以下、本来の趣旨にかえります。新仏教の事を記載しますが、その前に、以前、大まかな仏教の流れを以前記載した内容を参照頂ければよく分かりますョ。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120117
まだ社会が動揺し戦乱が続いていいた頃に、貴族や庶民は、そして武士もまた、新しい宗教を求めていました。
そこに登場したのが「新仏教」です。
「浄土宗」を開いた「法然」は貴族の間に瞬く間に広まりました。浄土信仰の徹底を主張し、一心に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、誰でも「極楽浄土」へ行けると説きました。
「法然」
「法然」の弟子「親鸞」は「浄土真宗」を開き、「阿弥陀仏」の救いを信じる心があれば念仏は一回だけ唱えればよいと説き、しかも罪を自覚した悪人こそが阿弥陀仏の救おうとする者だという「悪人正機説」を説きました。
「親鸞」
この思想を弟子の「唯円」が「歎異鈔」(たんにしょう)に書き記しました。
「唯円」
また、「時宗」を開いた「一遍」は、諸国を巡り歩き、「踊念仏」によってすくわれた喜びを表現しました。(現在でも、この踊り念仏が各地で行われています)
「一遍」
こうした念仏の教えに対して、「法華経」こそが仏の最高の教えであるとした「日蓮」は、「題目」(南無妙法蓮華経)を唱えれば、人も国家も救われると説きました。これが後に「日蓮宗」(法華教)となります。しかし、他の宗派からの弾圧は激しいものでした。
「日蓮」
旧仏教は厳しい戒律と修業を説きましたが、これらの新しい仏教は分かりやすく、簡単に実行できたので、多くの人々の心を捕えて広まりました。
また「宋」に渡った「栄西」は、日本に「禅宗」をもたらしました。「座禅」による自力の修業を主張したこの宗派は「臨済宗」とよばれています。
「栄西」
「栄西」はまた、お茶を日本にもたらし「喫茶養生記」を著しました。やはり中国で「禅宗」を学び帰国した「道元」は「曹洞宗」を開きました。
「道元」
いずれも、「禅宗」として厳しい戒律を守り現在に至っています。
※「親鸞」像に間違って「法然」が記載されていました。訂正済み。