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京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その551)戦乱が続いている頃に、発生した新しい仏教の誕生

2013-08-06 00:15:55 | 京の話題

以下、本来の趣旨にかえります。新仏教の事を記載しますが、その前に、以前、大まかな仏教の流れを以前記載した内容を参照頂ければよく分かりますョ。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120117

まだ社会が動揺し戦乱が続いていいた頃に、貴族や庶民は、そして武士もまた、新しい宗教を求めていました。

そこに登場したのが「新仏教」です。

「浄土宗」を開いた「法然」は貴族の間に瞬く間に広まりました。浄土信仰の徹底を主張し、一心に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、誰でも「極楽浄土」へ行けると説きました。

「法然」

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「法然」の弟子「親鸞」は「浄土真宗」を開き、「阿弥陀仏」の救いを信じる心があれば念仏は一回だけ唱えればよいと説き、しかも罪を自覚した悪人こそが阿弥陀仏の救おうとする者だという「悪人正機説」を説きました。

「親鸞」

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この思想を弟子の「唯円」が「歎異鈔」(たんにしょう)に書き記しました。

「唯円」

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また、「時宗」を開いた「一遍」は、諸国を巡り歩き、「踊念仏」によってすくわれた喜びを表現しました。(現在でも、この踊り念仏が各地で行われています)

「一遍」

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こうした念仏の教えに対して、「法華経」こそが仏の最高の教えであるとした「日蓮」は、「題目」(南無妙法蓮華経)を唱えれば、人も国家も救われると説きました。これが後に「日蓮宗」(法華教)となります。しかし、他の宗派からの弾圧は激しいものでした。

「日蓮」

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旧仏教は厳しい戒律と修業を説きましたが、これらの新しい仏教は分かりやすく、簡単に実行できたので、多くの人々の心を捕えて広まりました。

また「宋」に渡った「栄西」は、日本に「禅宗」をもたらしました。「座禅」による自力の修業を主張したこの宗派は「臨済宗」とよばれています。

「栄西」

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「栄西」はまた、お茶を日本にもたらし「喫茶養生記」を著しました。やはり中国で「禅宗」を学び帰国した「道元」は「曹洞宗」を開きました。

「道元」

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いずれも、「禅宗」として厳しい戒律を守り現在に至っています。

※「親鸞」像に間違って「法然」が記載されていました。訂正済み。


京の話題(平安京その550)かたちばかり武家社会の習慣に基づいて作られた法律・御成敗式目

2013-08-04 00:05:03 | 京の話題

簡単に、地頭の権限が拡大すると、訴訟の数も多くなりました。

そこで、貞永元年(1232年)、「北条泰時」は、裁判の基準を御家人に示すための五十一ヶ条の法律、「御成敗式目」(貞永式目)を制定しました。

「北条泰時」

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武家社会の習慣に基づいてつくられたこの法律は、武士の生活に見合ったものであったため、後世まで武士の法律の手本となりました。


京の話題(平安京その549)平氏の滅亡、ただの武家闘争、しかし、京の朝廷は揺るぎもしません。

2013-08-02 00:06:52 | 京の話題

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。
(平家物語・巻第一より)

誰でも知っている、有名な平家物語の一節です。

哀れなるかな、「平氏」の統領「平清盛」

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朝廷の政治を我がもの顔で動かした「平氏」は、貴族や寺社の反感をかう事になりました。さらに、貴族的性格の強いその政治はまた、地方の武士たちの反感を招きました。そして「平清盛」が「後白河上皇」と対立して、孫の「安徳」を「天皇」にしたことにより、「平氏」への不満はますます高まりました。

治承3年(1180年)、「安徳天皇」が位に就いた年に、「源頼政」は「以仁王」(後の後白河上皇の皇子)を奉じて挙兵しました。この詳細は「平家物語」に記されています。

「源頼政」

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「以仁王」(後白河法皇の皇子)

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しかし、さすが「平清盛」百戦錬磨で、この挙兵は失敗におわりました。しかし、彼の命令が全国に伝えられると、諸国の「源氏」は次々に兵を挙げ、木曽の「源義仲」(木曽義中)や伊豆の「源頼朝」が立ちあがり、東国一帯をその支配下におさめました。

「源義中」(木曽義仲)粗暴な性格で京都の民から嫌われました。京を支配したのはほんのわずかの期間でした。

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「源頼朝」

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「源義仲」は京都から「平氏」を追い出しましたが、彼の粗暴さに京の民は恐れ、孤立しました。(所詮、庶民を味方につけない政権は、すぐに破滅します)

「源頼朝」に遣わされた「源義経」によって「木曽義仲」は滅ぼされ、この間、西国で勢力を盛り返した「平氏」でしたが、「一の谷」や「屋島」の合戦で「平氏」は敗北し、「義経」らの率いる「東北軍」に敗れ、文治(ぶんじ又はもんじ)元年(1185年)「壇ノ浦の戦い」で、ついに「平氏」は滅亡しました。

「壇ノ浦の戦い」絵図

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あの、おごれる言葉「平氏でなければ、人にあらず」の有名な言葉は、「風のまえの塵」に終ったのです。


京の話題(平安京その548)鎌倉の頼朝の死後、恐妻・北条政子の鎌倉幕府、しかし、京びくともしません

2013-07-31 00:12:42 | 京の話題

将軍を中心にまとまりを持った武士団が、領地・領民を朝廷から認められたということは画期的なことでした。しかし実際にはその勢力範囲は関東だけでした。

「京都」を中心とする西国においては依然として朝廷の力が強く、地頭もほとんど置くことは出来ませんでした。

「源頼朝」の死後、幕府の主導権争いを経て、その実権は「頼朝」の妻で、あの「北条政子」の父、「北条時政」の手へとj移りました。

「北条政子」

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「政子」の父「北条時政」

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有力御家人と手を結び将軍の力を奪った北条氏は、「時政」の子「北条義時」が政所と侍所の長官を兼任する「執権」という地位に」就き、以後これを世襲しました。

この頃、京の「朝朝」では第82代「後鳥羽天皇」が「上皇」になり、院政を行っていました。朝朝の勢力を回復しようとしていました。

鎌倉の将軍「実朝」が暗殺され、源氏の将軍がわずか三代で途絶えると、承久3年(12221年)、「後鳥羽上皇」は時の執権「北条義時」を討てとの命令を全国に発しました。しかし東国の武士のほとんどは北条氏につき、その大軍の前に「上皇」は敗れ、「隠岐の島」に流されました。これを、「承久の乱」といい、この乱をきっかけに、幕府は京都の警備や朝朝の監視と西国武士の統括にあたらせる「六波羅探題」をおきました。

また、上皇側についた貴族や西国の武士の領地を取り上げて、その地の地頭に東国の御家人を任命したので、幕府の支配力は西国にも大きく伸びることになりました。


京の話題(平安京その547)公家をおさえ、武士政権の始まり

2013-07-29 10:12:52 | 京の話題

「院政」のもとで成長した「武士」は、東国で「源氏」が勢力を広げると、西国では「平氏」が勢いを伸ばしました。

保元元年1(1156年)、「上皇」と「天皇」との政治の実権争いがおこると、「源氏」と「平氏」とのその争いに動員され、戦いました。「保元の乱」

この戦いで働きの目覚ましかった「平清盛」と「源義朝」は、三年後の「平治の乱」(平治元年・1159年)では敵対して戦い、平の長「平清盛」が勝利しました。

「平清盛」像

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これらの戦いを経て、武士が政治の上でも大きな権力を得ることになりました。

武士として、初めて「太政大臣」となった「平清盛」(武士でありながら太政大臣にのぼりつめ、平氏の全盛時代を築いた武将)は、娘・徳子(建礼門院・安徳帝の母)を第80代「高倉天皇」の后とし、さらに第81代「安徳天皇」の外威となって勢力を強めると、その一族は多くの荘園を手に入れました。また、高い位を得て繁栄を誇りました。

「徳子」平清盛の娘・建礼門院・安徳帝の母(京の大原”寂光院”に隠徳地を求めました)・「壇ノ浦の戦いで、入水し奇跡的に助けられました」

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第81代「安徳天皇」

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「平清盛」は摂津の大輪田泊(おおわだのとまり)を修築するなど瀬戸内海の航路を整備し、「宋」との貿易を盛んに行い、「宋」の文化が広く日本に入りました。

その頃、海外では「第一回十字軍遠征」(1096年)等が起こっていました。