岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

「岩田藤七 ガラス十話」 5 岡田三郎助先生

2011-06-02 12:15:23 | 藤七の言葉
ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 5 岡田三郎助先生」

明治三十年に文部省は初めて海外に留学生を派遣した。
選ばれたのは岡田三郎助先生、時に四十八歳。その前年、第一回明治美術展に「夕日」
「渋谷の夕暮」「風雨」「春の野辺」など、 二十二点を出品、題名の示すように、
ほの暗いロマンに満ち、哀愁ただよう明治自然主義調の絵であった。

三十年五月に横浜を発たれて、三十五年一月ロンドンから帰国されるまでの四年余を、
パリのコラン氏に師事、コラン氏の別邸、フォントネーの一室に仮寓し、その庭園で
村娘を描かれ、後にアカデミー・ビチーに入学された。ホルバインの自画像の一枚の
模写に三年間を費やされた(このホルバイン模写は芸大の所有になったが、保存が悪く、
昨秋、高島屋での先生の遺作展には出品さえできない状態であったと聞く)。
「パリ在留中、ベルギー、南仏、イタリアなどに旅行し、これらの都の美術館に
所蔵される各国の古美術品を研究した」と「画人岡田三郎助」の本の中で、富永惣一、
隈元謙次郎両先生が書いている。察するに古美術とあるから、ずいぶんと工芸を鑑賞され
イタリア、ベルギーのガラスも見られたと推察する。一例をあげれば、明治三十三年の
パリ万国博覧会に噴水の背景になっていた、半透明のパットベールという新しい技法の
ガラス板は、各国が注目し、先生も自ら作者をたずねてノートをとってこられた。
この方法は岩城ガラスに伝えられた。同社勤務の小柴外次郎君は退社後、溶解窯を
用いないでほそぼそとその技法で今なお製作している。
ロンドンからの船中、山田三次郎氏と同室であった。山田氏は旭硝子の社長でベルギー、
英国のガラス工場は見せてもらえず、何もうるところなく傷心やる方なかったと先生は
話されていた。五十日の同室での航海中、必ずや両者間でガラスの話があったと推察される。

明治、大正ころの伊達跡の先生の画室には陶器や古裂地よりもガラス器のギヤマンの
収集が多く、いつも出窓に並べて鑑賞されていた。地震で大半が破損したが、ガラスへの
執着はたいへんなものであった。そんなとき、先生の前に私が現われていたわけで、
美校入学当初から「君は工芸の道を選べ」といわれた。「君ならやりとおせる」とムチを
打たれた。私のわがままを朝倉文夫先生もそうであったと同じように、通させ、聞き、
察し、押してくださった。ガラスの仕事の完成を両先生ともに見守り続けておられた。
町のガラス屋を尻目に、彼らから離れ、孤立して一人歩きできたのも、両先生の精神の
うしろ楯あってのことであった。

私が先生から紹介を受けて山田氏にお目にかかったのは麻布のお住まいである。
このころ買い入れたシーメンスの窯でつくった板ガラスが第一次大戦で大当たりし、
旭は三菱系列中の大会社となって、山田さんは工芸にはまったく関心がなかったので
やむなく深川三好町の岩城ガラスの研究室へ先生の紹介で通うことになった。
三好町からほど遠からぬところに深川八幡、不動堂があった。震災後の木場の掘割り
には、もはや小舟の渡しはなく、大きな鉄橋とかわった。震災で多くの死者を出したと
いうので、新しく橋となったが、以前のおもかげはさらになく、往来は広く、風情なく、
料亭、洲崎妓楼の「大八幡」の時計台もなくなっていた。しかし谷崎さんの小説「刺青」
に出ている料亭「平勢」はまだあったし、「宮川」の鰻屋では曼魚君が紺の筒袖で働き、
八幡境内の「初音」の鳥屋も繁盛していた。銀杏返しの年増の粋な女中さんが大勢いた。

岩城ガラスでは、賓客扱いで、ずいぶん勝手に資材を無駄にさせてくれた。
当主の岩城倉之助君の先代、滝次郎氏は房州は館山の人、三条公が明治初年に英国人と
イタリア人を招き設立した三田の東京ガラスで、英国人から技法を学び、職長までに
なって独立した人であった。しかし、時代が鹿鳴館時代であったから、シャンデリアと
切り子コップや鉢は作られたが、中吹きガラスは気がつかなかった。ガラスの大衆化を
はかって、文鎮にはすぐれたものを作られた。おもしろいのは、ガラスの屋根瓦や
当時流行した籘の下駄おもてをガラスで作り、小さいものでは碁石まで作った。
その他いずれも、世間には受けず、倉之助君にバトン・タッチし、日本郵船のかたい
仕事(信号レンズ)に乗りかえ、大成した。時に満州の風雲あやしく、さらに軍部の
仕事と手広くなったので私の仕事とは相容れず、私は堀切のバタヤへ落ちのびて、
バタヤの子供をかき集めて工芸ガラスを始めた。私の民芸風のガラスを最初に発見し、
注文したのは、少々おけちさんが玉にキズの最近の長島温泉社長、服部知祥氏である。
一個三十銭で、白粉入れ五千個の注文は岡田先生も喜び、私も自信を得た。

これが松坂屋のガラスの個展となり、高島屋の三十年の私のガラス展の動機となった。
川勝堅一、堀口大学、与謝野晶子、佐藤春夫、勅使河原蒼風、井上源之丞、岡部長景氏ら
に知られるようになった。

「岩田藤七 ガラス十話」 4 建築

2011-05-02 15:43:45 | 藤七の言葉
ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 4 建築」

関東大震災のとき、京橋大通りの星製薬ビルは三階がネジれてバラバラになった。
コンクリートが小骨のような鉄筋につながって、食べ残しのカレイかヒラメのような
醜状であった。丸の内の東京会館も三階全部がネジれた。上下はわりに無難だったが、
建物はお菓子の有(ある)平(へい)糖(とう)を思い出させた。地震でゆれると同時に、
大波のしぶきのようにキラキラと窓ガラスの破片が降ってきたことだろう。
私は刃物よりガラスのほうを恐れる。鋭いからである。自動車事故で大怪我をするのは、
多くが前面ガラスである。外装が全面ガラスのようなビルを見るとき、
帽子なしでは歩けないと思う。見た目には美しいが、このごろのビルのガラスは
地震国日本では考えものである。

戦前、紫外線をとおす薄紫のガラス板が見られるようになったころ、
上海で内側からは見えて外側からは見えないガラスを見たという人があった。
こうしたガラスと、ガラス板とガラス板の間が真空の窓ガラスの発見が私の夢であった。
昨今では東京でもこれらが見られる。後者は日生ビルのホテルぞいの窓ガラスで、
一面十五万円という話である。

では次代の建築用ガラスのイメージは何であろうか。原子熱源が発見された今日、
砂利のかわりに特殊素材のガラス塊を入れて原子の熱で溶かして柱を作る、
中の鉄筋は繩のようになるであろう。かくて、重くるしいコンクリートの柱がなくなって
軽快な、ガラス塊のビルが出現されよう。私の建築用ガラスへの夢はこれである。

 日生劇場 玄関ホール   皇居新宮殿 「大八州」


私は土方定一先生がイタリア語で「コロラート」と名づけてくだすった組み合わせの
板ガラスを創案した。
横浜高島屋のミーティングルームの赤と黄の二面はこの代表的な製作であろう。
日生ビル入口、正面のスクリーンは村野藤吾さんと幾度か打ち合わせて作った。
サンフランシスコのユニオン・スクエアのアリタリア航空ビル入口の正面にも
同じくらいの大きさのガラスようの陶板スクリーンがある。
期せずして太平洋をはさんで向き合っているわけだ。
岡田三郎助先生は色のトーンにきびしかった。日生ビルの作品のよしあしは別として、
教えていただいたトーンだけは気をつけ、モチーフも先生の好まれた桃山屏風、
特に古色ただよう桃山屏風を連想して作り、組み立てた。いわばなき恩師への報告である。


岡田先生は戦災でなくなったが、霞ヶ関旧海軍省の入口のドームの丸天井を作られた。
唐草模様の焼きつけガラスのステンドグラスで、和田英作先生と一緒に作られたと
うかがっている。両先生の履歴中には、このことだけは掲載されていない。
高輪の渡辺子爵邸の応接間の唐草と、インコのステンドグラス、これも岡田先生の創案で
私は拝見に行った。たしか古い「美術新報」に色刷りで掲載されていたと覚えている。
渋谷松濤の鍋島家の玄関、霧よけの壁面、角のガラスをつなぎ合わせたステンドグラスは
高雅なもので、これも先生の作であると聞いている。
さきごろ、東京歌舞伎座で幕あきの間に、高橋誠一郎芸術院長から、三田の慶応大学講堂の
福沢先生の肖像もその部屋のステンドグラスも和田英作先生のものと聞いた。
図柄は「ペンは剣より強し」を意味して、天子がペンを捧ずるところ。
戦中、軍部から取りはずしを命ぜられたといういわくつきであったが、
戦災で焼失して和田先生もたいへん嘆かれたということであった。

美校三回目の日本画科の卒業生、小川三樹君が英国に長く留学してステンドグラスを研究、
帰国後、田端の板谷波山先生宅の上に工房を作った。
富本憲吉君も英国でステンドグラスを研究せれたということである。
小川君はその後盛んに制作し、時流に乗って建築にとり入れられた。
私も一度おたずねしたが、なにせ、ケルトやビザンチンの古いステンドグラスは
研究されていなかったので、世間にステンドグラスとはこうしたあまいものと
思いこませ、俗なものときめられたのは残念。
昭和三十五年秋、西洋美術館主催の二十世紀フランス美術展でルオー、ビッシュール、
ポニ、ロシェの、描いたり、はめ込んだり、鉄板に穴をあけたりした、
さまざまなビザチン様式の高雅なステンドグラスを見た。 
この本物の精神が正しく活かされていたなら、キャンバスに向かう以上の表現力がある。
建築のガラスの仕事は、工芸家でなく、教養高き画家にお願いしたいものだとすら思った。



岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら

「岩田藤七 ガラス十話」 3 美校時代の交友

2011-03-31 17:51:29 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 3 美校時代の交友」

鐘を撞木で力いっぱい撞くとは、なにを意味するのか、
と大槻如電の弟子に当たる者に聞きに行ったら、師匠の謦咳(けいがい)に
親しく接することであり、卑屈さのない内弟子、遠慮なく師匠にふれ合う
歌舞伎独特の用言だと教えられた。

       美校時代の藤七

やがて私は、夜となく昼となく伊達跡の岡田先生画室へ通い出した。
もちろん、金工の最後の名工、海野勝、平田重幸(ともに帝室技芸員であった)
の細工場をたずね、仕事ぶりを拝見させていただき、両家とも十余人の弟子を
擁されていることを知った。
国粋保存論者であった漆芸家、六角紫水の白山下の私邸には、自動車の塗装室もあって、
蒔絵の石膏によって量産も実行されつつあるのを知った。
入学当初の大村先生の訓辞を忠実に私は実行して、美校在学十二年という最長
レコードをつくって卒業を延ばした。

現在の私のガラスに金を入れたり、線や色のぼかし、ガラスを延ばしたりする工夫、
工具の工夫は金工、蒔絵の技法で学んだ応用である。学んだことはそればかりでない。
工芸家としては工作場を設けて弟子あるいは工員の必要性をつぶさに感じとった。
だんだんと現在の工場の基礎を作りはじめたのは、昭和三年ごろのことである。

さて美校の同級中で佐伯祐三は、朝の登校前にノート半分くらい町をスケッチ、
午後は朝倉塾で彫塑をやるという勉強ぶりであった。
私は午後建畠アトリエで彫刻をやり、ときに岡田三郎助先生の主宰する本郷研究所へ通った。
この洋風建物は鹿島清兵衛と新橋の名妓「ぽんた」の経営する写真館跡であった。
同じ岡田教室にいた伊藤熹朔は浅草のオペラ館へ毎日通っていた。その頃のオペラ館は、
帝劇から分かれた原信子、田谷力三、清水金太郎氏らが、ボッカチオ、カルメン、椿姫、
リゴレット、アイーダなどの歌劇を本格的に上演して、私どもを熱狂させていた。
熹朔君はずいぶんここで勉強して、今日の基礎を築いた。


      藤七(左)と伊藤喜朔(右)

これより前、私は文学青年でもあったので、荷風はもちろん、白秋の詩、
木下杢太郎の南蛮ものを読み「南蛮寺門前」などという新劇も見て回って、
しだいに私は南蛮趣味に向かって行った。
やがて日蔭町の村幸の錦絵店へ行くようになった。十円も出せば長崎版の黒船や
金で縁をとったギヤマンのコップが求められたというありがたい時代であった。
たしかにあれは、出島で用いられた遠眼鏡であったであろう。
漆皮の太い筒が三段にのびる。破損していたのを、学校で直して得意であった。
動かない櫓時計を買っては歯車をたたいて、延ばして動くように直し、
ガラスのちょっとしたカケは漆のサビで直した。こんなことがこの店の名物になった。
岡田先生も荷風先生も先代の左団次もこの店へこられた。

この店の上客は永見徳太郎や横浜馬車道の風月堂主人、米津武三郎君であった。
米津さんの別宅は大礒にあった。松林を背景にして四足門、ゆるやかな屋根、濡縁と、
小さくはあったが藤原絵巻そのままだった。私はたびたび米津さんの家へ招かれた。
いつも風月堂の自前の洋食であったが、クリームをかけた野菜やスパゲティは
当時としては珍しかった。古風な切り子の鉢や皿に盛られて出されたときには、
床の鎧櫃や冑や短繋などにはよくガラスが調和して、すべてを新鮮にして見せた。
いまの丸ノ内ホテルのバーのような異国趣味であった。
前田青邨先生と初めてこの家でお目にかかった。その数年後、インテリで下町好みの
米津さんは行方不明となった。
米津さんは下町の旦那というものの最後の人であった。米津さんの最後は北鎌倉の
好々亭にかくれて雇われて、そこでなくなったと前田先生からうかがった。
切り子鉢に野菜が盛られると、米津さんが今でも思いしのばれる。

中学校の同窓の林忠雄が銀座尾張町コックドールのところでフタバヤという店を
開店した。高級な美術品ともいうべき雑貨、ドーム、新しいガラス、ペルシアのラッグ、
陶器、セーブル焼の動物彫刻、スペインの家具、皮、最後にはゴンドラまで輸入した。
一時フタバヤ・ムードを銀座に作った。
画商デルスニスは黒田鵬心、田辺孝二君と共同してベルナール、シニャック、
モローの装飾的理念の絵画と、ロダンの彫刻、椅子、テーブル、ドームのガラス類の
大規模の展観を、上野美術館で開催した。塩原又策氏や骨董商の山澄力蔵氏が背景だった。
私をして切り子以外にこんなにもやわらかい、近代的なガラスもあるものかと、
これまでのガラスの観念を変えさした。切り子もそこでは光りかがやきはしない。
えぐりたったような荒々しい面であった。色も、瑠璃や赤でなくて煉瓦のような赤色で
あった。フタバヤもデルスニスもともに震災後の洋風化に働きかけた力は大きかった。

私はこのころ、浜町山澄骨董店で、美術愛好家として有名であった今村繁三さんに
初めてお目にかかり、仕事の上でたいへんよかった。
今村さんは橘ガラスという食器のガラス工場を三菱財閥をバックに経営されていた。



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「岩田藤七 ガラス十話」  2 青年時代

2011-03-01 10:49:45 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち     2011/2/1掲載  
2 青年時代     2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友           
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 2 青年時代」

 ここでは、私がどのようにして中学、美校で青年時代勉強し、
芸術を吸収し、身につけ、ガラスに興味をもちはじめたかを書かしてもらおう。

 まず、私は、日本橋の住まいの近くの常盤尋常高等小学校の高等三年から
(建築家の吉田五十八は私より一年先にこの小学校から開成中学へ行った。)
大手町の商工中学へ入学した。

    
 前列左 吉田五十八  後列右端 藤七

 すでに小学生のころから白旗橋畔の菊池塾へ漢文とお習字に通わされた。
これが幸いして、商工中学の書道の教員であった小山雲潭に目をかけられて、
永字八法と懸腕直筆を教えてくれて、ついに稲垣雲隣という、深川の八幡境内に
住む四条派の画家からツケ立てを習えと紹介してくれた。
三年生のとき、明治四十二年であった。電車は永代橋を渡って黒江町まで、
同じ下町でもこのへんまでくると風俗、家並みもガラリと変わって、
潮の生々しい香が、うきうきさした江戸の名残りがいたるところにあった。
木造の黒渋塗りの櫓が黒江町の右側、蛤町に建っていた。
小さな入江がこの下にあって、田舟のようなアサリ取りの小舟がもやっていた。
通りはばも狭く、門前仲町から不動様へかけて、小料理屋が続いていた。
はんてんや尻っぱしょり、股(もも)引き姿の男性、引き上げ帯、
銀杏返しの女性の行き来の激しさ、澄み渡った青空、白い浮雲、北斎、
広重そのままであった。
 毎日曜のツケ立てのおけいこなどは名のみで、早くやめて、
洲崎の土手から妓楼大八幡の時計台、遠くは房総半島をながめ、
あるときは掘割りの小さな渡し舟をいくつも渡って木場をさまよい、冬木弁天へ。
後年、荷風の「夢の女」「深川唄」「牡丹の客」「日和下駄」を読むときに役立った。
ときに堅川、横川までも足をのばした。
 これらの川岸に四角の煉瓦の煙突がいくつもあった。
その下で、火の玉がゆらゆらとゆれて、飛んで行く、不思議な光景をみた。
ガラス工場であったと知った。こんな小さな吹き場が幾軒も川岸からも、
往来からもみられたが、これが私の一生の職業になるとは夢にも思わなかった。
 さて私は、中学校卒業前後から溜池の白馬会研究所へ通った。
水色ペンキ二階建、いまの噴水があるあたりにあった。 
桜井知足という塾長といった風格の画学生に直され、直されたが、
なかなか上達はしない。森永のキャラメルが白と赤のペンキ塗りの
小さな工場内で作られていた。バラ売りで目方をかけて売っていた。
キャラメルを買ってはなめて演技座を見たり、田町の崖下で先代尾上梅幸さん
の標札をみたときは、入学のことなどすっかり忘れた。
先年、森永のモカの瓶のデザインを引き受けたおりに、営業部長の後藤さんに
この話をしたら、溜池でキャラメルを買った人は三、四人しかいないから
社長に話をしてくれといわれて、つい話に実がいって瓶のデザインは
図面ではダメですと、一枚の図面もみせないで幾十本となく実物を吹いて、
その中から、古風なハンドメードの味のあるものを選んだ。
ややともすると酒瓶が香水瓶に似かようのは、図面にたよるからである。
食用瓶と、化粧瓶の区別をつけておきたいものであるなどと話した。
この森永の本社のあたりが、明治初年のガラスの発祥地東京ガラスの
工場に当たるであろう。
話は、瓶にそれたが、ある日、この研究所で、岡田先生と親しくお話の機会を得た。
先生は「絵はほんの少数のすぐれた人が進む道であって、君は工芸を選びなさい」
といわれた。時に明治四十四年の秋であった。
そのころ先生は、図案科のデッサンを教えられていた。
先生の日常のお仕事も絵でなく、愛宕下の第一流の洋家具店で宮内省の仕事
などをしていた寺尾家具店のイス、テーブル、本棚などの図面を描いておられた。
先生の尊父は神奈川県知事、育ちのよい上に佐賀県生まれであったから、
一面葉隠武士的のけわしい気性があった。
愛情をこめて多くの弟子を養成されたが「三度注意して聞き入れないものは
弟子でない」と、私が四十歳ごろのときに本心をいわれて、
飛びあがるようにびっくりしたことがあった。
工芸家になれとすすめられたのも先生、ガラスをすすめられたのも先生、
陰に陽に、不肖私をかばい教えられ、帝展などで私のために苦境に立たれたのも、
一再ならず、ときの石丸優三幹事長、福原院長あてに出品ガラス板の陳列撤回の
申入れをして毎日(当時の東京日日新聞)美術記者、金子君がはなやかに
取材してくれた。これのためにかえって、世人はガラスに注意を向けることとなった。
明治四十五年春、東京美術学校の入学式を迎え、講堂での生徒主事の大村西崖先生の
訓辞は「生徒諸君、この学校には卒業というものはない。
免状をあてにしてはならない。一生、学生であれ」とさとされた。
さらに「この学校には、大きな釣鐘がたくさんある。
大きな撞木で力いっぱい撞いていろいろな音を聞いて学校を出なさい」といわれた。
この一言は、私のガラスの仕事に、私の一生に大きな影響を与えた。
これは、何を意味するのであろう。




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「岩田藤七 ガラス十話」  1 おいたち

2011-02-01 14:26:34 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                 藤七70歳頃
私は美術家として、たいへん幸せであったと信じている。
岡田三郎助、朝倉文夫、和田三造、梅原龍三郎氏らの先生方に師事し、
いまも育てられている、明治に生まれ明治に育ったわが師は、封建性と
フランスの自由主義を混然と一体となし、西洋を咀嚼し、日本的な文化を
創造された。
技術以外の豊かな先生方の好みと生き方、物の見方、自然の見方、受けとり方など、
作家としていちばん大切なものを授けられ学んだ。
ガラスという新しい仕事に楽々と自信をもって取り組めたのも、
この蓄積の力の賜ものである。無形の大きな資本を授けて下さった。
なんという幸せなことであろう

1 おいたち     2011/2/1掲載  
2 青年時代             
3 美校時代の交友           
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった



「ガラス十話 1 おいたち」

私は、十回にわたってこの稿をつづる。
私の愚かさも同時に批判されるであろう。耐えがたきことであるが、
もっとも尊敬していた朝倉先生の初七日の日に、ついに引き受けさせられた。
何一つお返ししていない、お世話になりっぱなしで、完璧な作品も未だに
お目にかけられない。この稿ではあの世の岡田、朝倉両先生に感謝し、
やっと芽を吹きはじめたガラス工芸を志す次代の作家への、心構えの一文として、
また産業工芸を重視して海外に目を向ける作家への一文として書く。
一家をあげよく働く息子夫妻、戦後よく協力してくれた工員へ感謝する。
窯も二基となった。アメリカのあるデパートとも契約のできた昨今、
あなたがたのしらなかったことをいいにくいがいわしてもらおう。
私はどのような両親を持ち、どのようにして中学を卒業し、十二年間美術学校に通い、
薩摩切り子以来、企てなかったガラス工芸へ向かったかを、少々いやらしいが、
二回稿をつづける。  

   父 先代藤七    母 いち    藤七 4歳

父は早く死に、無業でいた、いわゆる下町のしもたやであったことが、
何よりもガラス屋になるのに好都合であった。
明治三十三年の三月、私の八歳のとき、当時の町名、日本橋本石町二丁目十五番地、
いまの電車通りの本町角の室町ビルのところにあった土蔵造りの家で
父は枕頭で「人に負けるな」と一言、私にのこして胃ガンで死んだ。
家庭はちょっと複雑であったが、橋場に住む資産家の北岡文平氏が手ぎわよく整理し、
資産の一部を日本郵船の株券にして、この配当によって一人息子の私が十分に学業を
つづけられるような賢明な方法をとってくれた。
(北岡文平氏の令息は賀田組という靴屋をやって没落し、北岡華子は初期の女優
となった。久保田万太郎氏は新劇の女優として会ったことがあるといわれた。)
    
その後、女手では呉服問屋は苦労が多いので、従兄にあとを譲って、
ささやかな長屋を伯母の隣地に建て、私一人移り住んだ。
これがいまの牛込の住まい、明治四十四年である。
その後母もここへくることになった。母は慶応二年生まれ、
実家は日本橋の魚問屋、早く没落したが、氷の十分でないころの魚問屋は
まことに清潔で、てっとり早く、あきらめがよくて、気短かで、華美で、
女だから、けちんぼうで一文惜しみの百損というおどけたところもなくはなかった。
賭けごとがすきであった。ガラス屋向きの性格が多分に母にあった。
岩田の祖先は五両の資本で商人になったから、五両だけ遺せばよいなどと、
機嫌のよい日には、ずいぶん浪費もした。第一次大戦には日本郵船は十割、
二十割の配当があって、思わぬ金がはいったが、一文も使わなかった。
旅行は一度もしなかったというつつましいこともあった。

余談だが、黒田清輝、有島武郎、永井壮吉(荷風)らも日本郵船株主名簿で発見した。
牛込のこの家は不思議な家である。大正十二年の震災にもこんどの戦災にも、
なに一つ損害は受けないし、戦時中疎開さえもしなかった。
大きな、拾い物をたびたびした家と土地と資産である。
母の私にいった「五両だけ遺せばよい」が、そのまま私の心の奥底にある。
ガラス屋のようないまなお不安定の家業には、よい状態におかれていた。
父のいまわの「人に負けるな」の一言と、母の勇ましき精悍な魚河岸の根性に加えて、
岡田、朝倉、和田、梅原の顔がまぶたにうつり、心のささえとなって、
今なお私の若さは保たれる。

自分自身になんの執着も持ってないこと、ハダカになれること、清潔で華美で透明で
あること、これがガラス家業の第一条件――やっと昨今ガラスが身についてきた。
ガラスの技術は第二段である。ガラス自体になりきることが根本である。
おのずと人生観を変えねばならぬ。しがない家業である。
スリルの多い業種であるから、大資本家ではできない。
私の性格は早くもここへ目をつけた。しかも近代的感覚を十分もっている男子一生の
仕事として悔いなしと信じた。
ガラス屋で産をなくしたもの数知れず、行きづまったあげく自殺するものもあった。
お手のものの、亜砒酸を一なめすればことたりるからである。




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