散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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早口言葉

2016-09-21 07:20:35 | 日記

2016年9月21日(水)

 「こうしょく・・・高速増殖炉もんじゅの廃炉について、国は・・・」

 ラジオのアナウンサーに一瞬の魔、お察しします。

Ω


箴言 16:32 ~ 怒りを遅くする者は勇士にまさり

2016-09-21 05:58:41 | 日記

2016年9月21日(水)

怒りを遅くする者は勇士(ますらを)に愈(まさ)り、おのれの心を治むる者は城を攻取る者に愈る。(文語訳)

怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。(口語訳)

怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(新改訳)

忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(新共同訳)

 ・・・箴言 16:32の日本語訳である。前三者はよく一致している。往時の城郭都市においては城と町とはほぼ同義だから、それを念頭に置いて城とも町とも言ったらよい。いっぽう、「怒りを遅くする」ことと「忍耐」とはぴったり同じではない。「自分の心を治める」ことと「自制」もまた、完全に同義ではない。下記の原文をたどたどしく辿ってみるに、残念ながら新共同訳の工夫が成功しているとは考えにくい。「おのれの/自分の」はわかっていることなので省いてみたい。見ればヘブル語原文にも「おのれの」にあたる言葉が見当たらず、その方が良い。「心」と訳されるルーアッハはギリシア語なら πνευμα すなわち神の息で、"wind, breath, mind, spirit" などと英訳されるもの、創造の初めに大いなる水の上をただよっていた「霊」のことである。「霊を治める」はちょっとやり過ぎか、「魂を治める」ならどうだろうか。

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、魂を治める者は城を攻め取る者にまさる。」(石丸版)

 勇士たれ、心を治めよ・・・以下は原文と英訳である。並べて一行に書きたいのだけれど、左←右問題が絡むためかどうもうまくいかない。

***

 לב  טוֹב אֶרֶךְ אַפַּיִם, מִגִּבּוֹר;    וּמֹשֵׁל בְּרוּחוֹ, מִלֹּכֵד עִיר.

32 He that is slow to anger is better than the mighty; and he that ruleth his spirit than he that taketh a city.

טוֹב better 

אֶרֶךְ who is slow

אַפַּיִם anger

מִגִּבּוֹר mighty

וּמֹשֵׁל rules

בְּרוּחוֹ spirit

מִלֹּכֵד captures

עִיר city

Ω


ヤコブ問題、ドイツ語の場合

2016-09-20 08:03:16 | 日記

2016年9月20日(火)

 新約のヤコブは「ヨーロッパ諸言語でさまざまに化けている」などと大層なことを書いて、実はいくつも知りはしないのである。気になってドイツ語を確かめてみたら、これはほとんど化けていない。創世記の族長ヤコブは Jakob、新約の使徒ヤコブは Jakobusである。ギリシア語の中で前者は語尾変化なしの Ιακωβ、後者は通常通り語尾変化付きの Ιακωβος だから、ドイツ語の場合は原形を非常によく留めているといえる。

 これにはたぶん、ゲルマン文化圏とキリスト教徒の接触がラテン文化圏と比べてかなり遅れたこと、それにギリシア語との類似性が大きいラテン諸語(イタリア語・スペイン語・フランス語)に比べてドイツ語が文法的にもやや遠いことが関係している・・・のではないかしら。使徒ヤコブ Ιακωβος の名を早くから霊名として自身の生活に取り込んだラテン諸語では、それぞれの言語の歴史的発展の中でヤコブの発音や表記もそれぞれに変わっていった。いっぽうドイツ語は、受け取ったまんまの状態に近いものを残している。

 同様のことは他の使徒名にもあって、たとえばヨハネ Ιωαννης はJohn(英)、Jean(仏)、Juan(西)、Giovanni(伊)などと変化したが、ドイツ語ではJohann(ヨハン)で、綴りも発音もギリシア語にかなり近いのである。時間的にも空間的にも隔たりの大きなところで、かえって原型がよく残される。 Ιωαννης を「ヨハネ」と呼ぶ日本語もその好例に違いないが、表記についてはアルファベットとまったく別の体系なのでこれは致し方ない。

 ついでながら、ギリシア語では名詞(固有名詞を含む)語尾の格変化を起こすのに対し、ラテン諸語はこれをさっぱり捨ててしまった。かえってドイツ語の方に、名詞そのものではないがその「ラベル」にあたる冠詞に格変化が存在している・・・これはまた、別の話ですね。

Ω

 


文化祭見物の総しあげ

2016-09-19 18:57:08 | 日記

2016年9月19日(月)

 子どもの頃から人混みが苦手で、お祭りや花火大会の楽しさは分からないではないものの、雑踏・喧噪の与える不快の方が常に負担だった。20代から40代までは好奇心や昂揚感が勝っていたのか、一時的にあまり気にならなくなっていたが、最近あらためて人混みへの嫌悪感が強い。物理的な空気の悪さや蒸し暑さに対する認容度も落ちたのに加え、コンサートに行けば演奏中に私語しているとか、混み合った講演会場では椅子を後ろから揺すられるとか、その種の不快感への耐性が確実に低下している。これが僕の加齢の形であるらしい。

 出歩かなくても他人に迷惑をかけるわけではないので、近頃はすっかり居直って出不精を決め込んでいたが、三男の高校最後の文化祭、ということは息子たちの学校行事のいよいよ締めくくりということで、葛藤の末に出かけていった。結果、ひょっとすると人生の転機(この期に及んで、まだ転換の余地があるとすれば)になるかもしれないような半日を経験した。

 高校生たちの演劇を二題見物。いずれも素晴らしいもので、後生は実に恐るべし仰天瞠目である。『ユタと不思議な仲間たち』、原作が三浦哲郎氏の小説であったことを初めて知った。もっと早く読んで良いはずだった。三浦氏は八戸の出身で、作品に生かされた東北訛りを東京の高校生たちがかなり良くこなしている。NHKドラマの方言などより数段上と請け合えるのは、僕自身が山形で一年を過ごしたからだ。

 むろん青森と山形では東北訛りといっても相当の開きがある。それでも共通の表現はあるものと見えて、座敷童の一団に頭目が「いぐべあ!(行こうぜ)」と声をかける場面、思わず「でかした」と心中で叫んだ。「いぐべあ!」と何度呼び交わしたことだろう、実に懐かしい。いっぽう「わだ、わだ、あげろじゃ、ががい」は物語の中で繰り返される座敷童たちのシュプレヒコール、さしあたり意味不明・理解不能である。しかし言葉とは面白いもので、いったん解説され実は現代「標準語」とわずかに隔たるものでしかないと知り、要するに意味がわかったとたんに「剣で胸を刺し貫かれる」(ルカ 2:35)思いなしには聞けなくなる。

 ことに驚いたのは出演者たちが一様に歌・踊り・立ち回りの見事なことで、入試に演劇実技があるわけでもない公立高校の一クラスが、よくこれをダブルキャストで提供できたものだ。照明や大道具・小道具はじめ裏方もしっかり仕事をしている。開演前に目に止まった、舞台の隅の稲穂の写真を載せておこう。

 

 もう一つは『ダブリンの鐘つきカビ人間』、これは『ノートルダムのせむし男』のファンタスティックな翻案というのだろうか。このクラスの完成度の高さにも驚いた。とりわけ僕が見た回に主演したY君、大きな体、長い手足、あどけない顔立ち、高めの声、それらを100%生かして対象になりきり、最初から最後まで観衆を魅了した。カビ人間の純真とせつなさを伝える点に絞れば、プロの俳優にも遜色ないと思われる。

 もうひとり、この物語で最大の悪役 ~ というより、僕ら自身のつくり出す衆愚と俗悪の象徴ともいえる「神父」役の演技も見事。いつも思うことだが、敵役がショボいとドラマ全体がダメになる。『ベニスの商人』の蔭の主役はシャイロックというわけで、背格好がY君によく似ていながら低い声・太い眉の対照もよろしく、ウィットのきいた弾丸トークを滑舌よくこなしつつ、「神父」君またヒールの役どころを見事に演じてのけた。

 『ユタ』と違ってこちらは相当笑ったが、演劇では本質的に大事なポイントである。

 まったく、若い連中は隅になど置いたものではない。問題はこの才能と資質を生かす準備が、社会の側にあるかということだ。

 

 ここまでが good news、これだけでは済まなかったが bad news はここには書かない。bad と言ってもまた別の意味で若い者の強さ賢さを知るところがあり、終わってみれば恵まれた一日だった。ただ、自分がこの先まだ歩みを続けるつもりなら、大きく変わらなければならないことを痛感する。人生のこの期に及んで変わるなどということができるかどうか分からないし、したければ自分でするよりない。ユタが座敷童に、カビ人間がおサエに支えられたように、見えない力の助けは必ずあるとしたものだが、それを生かすも死なすも自分次第である。

 道の途中で某国大使館の門に見た意匠、鷲が蛇をしっかり捕らえて実にカッコいい。本日の天啓らしいが、怒りという名の蛇をどうしたらこんなふうに制御できるだろうか。

 

Ω


「もてなす・つかえる」「みんなを・ひとりひとりを」 / ジャコバンの名の由来

2016-09-18 20:27:26 | 日記

2016年9月18日(日)

 M先生は随所に原語解説を交えてくださるのが、僕などには嬉しい。

 ペトロの姑(つまりペトロは妻帯者だったのだ)が熱性疾患で床についているのをイエスが癒やす。「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」(マタイ8:15)とある部分、「もてなす」は「つかえる」とも訳せる言葉であると。"και διηκονει αυτω." がその部分で、διηκονει は διακονεω の未完了過去なのだ。deacon(奉仕者・執事)の語源である διάκονος はその名詞形にあたる。未完了過去は一回の動作ではなく継続・反復を意味し、さしあたりしゅうとめさんは主を「もてなしはじめた」とするのが作法らしい。「もてなす」ならそれでよいだろうが、「仕える」とするならむしろ「その時以降、主に仕え続けた」とするのが自然な気がする。

 ところでこの記事には並行箇所が二つある(マルコ 1:31、ルカ 4:39)。比べてみると微妙ながら見逃せない違いがあり、マルコとルカでは「イエスを」ではなく「一同を」もてなしたとされるのだ。動詞はいずれも διηκονει だが、奴隷でもないのに「一同に仕える」は妙だから、これは「もてなす」とする他ない。さてはマタイ先生、やりましたね。共観福音書三者の関係は、最古のマルコが資料の原型を保存し、マタイとルカがマルコに依拠しつつ特殊資料を加味してそれぞれのテクストを編み上げたとされる。マルコが「一同をもてなした」とあるのをルカはそのまま採用し、マタイが「イエスを」に変更して「仕える」と読む余地を生み出したものと思われる。

 もうひとつは「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」(マタイ 8:16)とあるところ。「皆」とあるところに差異がある。

マルコ 1:34 「大勢の人たちをいやした」 εθεραπευσεν πολλους κακως εχοντας

マタイ 8:16 「病人を皆いやされた」 παντας τους κακως εχοντας εθεραπευσεν

ルカ 4:40 「その一人一人に手を置いていやされた」 ενι εκαστω αυτων τας χειρας επιτιθεις εθεραπυσεν αυτους

 ενι εκαστω が「一人一人に」と訳される箇所である。そういえば主の祈りの言葉について、マタイが「わたしたちに必要な糧を今日 σημερον 与えてください」(6:11)とするところ、ルカは「わたしたちに必要な糧を毎日 κατ' ημεραν 与えてください」(11:3)とする。「毎日」は「一日一日」のこととすれば、一つ一つの個別単位を大事にするのがルカの筆法らしい。医師であったことと関連する姿勢でもあるだろうか。

***

 これはまた別の話で「ふと思ったんだけど」と次男、「ジャコバン派のジャコバンって、ヤコブと関係あるのかな」字面を見ていてそう思ったのだそうだ。

 フランス大革命時の急進派がジャコバンなんだから、まさか教会関係でもあるまいと思ったが、そのまさかが正解らしい。パリのジャコバン修道院に集ったグループをジャコバン・クラブと称し、当初は革命勢力のゆるやかな連合体だった。そこから立憲王制派のフイヤン Feuillant、穏健共和派のジロンド Girondins が脱退し、当初は山岳派 Montagnards と呼ばれた急進共和派が残った結果、ジャコバン=急進派の図式ができたのである。(ジャコバン・クラブ脱退後の立憲王制派はフイヤン修道院を根拠としたのでフイヤン派と呼ぶ。この種のグループが集まる場所として、好んで修道院が選ばれたのが面白い。)ジャコバン修道院のジャコバンは Jacobin つまりまさしく Jacob の名を冠した修道院だったのだ。

 なお、この場合のヤコブは旧約聖書のヤコブであって、新約の使徒ヤコブではない。これはブログには書かなかっただろうか、ギリシア語の活用の問題などから新約のヤコブはヨーロッパ諸言語でさまざまに化けている。スペイン語は Iago(チリの首都名などに見られるサンチャゴは聖イアーゴ)、英語では James がこれにあたる。アメリカ滞在中にうっかり「使徒 Jacob」と言ったら「James のことね」と直され、ほんとはこっちが正しいのにと思っていた。フランス語では Jacque (ジャック)が新約のヤコブで、Jacob と綴られる場合は旧約のヤコブなのだ。

 何はともあれ御賢察、おかげでひとつ勉強した。

Ω