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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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現実にないものも

2018-12-25 08:08:41 | 日記

2018年12月25日(火)

 「今年は松尾和男先生がお亡くなりになったこともあり、中学の頃のことをふと思い出すことが時々あります。現実にないことも心の中では見ることができます。」

 ✔ 本当に今年は significant others の中から物故者が続いた。そのことが一つ。

 ✔ 名古屋市立汐路中学校昭和46年度3年B組というのが、ちょっとあり得ないクラスだった。そのことで二つ。

 ✔ 松尾和男先生という恩師の人柄と人生が、時代背景の中でまた稀有のものである。これにて三つ。

 いずれ別に記すとして、まずは便りの主の心根に深く敬意を表する。喪中挨拶を送ったのを受けて、「さぞ寂しくお思いかと拝察、賀状代わりにせめてクリスマスカードを」とある。中学校時代に特に親しかったというわけでもない。頭のいい子だったのは間違いないが、あのクラスにはすさまじく頭のいい子たちがゴロゴロいた ~ 「頭がいい」というのは世間の用法と少し違って、ある程度の学力を前提とはするけれども、決してそれだけで完結しない本質的な明敏さのことである。

 彼女のお家は雑貨屋さんか何かで、通りすがりに覗くと二階から降りてくるエプロン姿の前ポケットで、小銭がじゃらじゃら音を立てたりした。親御さんの不在時には娘たちが店番していたのである。確か三人娘、この子は二番目だったろうか、後に首都圏の名門大学を出て名古屋に戻り、英語の先生になった。それをこちらは遠巻きに見ていただけだったが。

 同窓会の交わりというものも、過去の追憶の共有だけで成立しているのではない。それなら死んだ関係である。共通の記憶を素材に、盛り込み発展させていく関わりが二日目のカレーのように美味しく、日ごとに美味を増すこともあるだろう。

 「現実にないことも心の中では見ることができます。」

 ああそうだ、そうだった。「大事なものは目には見えない」は、星の王子様に贈るキツネの金言。その裏格言である。これには連想があるが、後は通勤の道々続けよう。

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年の瀬のミルクワンタン

2018-12-18 23:31:48 | 日記

2018年12月17日(月)

 夜はO君と有楽町でミルクワンタン、だいたい三か月に一回のペースか。京浜東北線がまたぞろ遅延で電車内からメールを送る。幸い10分ほどの遅れで到着したら、店内はO君一人でスープの小鉢を空けたところである。

 「さぁ、これで」とおやじさんがビールを運んできた。

 「怒られちゃってさ」とO君。連れが遅れるようだから、ビールを始めてますと言ったら、おかみさんに制されたという。

 「乾杯は一緒にするんでしょ、少しぐらい待ってなさい。あったまるスープ出したげるから。」

 ビールを始めてからも、O君しきりに「怒られちゃった」と繰り返す。嬉しいのである。O君の御母堂は、彼の就職した直後に50代で他界された。もっともっと叱られたかったことだろう。

 60代に入ってから、酒は飲みたい相手と飲みたい時だけに決めた。九月に母を送ってからはますますその気もちが強くなり、先週末の義理飯はミネラル・ウォーターで流し込んだ。もともと弱い酒がいよいよ弱くなっていくのに、今夜は不思議に酔いも感じず、宮崎産の芋焼酎がお湯割りでスイスイ減っていく。結局二人で一本空けた。

 森林文化協会の来年のカレンダーをお土産にもらった。テーマは橅(ぶな)、ゴツいできばえである。カレンダーの作り手は京都のイセトーという会社、蘊蓄に富んだメッセージを抜粋転載させていただく。

***

2019 橅

人間の身勝手、ブナの称揚

株式会社 イセトー

 イセトーは毎年、ひとつの樹をテーマにした力レンダーをつくってまいりました。

 2019年のテーマ木は、ブナです。漢字なら撫、または掏、あるいは山毛櫸と書きます。

 撫が一般的ですが、山毛櫸という3文字も、なんとなく姿がいい。井伏鱒二に『十二本の山毛欅』という未完の長編小説が あります。文豪もカッコよさに惹かれたのかもしれません。

 「人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が世界最大級の規模で分布している」。1993年、青森、秋田両県にひろがる白神山地は、そうした理由で、日本で初めての世界自然遺産に(屋久島と並んで)登録されました。登録後は原状のまま 保護されることになっているため、その中心部はいまだにほとんど道がなぐ踏破するには高度な技術を必要とするそうです。

 日本では古くから、たぶん平安時代から、日常使う飯椀や汁椀は木で作られました。その作り手は木地師と呼ばれます。 各地の山を移動しながら、ろくろで挽き、かんなで削って食器やお盆を作っていました。たまると、彼らは里に下りておカネや食べ物に換え、また山に戻る。材料はどこの山でも手に入るブナでした。

 ***

 明治維新をさかいに、木地師の伝統は廃れていきます。ブナ材はねじれやすく、柔らかい。使い勝手はあまりよくありません。薪くらいにしかならない、役に立たない木として、やがて大量に伐採排除され、スギやヒノキといった建築材に利用される 樹種の苗木が植えられました。

 高山の少ない西日本では、こうして、規模の大きなブナの森、林はほとんど姿を消しました。林野関係者のあいだでは 「ブナ退治」などという物騒な言葉も使われました。

 名誉が回復されたのは昭和も30年代になってからです。まず水源を守る森としての価値が再発見されました。乾燥や加工などの技術も進んで、木材としての利用もひろがりました。ねじれやすい性質を使って曲げを強調した家具や合板、フローリング、盆、膳、靴の木型、運動具、玩具、ピアノの部材、その他もろもろ。

 うんと変わったところではパチンコ台の裏板があります。化粧板の裏に、たいていブナ合板が使われているのです。真鍮の釘の保持力がよく、なにより玉の走る音が、ほかのどんな板よりも軽快に響くのだそうです。

 ***

 人間って、勝手ですね。自分の都合で「利用できる」と思えば重用するし、「できない」となると無残に伐り倒してしまう。

 ブナの姿勢は変わりません。いつも悠揚迫らず、屹立している。たとえば「白神のシンボル」と呼ばれる大樹は樹高26メートル、幹周り4メートル85センチ、推定樹齢は400年。ブナの寿命はおおよそ200年といわれるから、たいへんな長寿です。

 ブナのほうが、どうも人間より偉大なようです。謙虚であれと、ブナは教えているのかもしれません。

 新しい年。なにより健康でお過ごしください。2019年がみなさまにとって、より良い1年になりますように。

(北海道北斗市・木地挽山)

Message 栗田亘、Photo 野呂希一

株式会社イセトー: 安政二年(1855年)伊勢藤商店として京都で創業。http://www.iseto.co.jp

Ω

 

 


長い目で見れば

2018-12-17 15:38:15 | 日記

2018年12月17日(月)

 朝刊、社会面から。

 「長い目で見れば、いずれ米軍はいなくなります。自衛隊が引き継いだときに、今のような反発を招いた基地で本当にいいのでしょうか。」

 語っているのは元・米軍属それも海兵隊スタッフである。さらに「安倍政権を評価する立場」であり、「日米同盟は当然、強く支持」するという、その人物の発言であることに留意。

 発言を励起しているのは、政策の方向性とはまったく別の軸から生じる疑問で、軍事といえども/軍事なればこそ、民主主義の俎上で調理されねばならないということである。いかにも米国人らしい。

 もうひとつ、「長い目で見れば」とあることについて。「長い」とはどれほどの長さか、そこが大いに問題ではあるけれど、それでも「いずれ必ずいなくなる」と考えるか、「そんな先のことを考えても意味がない」と考えるかは、世界観を両極に分かつほどの転轍点である。

 アメリカ滞在中、日本の歴史の長さを賞讃され羨望されることがよくあった。素直に喜べなかったのは、それらがありきたりの外交辞令だったからではない。歴史の短さ・国の新しさを自覚するがゆえに懸命に歴史的自覚を模索する彼らのひたむきに対し、歴史の長さ・伝統文化の豊かさにあぐらをかいて「長い目」をもとうとしない我らが怠慢(あるいは傲慢)を、その都度自覚させられたからである。

 この違いは現在のものであり、従って未来のあり方に時々刻々、影響を与えずにおかない。歴史的展望をもたなくては、先の見えるはずがない。なお引用文中で、靴紐の譬えが秀逸だ。

【記事抜粋】

 来日して10年以上、日米の政治外交の研究を重ねた後、2009年から15年まで沖縄の海兵隊で働きました。地域住民とのパイプ役として基地の実情を話したり、時には、米軍関係者が起こした事件事故に対応することもありました。

  私は安倍政権を評価する立場ですし、日米同盟は当然、強く支持しています。それだけに辺野古への土砂投入は、非常に残念です。いったん砂を入れてしまえば、なかなか取り出せない。日米関係における「悲劇」だと思います。

  海兵隊も辺野古移設を望んでいるわけではありません。移設後の基地は、普天間飛行場よりも滑走路が短く、有事に動く主力の軍用機が離着陸できない。普天間のように高台にもないから津波にも弱い。

  日本の方々には今も、米国に占領されているような意識があると思います。私は即時、沖縄にあるすべての基地を自衛隊の管理下に置き、日米の共同使用にすべきだと思います。基地の中で何をしているのかが今は県民に見えませんが、自衛隊管理となれば透明性が高まります。

  長い目で見れば、いずれ米軍はいなくなります。自衛隊が引き継いだときに、今のような反発を招いた基地で本当にいいのでしょうか。国民のお金を使い、使えない施設を造る。これは、政治・行政の大きな失敗といえます。

  辺野古では、警察や警備会社の方々が大変な苦労をされて、反対している人たちを排除しています。そこまでしないといけないのは、日本政府が説明責任を果たしていないからです。

  一方の米国務省や国防総省は、ある時期までは日本政府よりも沖縄を知っていました。でも、繰り返し日本と米軍再編に合意したこともあって、いまは極めて無関心。「あくまで日本の問題」という立場です。

  ただ、その再編協議自体は、強引なものでした。

  沖縄問題が靴ひもの結び目であるとしましょう。日米政府の関係者が「基地問題」と書かれた靴ひもを無理やり引っ張って、結び目が固くなってしまったのが、いまの状態です。丁寧にやれば、きれいにほどけるはずでした。沖縄問題はお金では解決できない。「哲学」が必要です。

  県民投票が来年2月に予定されていますが、県民投票は、民主主義を実践する最大の手法です。私の知人に多い保守系の方々には、実施に反対したり、ボイコットしたりする動きがありますが、辺野古への移設に本当に賛成であれば、その立場から大いに参加すればいいと呼びかけています。

  住民投票には法的拘束力はありませんし、権力者は住民投票を軽んじたい。ただ、日米同盟は結局のところ、権力者の意向ではなく、両国民の理解と支持に支えられているのです。

 正しく実施されれば、住民投票ほど正確なものはありません。県民が本当にどう考えているのかを知る、非常に良い機会です。

 民主主義を大切にする本来の米国ならば、結果は真剣に受け止めるでしょう。

 (聞き手・成沢解語)

     

 ロバート・D・エルドリッヂ(50)

 元米海兵隊政務外交部次長。大阪大大学院准教授や米海兵隊太平洋基地政務外交部次長を歴任。主著に「沖縄問題の起源」。「正論」など保守系論壇に多く登場している。

Ω


ヨハネ命名

2018-12-17 09:00:00 | 日記

2018年12月16日(日)

 待降節第三週。教会の中高生クラスは何にタマゲたのか、朝から日頃の倍以上の生徒が詰めかけ椅子が足りない騒ぎである。エリアの某ミッション校が「何か」を課したのと、クリスマスに備えてハンドベル(の代わりのトーンチャイム)練習があるため、だったらしい。

 ともかく「先週の続きで・・・」というのは大半通じそうもなく、これ幸いにマリアとエリザベトの語らいの場面をふりかえってみる。聞き手は1名の例外を除いて全員10代の女子。彼女らといくつも違わない(あるいはまったく同年代の?)マリア、その母あるいは祖母に近い年齢のエリザベト、ともに思いがけず胎に子を宿した遠縁老若の女二人が、たがいに労(ねぎら)い寿(ことほ)ぐ美しい場面である。「その胎内の子がおどった」(ルカ 1:41)に少しの誇張もなく、部屋の戸を閉める音にすら鋭敏に反応する胎児が、母の昂揚に正しく同調したに違いない。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(同 1:45)

 微笑みを呼ぶ聖書の筆致が、ここにも仕掛けられている。主の言葉が実現するとはとても信じられず、おかげでとんだ災難を被った者が言外に対置されているのだ。他ならぬエリザベトの夫ザカリヤ、彼こそ今朝の主人公である。

***

 ルカの福音書はザカリヤの物語から始まる。マタイが例の長い系図から始めるのと対照的、マタイが歴史から個人へ降りていくのに対し、ルカは個人から歴史へ舞い上がっていく。

 ザカリヤは祭司であったが、この年「主の聖所に入って香をたく」という重い役があたった。註解書によれば当時パレスチナに総べて18,000人の祭司があり、24の組に分かれて聖務を遂行したという。各組750人の計算である。「アビヤの組」が時の当番、その中でさらに籤を引いてザカリヤが指名された。単純な「くじ」に神意が示されるとの思想は旧約以来くりかえし表れている。

 まさに宝(の)くじを引き当てたザカリヤだが、これ真に大役である。ただひとり至聖所に入って香を焚き、そこで示された神の言葉を民に告げるのだ。神託がイスラエルの命運を左右するともなれば、共同体全体の存亡に関わる重大使命と言える。

 果たしてザカリヤの前に御使いが現れた。当然の反応として不安・恐怖に襲われるザカリヤに御使いが何を告げたか、

 「あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(同 1:13)

 は?

 ザカリヤの混乱や思うべし。彼は公務で至聖所にいる。よもや自身の家庭がテーマになるとは予想の端にもなかったであろう。まして彼は老齢、妻も老齢、「不妊の女、子のない夫婦」という古代社会では最大級のスティグマを覆すべく祈り祈った年月の末、ついに諦め運命を甘受するに至ったこの時この場で、その話ですか?しかも、老妻がいまさら受胎?

 「御使い様、悪い御冗談を、ぜんたいそれは無理と申すもの、そもそも何を根拠に・・・」(同 1:18 意訳)

 震えながら四の五の言うザカリヤがもっともというもので、酷似した反応はイサクの誕生を予告されたアブラハムとサラの夫婦に前例がある(創世記 18章)。99歳のサラは御使いの言葉を聞いてひそかに笑い、「なんで笑うの?」「笑ってません」「いいや、笑った」と押し問答の末、生まれた男子がイサク(笑い)と名づけられることになった。

 どうも聖書に登場する御使いは、しかつめらしい外見の下でユーモアを含まずには任務を遂行できない生まれつきのようである。ガブリエル、この度はザカリヤの口を封じた。

 「あなたは口がきけなくなり、この事の起きる日まで話すことができなくなる。時が来れば必ず実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(同 1:20)

 「つべこべ逆らうこの口は、チャックしちゃうよ」というわけで、子どもの減らず口を業を煮やしてセロテープで封印した、どこかの母親を思い出す(親子のじゃれ合いであって虐待ではないことを急ぎ付け加えておく)。セロテープならすぐ剥がせるが天使の封印はそうはいかない。

 それからエリザベトの懐妊が明らかになり、妊娠が進行して臨月を迎え、ついに男子が誕生するまでの一年近く、ザカリヤの胸中はどうであったか。口をきくことのできないつらさもどかしさとともに、黙って見守る時間の切ない豊かさをも満喫したに違いない。無言の行の恵みである。

 「語る前に、まず満ち溢れねばならない」 ~ Also sprach Zarathustra

 満を持してあふれ出したザカリヤの預言が 67-79 節に開花する。それに先立ち命名のこと。当時のイスラエルでは子の命名に厳格なルールがあった。そのほうが人類史上の標準形であることは、日本各地の例でも分かるし最近までの(現在でも?)韓国人の命名習慣からも知られる。

 しかし男子の奇跡的な誕生を現実に体験した今、夫婦はガブリエルの命を奉じて揺らがない。

 「この子の名はヨハネ」(同 1:63)

 「ヨハネ」は「主、恵み給えり」の意とある。「恵みを与えられるだろう」ではない「与えられた」である。「約束されたことは、既に実現したのと同じ」という絶対の信頼が、この名に託されている。

Bartolomé Esteban Murillo, "The Birth of St. John the Baptist" (1655年頃)

(https://blogs.yahoo.co.jp/htanakaakanath/12096435.html より拝借)

Ω


野菜の名前の正解一覧 /「野暮用」談義

2018-12-16 12:47:37 | 日記

 2018年12月15日(土)

 忘れていた。

① 胡瓜(きゅうり)

② 冬瓜(とうがん)

③ 独活(うど)

④ 蒟蒻(こんにゃく)

⑤ 玉蜀黍(とうもろこし) 

⑥ 蚕豆(そらまめ)  

⑦ 衣被(きぬかつぎ) △ ・・・ 読むとしたら「きぬかずき(=きぬかつぎ)」かとは思ったが、この言葉を知らなかった。

⑧ 湿地(しめじ)   △ ・・・ まさかそんな・・・

⑨ 分葱(わけぎ)

⑩ 大蒜(にんにく)  × ・・・ 大好きなニンニクをこう書くのだと知らなかった。あな恥ずかしや。

⑪ 糸瓜(へちま)

⑫ 干瓢(かんぴょう)

⑬ 青梗菜(ちんげんさい)

⑭ 浅葱(あさつき、あさぎ)

⑮ 南瓜(かぼちゃ)

【補注】衣被(きぬかつぎ)、分かってみればこの形でよく食べている。家では単に「(里芋の)小芋」と呼んでいた。

きぬかつぎ(衣被ぎ)

https://cookpad.com/recipe/2119273

 ところで、「野暮用」って何のことだったっけ?

 ①  遊びや趣味など粋なことではなく、実務上の、または日常的な用事。

 ②  取り立てて言うほどでもない、つまらない用事。男性が外出の目的をあいまいに答える場面で用いる。

(weblio経由、『大辞林』より)

 ことさら「男性が」とあるのは、もともと「野暮」という言葉が「粋」の反意語、つまり「遊里の事情に疎い」といった意味をもったからだ。むろん、今どきは女性が使って少しも構わないだろう。

 先日ある場面で、若者が「野暮用」と言いおいて出かけることがあり、実はデートをそのようにゴマかしたらしいのが、用法として適切かどうか議論になった。どっちみちゴマかす文脈ならどうでもよかろうという大勢の中で、問題は言葉そのものより使う人間のほうである、粋の分かる人間が『ちょいと野暮用』と外してみせるから意味を為すのであって、もともと野暮な人間が『野暮用』と言ったところで修辞としての意味も効果もない、ただの「用」であり気の利かないウソに過ぎぬだろうがと、吐き捨てるように論難した者のあったのが可笑しかった。

 相手の野暮を日頃よほど腹に据えかねてか、それこそ野暮な話である。まあまあどうぞ、衣被でもめしあがれ。

Ω