2009年10月10日(土)
JR山口線で山口駅へ行き、駅前からJRバスの萩行きに乗って佐々並で降りてから、前回の続きを歩き始めた。朝晩は結構涼しくなってきたものの、陽の射す日中はまだまだ暑いワィ。
佐々並市を過ぎると、暫くは長閑な田園を縫うような萩往還道と国道262号線を交互に歩き、国道と別れて日南瀬から長瀬に抜ける道は、最も旧道らしい田舎道が続く。
江戸に送られる吉田松陰が詠んだと言われる七言絶句の石碑が建つ夏木原からは、愈々最大の難所である板堂峠へ向かう。
板堂峠(写真①)は旧阿武郡旭村(現在は萩市)と山口市の境で、峠の上には明治時代に建てられたらしい国境の石碑があり、『北 長門国阿武郡 南 周防国吉敷郡』と彫られている。ただ、峠の上とは言ってもあたりは藪の中で、両方の国が見渡せる訳ではなく、残念~ン。
この辺りから六軒茶屋を抜けて天花(てんげ)畑へ出るまでは、へびがちょくちょく前を横切るかと思えば、藪蚊もわんわんと纏わりついてきて、歩きにくい石畳と合わせて、かなり注意深く歩かなければならないのだ。
「きんちちみの清水」手前から県道へ出るまでの間は、崖崩れのために通行止めと書いてあった(写真②)が、かまわず進んでみて、思った通り大した崖崩れでもなく、大人なら難なく通れる状態だった。大袈裟に「通行止め」にする程のことはなくて、「通行注意」位の指示で、あとは自己責任で構わないと思うが、担当部署としては事故が怖いのだろうなぁ。
それにつけても六軒茶屋の仰々しい建物群は、どう贔屓目に見ても「不要」としか言いようがなく、この辺りの前後だけコンクリートで固めた道路も含めて、どうしてこんなところに巨額な税金を注ぎ込む必要があるのかが、全く理解できない。
遺構を忍ぶのであれば、建物の礎石またはその目印、そして簡単な説明書きだけで充分で、訪れた人がそれぞれ自分なりの想像力で、往時の状況を感じ取ればいいだけだと思う。周辺の景観や萩往還そのものの価値を無視した余りにも立派な建物は、「余計なお世話」以外の何物でもない。
漸く天花畑に出て一の坂ダムを右に見て県道を下るのだが、この道が萩往還の中でも最低・最悪の道だ(写真③)。木町へ出るまでの約1km余りは県道をそのまま歩かなければならず、センターラインが無い程道幅が狭くて、おまけに歩道も無いのに車が結構な勢いで行き来するので、全く落ち着いて歩けない。
ま、そもそも本来の萩往還は一の坂川の西側に今も残っているのだが、一の坂ダムを作った時にダムの直前で行き止まりにしてしまったのだナ。で、仕方なく、一の坂川の東側に後から作ったこの県道を歩くしかないのだ。
それを知ってか知らずかこの約1km余りの区間には、標識としての萩往還の「はの字」も見当たらず、興醒めすること甚だしい。
確かに当時はダムが必要だったのかも知れないが、郷土の先人達が切り開いた旧道を行き止まりのままで放置したり、中途半端な道幅の道路を作ったりと、我が山口県の役人がやったこととは言え、長州人としては誠に恥ずかしい限りの道ではある。
ダム建設のために、萩往還を行き止まりにすることがどうしてもやむを得なかったのだとするならば、木町の交差点やダム堤などの目につく場所に、その必要性や経緯を正確に記すことで、先人達に詫びる「姿勢」を表明すべきだと、オイラは思う。
山口市内を抜けて山口駅に辿り着いたのは、佐々並を出発してからちょうど5時間後だった。
急な坂道の登り下りの連続だったこともあって、そこそこの疲労感を感じた行程だったが、昔の人は毎日のようにこんな道を平気で行き来していたのだから凄いもんだ‥‥と言うか、現代人が余りに文明に慣れすぎてしまったのだろうかナァとつくづく思ってしまう。
その3へ続く
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