室町三代将軍「足利義満」が京都に、その文化をよく表している「寝殿造」と「禅宗様」とを折衷した「金閣」を建てたので、その時代を「北山文化」と呼んでいます。
その時代の「北山文化」は、幕府の保護を受けた「臨済宗」の僧が中国の学問」や芸術を伝え、その影響を受けた「観阿弥」「世阿弥」父子により、芸術性の高い能楽が完成され、「風姿花伝」(ふうしかでん)という能の理論書できました。
室町八代将軍「足利義政」が京都にも東山に、近代の和風建築のもととなった「書院造」を下層にとりいれた「銀閣」を建てたのも、この時代の文化を「東山文化」と呼びます。岩石と砂利を組み合わせて同時に「禅」の精神を表した庭園「枯山水」も造られました。
「雪舟」は、墨の濃淡で表現する「水墨画」を大成させました。
「雪舟」
「雪舟」画、「秋冬山水図」
「雪舟」画「天橋立図」
また、水墨画に「大和絵」の手法を取り入れた「狩野正信」・「狩野元信」父子により「狩野派」の基礎を作りました。
「狩野正信」画「周茂叔愛蓮図」
「狩野元信」画「白衣観音像」8ボストン美術館蔵
以上のように、平安京に「北山文化」・「東山文化」の華が一気に咲いた時代です。
しかし、「足利義政」の東山文化「銀閣」の時代には、もはや、室町幕府は崩壊の兆しをみせていました。