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京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その556)室町時代にに大いに栄えてた、室町文化

2013-08-16 00:02:45 | 京の話題

室町三代将軍「足利義満」が京都に、その文化をよく表している「寝殿造」と「禅宗様」とを折衷した「金閣」を建てたので、その時代を「北山文化」と呼んでいます。

その時代の「北山文化」は、幕府の保護を受けた「臨済宗」の僧が中国の学問」や芸術を伝え、その影響を受けた「観阿弥」「世阿弥」父子により、芸術性の高い能楽が完成され、「風姿花伝」(ふうしかでん)という能の理論書できました。

室町八代将軍「足利義政」が京都にも東山に、近代の和風建築のもととなった「書院造」を下層にとりいれた「銀閣」を建てたのも、この時代の文化を「東山文化」と呼びます。岩石と砂利を組み合わせて同時に「禅」の精神を表した庭園「枯山水」も造られました。

「雪舟」は、墨の濃淡で表現する「水墨画」を大成させました。

「雪舟」

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「雪舟」画、「秋冬山水図」

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「雪舟」画「天橋立図」

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また、水墨画に「大和絵」の手法を取り入れた「狩野正信」・「狩野元信」父子により「狩野派」の基礎を作りました。

「狩野正信」画「周茂叔愛蓮図」

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狩野元信」画「白衣観音像」8ボストン美術館蔵

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以上のように、平安京に「北山文化」・「東山文化」の華が一気に咲いた時代です。

しかし、「足利義政」の東山文化「銀閣」の時代には、もはや、室町幕府は崩壊の兆しをみせていました。


京の話題(平安京その555)室町文化の象徴・北山文化と東山文化

2013-08-14 00:04:38 | 京の話題

室町三代将軍「足利義満」(銀閣寺を」創建下人」き詳しくは」前記参照下さい。「金閣寺の事が良く分かります」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120727

「足利義満」が京都の北山に、。その文化に、その文化をとく表した「「寝殿作り」と「禅宗様」とを折衷した「金閣」をたてたので。その時代を「北山文化」とよんいます。北山文化は、幕府の保護を受け壮大な文化になりました。

室町幕府、三代将軍「足利義満」(また出てきましたが)

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まあ、時代的にこの頃が、室町時代の全盛期でした。

その文化をよくとく表しているのが「寝殿造」と「禅宗様」とを折衷した「金閣」を建てたので、その時代の文化を「北山文化」とよんでいま¥。北山文化は、幕府の保護を受けた「臨済宗」の僧が中国から学問や芸術を伝え、その影響を受けた文化になりなした。また。「義満」にほごを受けた「世阿弥「観阿弥」親子により、芸術性」の高い能楽」」が完成されました。

その後、東山に「足利義政」の東山文化から、あのおぞましい「応仁の乱」にと時代が進みます

この文化の詳細は、次記にて。


京の話題(平安京その554)南北朝の動乱~室町幕府のはじまり

2013-08-12 00:10:25 | 京の話題

「足利尊氏」は京都にあらたに、北朝第2代「光明天皇」を立てて、延元元年(1336年)には「建武式目」(足利尊氏の諮問にこたえる形式をとり、第一項で幕府の所在地をどこにするかについて記し、第二項の十七ヶ条で当面の政治方針を明らかにしているものです)を発表しました。

「足利尊氏」

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一方、奈良県の吉野の山中に逃れた「後醍醐天皇」も、正当な皇位にあたることを主張しました。(後醍醐天皇の頑張りもここまでですか?)吉野に遁れる途中に、有名な、そら恐ろしい(登るのに)「笠置寺」をかなり以前に記載しました。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120307

皆様も一度は「笠置寺」の参拝をお奨めします。

南朝の「後醍醐天皇」

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そして、日本国で初めて、二つの「朝廷」が存在することになったのです。「南朝」と呼ばれた吉野の「朝廷」と「北朝」と呼ばれた「京都」の朝廷が対立して、60年わたる「南北朝の時代」が始まりました。

この動乱は「足利尊氏」の孫、三代将軍「足利義満」が将軍になる頃に次第に治まり、「南北朝の合体」が実現しました。この「足利義満」の時代に一気に京都の「北山文化」の花が咲きます。(だだし、応仁の乱までですが)

室町幕府三代将軍「足利義満」有名な(金閣寺http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120220を建造した将軍です,建造当時は寺院では無かったのです。詳細は前記記載を

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こうして「足利義満」は、永和4年(1378年)、京都に幕府を開き、そこで安定した政治を行いました。まさに、花咲く「室町幕府」です。

「室町幕府」は「侍所」や将軍の補佐役の「管領」を置き、有力な守護大名が幕府の政治に参加しました。


京の話題(平安京その553)軟弱な鎌倉幕府が滅亡した後、「建武の新政」

2013-08-10 00:08:39 | 京の話題

生慶2年(1333年)、「鎌倉幕府」が滅亡した後、直ちに「京都」に戻った第96代「後醍醐天皇」は、新しい政治を始めました。

「後醍醐天皇」

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新たな幕府は置かず、「院政」や「摂政」「関白」もおきませんでした。

天皇の親政の実現を目指したのです。生慶3年(1334年)、年号が「建武」と改められたため、この政治を「建武の新政」といいます。

しかし天皇中心の新政権策は公家を重視し、それまでの武士の社会につくられたていた習慣を無視sjひたものであったため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こしました。

この形勢をみた「足利尊氏」は、鎌倉で起きた「中先代の乱」を鎮めた後、武士政権の再興を目指して「後醍醐天皇」に反旗をひるがえしました。

「足利尊氏」

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一度は敗北した「足利尊氏」ですが、九州に逃げのび態勢を立て直して、湊川の戦いで「楠木正成」を打ち取り、ついに京都を奪還しました。

忠孝・楠公で親しまれている「楠木正成」

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ここに「建武の新政」はわずか三年足らずで崩壊しました。


京の話題(平安京その552)鎌倉から発生した、鎌倉文化

2013-08-08 00:08:16 | 京の話題

文化においては朝廷や貴族が高い地位を保ち、貴族文化の代表と」ともいえる「和歌」の世界では、「後鳥羽上皇」の命で選ばれた「新古今和歌集」がその代表で、「西行」は「山歌集」(さんかしゅう)を記しました。

「西行」(仏教と和歌のはざまを生きて往く)

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武士と庶民の力が強くなると、力強い文章の軍記物、「平家物語」が「琵琶法師」によって語り伝えられました。

「宋」から新しい建築様式が伝えられ、「禅宗寺院」の造営や「東大寺」の再建に取りいられました。また仏師の「運慶」や「快慶」は「東大寺南大門」の「金剛力士像」をつくりました。この時代の特徴である、実写的で力強い作品です。

「運慶」

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他に和歌集では「源実朝」の「金槐和歌集」(きんかいわかしゅう)、随筆では「鴨長明」の「方丈記」や「吉田兼好」の「徒然草」が有ります。

「源実朝」

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「鴨長明」

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「吉田兼好」

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「吾妻鏡」は幕府の公的歴史書でした。絵画でも絵巻物や写実的な肖像画の「似絵」(にえ)が描かれました。

いよいよ、中国の影響がない、日本独自の文化が、発展しました。(なにしろ、中国には、ひらかな、や、カタカナは無いですから。こまかい文学や文化が発展することが容易です。漢字だけでの文章では、無味乾燥です)