天佑堂鍼灸院日記

楽しい体のプロデュース
刺すハリ治療から刺さないハリ治療へ

聖書を読み返す

2006年11月04日 20時08分10秒 | 精神世界
久しぶりに聖書を開いたら。
「人にはその生き長らえている間、楽しく愉快にすごすよりほかに良いことはない。」
と書いてある。
うん?伝道の書?こんなのあったっけ?
聖書はどうも禁欲的すぎるイメージがあったのですが、こんなことも書いてあったのね。

瞑想と身体

2006年10月24日 10時54分04秒 | 精神世界
最近は瞑想や気功といったことをやる時間がすくなくなった。
それとともに身体がずいぶん世俗的な感じになったなと思う。
瞑想をしていると身体が気体やあるいは細かい粒子のように感じられることが多い。
日常の生活でばたばたしていると身体は固まっていきどろどろとした液体か固体にちかい状態になるように感じる。
老化のせいもあるのだろうが身体がかたくなっている。
身体が硬くなると精神もかたくなってくる。
頑固で融通がきかない、怒りっぽい、不寛容、そのような性質が現われてくる。
硬い精神はさらに身体を硬くさせる。
瞑想は身体と精神の硬さを取り除いてくれる。
しかしいくら瞑想しても自己の執着を取り除かないかぎり、身体の硬さはまた現われてくるようだ。瞑想してもゴミのように身体の一部に残っている硬さを感じる。
私の場合は左の背中にそれがある。
それが私の執着であり欠点と密接に結びついているようだ。
執着を手放すとそれはなくなる。
あきらかに小さくなっていく。
執着が強くなるとそれは大きくなる。
かってこれがほとんどなくなりかけた時期があった。
体調がわるく明日目がさめたら死んでいるのではないかと思っていた時期である。
エゴや執着を持つには体力がいるようである。
それは精神や身体を消耗するからだ。
消耗する体力も気力もなければエゴや執着も持ち得ないことがわかった。
身体はぼろぼろであったが妙な清清しさがあった。
もう全ての思いが消えていきそうに感じた。
だがある一瞬恐さを覚えた。
全部エゴをすてると自分がなくなるのではないか。
瞑想も気功もしたくなくなった。
実際やめた。
それから体調がなぜか回復していった。
なぜかエゴも大きくなっていくのを感じた。
体調が良くなるにつれエゴも大きくなれるようである。
死ぬ時にはおそらく全ての思いを捨てて行かなければならないのだろう。
治療家であることを選択し続ける自分もまたエゴの現われかもしれないと最近思う。
自分の過去の体験やある種の能力にしがみついているだけかもしれないと思うこともある。
過去から自由にそして自分の能力にも知識にも執着せずに生きていくべきなのかもしれない。
実績ができるとどうしても満足とともにエゴが肥大するのを感じる。
少しは誇りも感じる。
それをよりどころにしてしまう。
頑丈な鎧を着込んでいるような感じがする。
じつは何も持たないということはとてもすばらしいことなのだろう。
エゴを大きくする要因がないからだ。
「心の貧しい人は幸いである。」というイエスの言葉を思い出す。
「満足している人はみにくい」とクリシュナムルティは言う。
私はまっさらな状態であることができるであろうか?
昨日に対して死ぬことができるであろうか?


ははは!

2006年09月20日 19時22分22秒 | 精神世界
メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」
と尋ねた。 すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」
~出典不明~


ちょっと他所から転載しました。
今の私はひょっとしてとてつもなく幸福な暮らしをしているのかもしれません。

トイレ掃除2

2006年09月12日 19時08分43秒 | 精神世界
小林正観さんの本にトイレ掃除をしていたらうつ病が治ったという話しが出ていたのですが、
うちでもそれを裏付けるようなことがありました。耳ツボダイエットで来ていたある女性がうつ病だったのですが、「つらい、死にたくなる」とよく言っていました。
私が正観さんの話しをお思い出して「トイレットペーパーでふたを拭くだけでいいからトイレ掃除してみたら」といったら、それからだんだんトイレ掃除をするようになって、しばらくしたある日「もううちのトイレは完璧ピカピカです」と元気な声で電話してきました。
「調子はどうですか?」と聞くと「絶好調です!」と答えが帰ってきました。
おそるべし、トイレ掃除の力!
これで病気なおるなら治療家はいらないですね。
念のため言うとこの人には鍼もマッサージも気功もいっさい施していません。

トイレそうじ

2006年09月06日 19時53分16秒 | 精神世界
最近「トイレそうじ」にはまっている。
小林正観さんの本を読んでから家のトイレもせっせと掃除するようになったのだが、効果は絶大である。とにかく気分がすっきりする。目の前がはっきり見えるような感じになる。気分が前向きになる。臨時収入が入る。
最近「成功を加速する「そうじ力」」なる本を本屋でみつけ即買ってしまった。おかげで私のそうじにますます拍車がかかっている。
いままでほったらかしだったバックヤードも随分きれいになった。
めったに磨かない洗面所の床も磨いた。
なんだか瞑想するより簡単に悩みやイライラが消えるような気がする。
太極拳を初めてやった時も感じたのだが、私はじっとしているより身体を動かしたほうが心静まるようだ。そういえばめちゃくちゃいそがしい接骨院で働いていたとき、忙しすぎてなにも考える暇がなく、ある瞬間自分の意識と身体が透明になるのを感じたことがある。
その瞬間意識がとてもクリアになり治療院の中でおきていることが隅々まではっきりとわかったという体験がある。
小人閑居して不善をなすとか。
もっと忙しく動き回ることにしよう。

意味の無い偶然の一致?

2006年08月14日 12時51分41秒 | 精神世界
昨夜、かみさんが所有する「スケ番刑事」の漫画をぺらぺらめくりながら、
「スケ番デカに似た言葉で、ルス番デカ!留守番ばかりしている刑事!」
などとどうしようもないことを言いながらテレビをつけたら、
セーラー服姿のあややがヨーヨーを持って
「スケ番デカ!」
と叫んでいました。
あまりのぐっとたいみんぐに絶句!
たぶんこういうのはシンクロニシティとはいわないのだろう。
何の意味があるのか?
意味があるとは思えない!

個の花道場

2006年08月07日 10時30分48秒 | 精神世界
8月5日、6日とメキキの会というところが主催する「個の花道場」というところにいってまいりました。そこで2日間、自分の天命は何?人の個の花は何?ということを探究してまいりました。
そこで感じたのは自分がいかに他人を見てないかということでした。
ペアになって相手と膝を突き合わせて、お互い目をみて、そこから伝わってくるものを感じ取るワークがあるのですが、最初に遠目で見たその人の印象とは全く別のものが伝わってくるんですよね。目をじーっと見てると、ただ漠然と見ていた時のその人とは全く別の情報がつたわってくる。
それが案外正確だったりするんですよね。でいかに自分が人が見えてなかったかということが良くわかりました。結構自分のイメージ先入観が強くてそこから人をみてる。ちゃんとみてるつもりでぜんぜん見てない。これからは人をありのままに見ていくという意識してやろうと思います。
それから私の天命ということですが今時点で感じたのは、「人がより健康に、美しく、強くなることに貢献する。」ということでした。まあこれは今時点で感じたことなのでこれからどんどんわっていくかもしれません。お楽しみです。

クリシュナムルティを読む2

2006年07月14日 16時02分27秒 | 精神世界
良く「人生は選択である」といわれます。(ちなみに私は携帯を洗濯しましたが)
しかしKは言います。
「選択はこれとそれの間を含蓄しています。明らかに、それはつまり、
 精神は明晰に見ずそれゆえ選択があることを意味しているのです。
 選択は混乱があるときに存在するのです。明晰に見る精神に混乱は
 ないのです。」(「生の全変容」春秋社刊)

またこのようにも言います。
「危険な動物を見る時、それについて考えてみようとは言いません。
 あなたは動きます。」(同上)


我々がもし明晰に見るということをするならば、もはや選択という余地はない、
そうKは言っているのだと思います。
もしあるがままを明晰に見るならそこには選択という時間のロスが入る余地なく
ただただ適切な行為があるのみである。そういうことなのでしょう。
ですがよほどせっぱつまらなければ我々は適切に即座に行動するということには
ならないようです。
そして我々が即座に行動しないということはkに言わせるなら、
明晰に見るということをしていないからだということになるのでしょう。
それは猛獣に食い殺されるというほどせっぱつまった危険でないかもしれませんが
すこしづつ自分を蝕んでいるのかもしれません。


クリシュナムルティを読む1

2006年07月08日 17時12分50秒 | 精神世界
クリシュナムルティの本を人に貸すと難しいといわれることが良くある。
そこで大変恐れ多いことではありますが自分なりの解釈を述べてみたいと思います。
クリシュナムルティの愛読者にとってはつまらないものになると思いますので
あまり読んでいただきたくないというのが本当のところです。

「過去をすっかりぬぐい去った感情と知性で知覚すること、これは知覚の奇跡です。
否定がもっとも積極的な行為なのです。」 自己の変容 めるくまーる社刊 松本恵一訳

ここにクリシュナムルティ(以後Kと呼びます)のいわんとするところは集約されているように
おもいます。彼の著作のいずれを読もうと言いたいことはただ一つであると。
我々が例えば、人を見る時、そこには過去の経験からくる知識あるいは思いでそういったものから
人を見ます。過去にその人が悪態を自分についた人だとします。


で私がその人を見る時過去に悪態をついた嫌な奴だとして、その人を見ます。
「こいつは嫌な奴だ」という私の見方は過去の経験からその人を見ているわけです。
現在のその人をあきらかに見ていません。
それは過去の出来事からの解釈であってありのままの事実でも真実でもないのです。
ひょっとしたら、今ここにいるその人は全く過去と変わっているかもしれないのです。
その人に悪態をつかれたことのない人がその人をみても嫌な気分にはならない。
ところが過去に悪態をつかれた経験のある私は嫌な気分になる。
ここで私を不快にさせるものは過去の記憶なのです。
私がもし過去の経験や知識からその人を見ないなら、その人は例え1000回今までに顔を合わせたことのある人でも、今日この場にいるその人であって、ある意味今日始めてあった人と同じように新鮮であるはずです。そしてなんの不快感もないはずです。
しかし私はそのようにできないのでその人の顔をみた瞬間に嫌な気分になったりするわけです。
もし私が過去から全く切り離してその人を見るならここで私は爽快な気分でいられるわけです。

天佑堂鍼灸院

言葉にはやはりパワーがある

2006年06月27日 19時17分36秒 | 精神世界
昔の私は、マントラとかお経を唱えるようなことは馬鹿にしてたのですが、小林正観さんの講演にいってダメもとで「ありがとう」と呪文のように唱えてみたのですが、今時点の感想はやはり本当に効果があるような気がしてます。こういう方法は自分の外面に働きかける力が強いようなきがします。
というのは5月中と6月始めはあまり自分で精神的に良くない状態にあると感じていたのですが、周囲に起ることは良いことが多かったからです。内面はうじうじしたり怒っていたりするのに良い方向に物事がすすんでしまう。今まではこういうことはあまりありませんでした。
だいたい精神的状態と外部の環境は一致することが多かったですね。
そういえば斉藤一人さんが「心のなかで親子丼と唱えながら、鍋焼うどんくださいと言ってみな。
まちがいなく鍋焼うどんがでてくるから。」と言っていたのを思い出しました。
精神的には結構うじうじしてるのに鏡にうっった自分の顔は元気はつらつなんですよね。
ひさしぶりに合った人にも元気そうですね、とか順調そうですねといわれてしまいます。
まったく不思議なことです。