能で、右側半分は鉄道資料館や萩を紹介する展示館のような有様になっている。
また、写真の右端にも見えるが、駅舎前の電話ボックスは、大正末期頃に日本で2番目に設置されたものを、写真を元に復元されたもので、この型式の電話ボックスは日本ではここだけにあるそうな。・・・ヘェ~

後は、大木戸のあった金谷天満宮を右手に見て、(上から読んでも下から読んでも・・・の)橋本橋で橋本川を渡り、萩バスセンターのすぐ先にあるゴールの「唐樋札場跡」へ到着ゥ~(写真下)。


寄り道を含めて、佐々並から約6時間の3万4千歩だった。ここからはJRバスに乗って佐々並へ戻るのだが、そぅ、これが悪夢の始まりだったのだ。
ま、その話は、CM2の後で   (・・・ってヲィヲィ)



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