霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

萩往還その1(萩⇒佐々並)

2009年09月05日 | 萩往還

2009年9月5日(土)
引越し後の片付けもようやく一段落着いたので、久しぶりにウォーキングを再開。2月の初めに、萩往還を、三田尻(防府市)から萩に向かって一度歩いているが、今回は逆方向に、萩から三田尻に向かって歩くことにした。

小郡からJRバスに乗って萩バスセンターまで行き、ここから歩き始めたが、萩市内には萩往還の順路を示す標識は全く無くて、地図を事前に準備しておかないとどこに向いて歩いて行けばいいのか、ジェンジェン分からない。おいらは既に歩いているし、萩市内のことはある程度知っているのでいいが、他所から来て思いつきで歩こうと思う人には不親切なこった(…ま、思いつきで歩こうと思う人なんて、イネェだろう……カナ?)。ついでに言うと、萩往還の途中にある順路標識も、既に年月が経ったからか全く「いい加減」で、あらぬ方向を向いた標識を幾つも見つけたから、これから歩こうと思っている人は、要注意だぁ。観光協会とか役所とかはどうせ当てにならないから、自己責任で歩くことが肝要。

萩城下が見える最後の地に建つ「涙松遺跡」(写真①)は、「かえらじと思いさだめし旅なれば、ひとしほぬるる涙松かな」と詠んだ吉田松陰先生ならずとも、思わず萩市内方向を振り返ってしまう趣がある。多くの先人が、この地で涙を流したかあるいは決意を新たにしたか、はたまた絶望の底に陥ったか、いろいろな想いが交錯したであろうことは容易に想像できる。

明木市の中ほどから左折して上り坂に入ると、そこは「一升谷」と呼ばれる急な坂道だ。説明版によれば、坂の入り口から煎り豆を食べ始めると、峠を上りきるまでに「一升」ほど要るそうなのでこの名がついているとのこと。そう例えられるほど急で長い上り坂だが、煎り豆を一升も食ってしまうと、逆に腹がパンパンになって歩けそうもないような気もするが、…マ、いいっか。
途中には、江戸時代のままの石畳(写真②)が今もそのまま残っている。

途中で何度も出くわしたのが「猪避けのゲート」(写真③)で、2月に歩いたときはほとんどが開放してあったことから推測すると、夏の前後は厳重に閉めているようだ。やはり農作物への被害は深刻なものがあるのだろうし、地元の人達にとっては「萩往還」は別にどうでもよくって、毎日の生活の場であることを、他所から訪れる者は忘れてはいけないと思う。
写真のようなゲートではなくて、単にトタン板が横に立ててあるだけの所も何箇所かあって、爪先立ちでようやく跨げはしたが、オイラよりも足が短い人は脚立を持参した方がいいかもしれない(…って、ヲイヲイ)。ま、多分、稲刈りが済んで10月に入れば、ゲートもかなり少なくなると思う(………保証はしないが)。
ゲート向こうの、刈り入れ前の稲穂が「黄金の波」となって、とても綺麗だ。

今日の目的地の佐々波市(写真④)だが、古い町並みが続く落ち着いた所で、人も車も全く通らない時間がかなり長く続くのは、よく言われる「時が止まった」ような感じを受ける。写真中ほどの角の建物が、有名な「佐々並とうふ」のお店だが、既に閉まっている時間帯だったので、近くの道の駅に立ち寄って、とうふとこんにゃくその他を買い入れてお土産とした。

佐々並市からは、一時間に一本あるかないかのバスに乗って、また小郡まで帰ることにした。萩から佐々並までちょうど5時間かかったが、山道ばかりだったこともあって歩数は少なく、28,168歩だった。

その2へ続く



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