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京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その561)難波の人気者「豊臣秀吉」の天下統一・京の都も賑やかになります

2013-08-28 17:14:22 | 京の話題

「織田信長」の暗殺後。「豊臣秀吉」の中国大帰し、などで、一気に「豊臣秀吉」の天下統一が成し遂げられました(なんと簡単な説明です)とんかく、「豊臣秀吉」が天下を治めました。

 一介の農民から天下を取った「豊臣秀吉」有名な肖像画

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誰でも知ってる「豊臣秀吉」画です、京都に「豊国神社」がありゆうめいです。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120508

 また「方広寺   」の釣鐘有名です。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120508

「方広寺」の花天井も見ごたえがあります。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120508

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名な「徳川家康」がイチャモンをつけた、「方広寺」の釣鐘の文字。詳細は、前記、記載を参照下さい。

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ややこしい話はぬきにして、「豊臣秀吉」がうちだした新しい中心政策が、「検地」と「刀狩」でした。各地で統一した基準のもとのせいに検地が行われ、これを「太閤検地」といいます。

 「太閤検地」は「枡」の容量を統一し、村ごとに田畑・屋敷の面積・等級を調査して、それを「石高」という米の量で換算しました。そして耕地ごとに耕作者を定めて、その石高を「検地帳」に登録しました。こうして農民は自分の「検地帳」に登録しました。

 こうして農民は自分の田畑の所有権を法的に認められましたが、かわりに自分の石高に応じた「年貢」を納める義務が生じました。

 また武士は、自分の石高」に応じて「軍役」を果たす事が義務ずけられました。

 「刀狩」は農民から武器を没収し、武力による農民の一揆を防ぎ農業に専念させるために、また農民の身分を明確にするために行われました。

 くいぅた「検地」「刀狩」などの政策によって、「兵」「町民」「百姓」の職業に基ずく身分が定められ、いわいる「兵農分離」が完成しました。

 全国を統一した「豊臣秀吉」はそれにあきたらず、二度もの「朝鮮出兵を行い苦戦し、七年におよぶ戦いで国内の経済は、膨大な費用と兵力を消耗し、なんら収穫も無く、豊臣秀吉政権崩壊の原因になりました。


京の話題(平安京その560)一地方領主「織田信長」の台頭

2013-08-27 00:13:32 | 京の話題

さあ、いよいよ「「戦国時代も」クライマックスになってきました。

尾張の有名な「織田信長」が、天下統一の野望を最初に抱き、実行しました。信長は駿河の「今川義元」を「桶狭間の戦い」(正確には、田楽狭間」で、乾坤一擲の勝負に勝ち、美濃の「斉藤龍興」(斉藤道三の孫)を滅ぼして、三河の「徳川家康」と同盟し、背後を固め、いよいよ「京」に上洛の野心のあった「足利義昭」を将軍職(最後の足利幕府将軍・アホです)につけ、全国統一の第一歩を踏み出しました。

 「織田信長」信長を祭神とした神社が京都にも有ります。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111027

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「今川義元」(短足で馬に乗れず、常に輿に乗っていたとようです)しかし見かけは公家風でお歯黒をしてたようです。

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美濃の「斉藤龍興」一説には「斉藤道三」の血がつながっていなかったといわれています。

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室町幕府、最後の将軍、信長に利用されただけの間抜けな「足利義昭」

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その後、「浅井」「朝倉」の軍を破り、反抗していた「比叡山延暦寺」を焼き討ちし、寺院勢力を屈服させました。

 天正3年(1575年)に、アホの「足利義昭」を京都から追放し、室町幕府は完全に滅びました。その後信長は、鉄砲を大量に使用した画期的な戦法で強敵「武田勝頼」を「長篠の合戦」で勝利し、近江に「安土城」を築きました。

 信長は最大の敵、石山本願寺を根拠地とした「一向一揆」を11年に及ぶ「石山戦争」の後、ついにこれを鎮めましたが、中国地方遠征の途中に、京都の「本能寺」で「明智光秀」にそむかれて、念願の天下統一は半ばにして頓挫しました。

 「織田信長」の最大の功績は「楽市・楽座の令」の推進や関銭目当てに設けられていた「関所」を廃止するなど、城下町繁栄と商業統制の政策にその特徴がみられます。さらに「堺」などの都市自治の発展を抑え、豪商の経済力も利用しました。

その後、信長の思想を継ぎ「豊臣秀吉」が台頭します。


京の話題(平安京その559)グローバル化の戦国時代・南蛮文化

2013-08-23 20:03:26 | 京の話題

天文12年(1543年)、lポルトガル人を乗せた中国船が、九州の種子島に流され着き、日本に「鉄砲(火縄銃)」が伝えれれました。これを機に「南蛮貿易」が始まりました。

ポルトガル人やスペイン火は、日本では「南蛮人」と呼ばれ「鉄砲」「火薬」「生糸」などをもたらしました。

「鉄砲」は「戦国大名」の間に最新兵器として急速に普及しました。「キリスト教」の布教活動と一体化して行われ、キリスト教を伝えるため「イエズス会」の宣教師「フランシスコ・ザビエル」が来日し教会をつくり熱心に布教活動をしました。中には「大友宗麟」「大村純忠」「有馬晴信」のように洗礼を受ける「キリシタン大名」、おいました。彼らは後に、「伊東マンショ」らの少年使節団をローマ教皇のもとに派遣しました。これは「天正使節団」と呼ばれました。

戦国大名「大友宗麟」(洗礼名:、ドン・フランシスコ)

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戦国大名「大村純忠」(洗礼名:バルトロメオ)

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 戦国大名「有馬晴信」(洗礼名:ドン・フロタジオ)

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また、キリスト教は急速に、農民の間にも広まってきました。


京の話題(平安京その558)応仁の乱終結後、下剋上のはじまり、戦国大名の台頭、京の都は平和です。

2013-08-20 00:04:19 | 京の話題

戦国時代の争乱の中から支配を新しい地方政権が誕生しました。これが「戦国大名」です。

戦国大名は、弱体した「室町幕府」を必要せず、それぞれの力で自らの支配地をつくりあげていきました。この支配は、室町幕府の「守護領」と区別するために「分国」と呼ばれました。

戦国大名たちは、新しく服属させた「国人」(こくじん)たちを家臣とすることでその軍事力を増強すると、その地位や収入を保証するかわりに「軍役」を負担させました。軍事制度の基礎を確立しました。さらに武士や農民の行動を取り締まるために「連座制」や「検地」などを行い、農民に対する直接支配を強化しました。

有名な、戦国大名。一介の油売りから身を起こし「美濃一国」を支配した「斉藤道三」またの名は「まむしの道三」

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斉藤道三」と双璧をなす、下剋上で有名な、戦国大名「北条早雲」(伊勢盛時・宗瑞)

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また戦国大名は、大量の武器などを物資の生産・調達の必要から商工業の力を結集させた制度をつくりました。それが「城下町」の建設であり、合わせて鉱山の開発・大河川の治水、灌漑などの事業も行いました。さらに、城下町を政治・経済・文化の中心とするために交通制度を整え、家臣を集め関所を廃して、市場の開設など商業取引を活発にさせました。

戦国大名の検地は「指出検地」(さしだしけんち)と呼ばれ、領主や名主に支配地や耕作地の面積・収入額を自己申告させる方式でした。

戦国大名が銀などの採掘に力をいれたため、採掘や製錬の技術が革命的に発達し、金銀の生産が増大し、「越後」「佐渡」「甲斐」の金山や「石見」「但馬」の銀山などが特に有名です。


京の話題(平安京その557)室町幕府の文化を一気に破壊した・応仁の乱、誰でも解かる説明

2013-08-18 00:05:30 | 京の話題

寺社仏閣が「応仁の乱」にて、兵火に合い焼失と書いていますが、「応仁の乱」について簡単に思うままに書いてみました。誤記等が有れば、お許し下さい。本当に簡単に。

「南北朝時代」元徳元年(1329年)~明徳3年(北朝・1392年)の戦乱がようやく終り、「室町幕府・第3代将軍・足利義満」は、皇室(天皇)をもしのぐ権力者になりました。(足利幕府の絶頂期です。金閣に象徴されます)

しかし、この「足利義満」の没後は足利幕府の権力も次第に弱くなり始めました。

「第6代将軍・足利義教」(義円として天台座主・義満の四男)が有力な守護職(一国ごとに任命された軍事的な地方行政官)の「赤松満祐」によって暗殺されました。(嘉吉の乱・かきつのらん)将軍が暗殺されると言う事は、どえらい事です。

「足利義教」

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例えば、江戸幕府で、万が一「徳川将軍」が暗殺されるような事になったら、大事件です。もっとも、将軍に次ぐ「大老・井伊直弼」が万延元年(1860年)に水戸脱藩浪人に(桜田門外)暗殺され、一気に天下の状況が変わりましたが。色々な確執が有るにしろ、一応、主人である将軍」を暗殺するとは・・・・大事件です。

これで、一気に、「足利将軍家」の権威がガタ落ちになりました。

ここからです「応仁の乱」の、引き金を引いたのは「第八代足利将軍・義政」(この将軍は、はっきりいって甲斐性無の恐妻家のボンクラです)の優柔不断です。その上、運の悪い事に「義政」の夫人が、最悪の悪女で権力欲のかたまり。有名な「日野富子」(自分の子供の足利義尚を次期将軍にと、たくらみました)でした。先に、「第八代将軍・足利義政」は、とっくに次の将軍を弟の「足利義視」に決めていたから大変です。

最悪の女「日野富子」(京都・宝鏡寺蔵・別名、人形寺)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20130314

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「日野富子」はたくらみました。有力守護の「山名宗全」(名前は持豊、入道して宗全・播磨国守護職)と手を組んで、自分子供「足利義尚」をなんとか、次の将軍にしようと、魑魅魍魎の行動です。

「山名宗全」

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黙ってはいません、同じ有力守護の「細川勝元」。なにしろこの「細川勝元」は四国の讃岐・阿波など、ほとんどを守護し、三度も「管領職」(将軍を補佐する職で、将軍に次ぐ権力者)になっていたほどです。

「細川勝元」

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「超恐妻家バカ将軍・義政」と「細川勝元」と「山名宗全」を巻き込んで権力争い、血みどろの戦いが京都の町で始まりました。これが、応仁元年(1487年)から始まる「応仁の乱」となりました。

ノー天気な「足利義政」は、手も足も出さずに、「義政」はせっせと私財を売って資金を集め「銀閣」を建造し、そこへ隠棲しました。(銀閣の完成前に死にましたが)

東西両軍30万人にもおよぶ、内乱が京都の地を中心に11年にもわたって始まりました。京の都のほとんど(特に北の方)は焼け野原となり、貴重な寺社仏閣や仏像も焼失しました。

「応仁の乱、合戦図」

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全く、最悪な内乱でした。

この元凶は「日野富子」と政治に一切関心を持たず、ノー天気に「東山文化」の「足利義政」です。実に、この混乱から逃避した「足利義政」にあると言っても過言ではないでしょう。(超無責任男)

しかし、東西両軍の旗頭の「山名宗全」と「細川勝元」も病死して、他の「守護大名」も、この内乱の目標を失い、焼け野原となった京を去り、ようやく戦乱は収まりました。(後に残った、京の町は焼け野原です)

しかし、この戦乱で「室町幕府」の権威は地に落ち、「群雄割拠」「下剋上」の戦国時代が、全国に拡がりました。

結論:この応仁の乱で残った物、京の町の、貴重な「寺社仏閣」や「仏像・仏画」などの炭や灰だけです。いかに馬鹿げた、戦乱かと分かります。

機会があれば、まだまだ、その後、京の町が悲惨な目に逢う、宝永5年(1708年)の「宝永の大火」、天明8年(1788年)の「天明の大火」や「蛤門の変」(禁門の変)、「鳥羽伏見の戦い」も有りました。

結局、戦争の後には何も残りません。(死骸の山と、焼け跡だけです)

※一部誤字が有りました平成25.8.18