日本人のご飯を食べる時に「頂きます」、食べ終わった後「ご馳走様」と言う事はひじょうに意味が有ります。よく、子供のころには、食べ終わった後に、お茶碗の中に、ご飯の粒の一つでも残っていると、”ちゃんと食べなさい、お百姓さんが丹念込めて作ったお米を残すと、目がつぶれる”と怒られたものです。この日本人が全ての食材を大切にする気持ちが、この現代においても連綿と古代から続いています。
以下、「竹田恒泰」氏の著書から引用さして頂きました。
人は食しないと生きていけません。この「食」は他の命を「頂く」という事になります。
日本民族が信仰してきた「神道」の価値観によれば、木一本一本、花弁一枚一枚、そして風や波や霧まで神霊 が宿ること考えています。そればかりか、人間が作った竈(かまど)や厠(かわや)にも神霊が宿るとされ、数多くの神々を「八百万神」と称してきました。神道においては神とは、主に大自然のことであると考えられていました。このように、日本人は大自然に対して感謝に気持ちを抱きつづけてきたのであり、その価値観が「もったいない」精神の根底に流れていると思います。
日本人が物を大切にしてきたのは、物資としての物の価値ではなく、物に神聖性を見出してきたからに違いないと思います。でなければ、箸、布団、便所、風呂、茶碗などに「お」という丁寧語を付けて呼ぶことはしなかったでしょう。日本の子供は、前記にて記載したように「米を一粒でも食べ残すと目が潰れる」と教えられて育ってきましたが、一粒も残してはいけないというのは、欧米人や中国・韓国人には理解できないかもしれないでしょう。これは物資としての”米”の価値ではなく、神からの贈り物である米の神聖性によるからで、そして現実に現代日本人の多くは、ご飯茶碗に米を一粒も残さずに食べる習慣を身に付けています。
”米”を一粒も残さない日本人の感覚は、食前の挨拶である「いただきます」に象徴されることです。「いただきます」は「ごちそうさま」と並んで、英語などの主要語に翻訳しにくい言葉であり、日本のアニメに英語の字幕が付く場合「いただきます」は「Thank you」や「I' m eating」などに訳されています。
確かに、敬虔(けいけん)なるキリスト教徒が食前に神に祈りを捧げることはありますが、毎回、食事のたびに祈りを捧げている人はごく少数で、たいていは無言で食べ始め、食べ終えても無言です(欧米の映画などを見るとよくわかります)しかし、日本人であれば原則として食前食後の感謝の言葉を口にするのが普通です。そして「いただきます」とは「あなたの命を頂きます」という意味であり、食材そのものに対する感謝の気持ちを表す言葉であるから、キリスト教徒が神に食事を感謝するのとも性質が異なります。
日本人の伝統的価値観よれば、食事とは、あなたの命に換えさしていただく、いわば命を交換する儀式です。人は生きていくうえで、毎日毎日命を摂取しつづけなければなりません。人は自分の力で生きているのではなく、大自然の恵みを頂きながら生かされているのです。
一方、「ごちそうさま」は「ご馳走様」と書くことからわかるように、食事を作ってくれた人と食材を生産した人に対する感謝のことばで、時間の流れのなかで言葉は変わってきたかもしれませんが、日本人は縄文時代から一万年以上の間、食事のたびに食材と料理人に感謝の言葉を唱えつづけてきました。
この、素晴らしい、食事に感謝する思いや言葉は世界中で日本国だけです。
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