2016年9月6日(火)
ある問題について職場のエライ人たちと協議することがあり、そこで思いがけない意見の食い違いが表面化して難渋した。結構ストレスフルなやりとりになったが、おかげで思いがけない発見をした。
医療の世界ではパターナリズム(父権主義)から、インフォームド・コンセントに象徴される自己決定主義への移行が年々進みつつある。それが現実にどれほど実現されているかはさておき、現代において公然とパターナリズムを擁護することは既に困難だし、自己決定もインフォームド・コンセントという消極型では不十分で、shared decision maiking の積極型へ踏み込むべしとの主張や実践も出てきている。
教育理論について僕は素人に近く、体験的に身につけた我流の思いしかもたないが、それでも類推できることがある。医療において「タテ」から「ヨコ」への変化がこれほど明瞭である時代に、教育において「パターナリズム」がそのまま通用しているはずがない。人間関係から見た場合の医療と教育の相似性(むしろ相同性?)ということもあるが、とりわけ欧米文化の中でこれほど重要なパラダイム転換が、あっちとこっちバラバラに起きるはずがないからである。医療同様に教育においても、実践の困難さや現場への浸透度はさておき、理念においてパターナリズムを公然と主張することは、この時代にできないはずだ。そういう直観にもとづいて論陣を張った。
帰宅して次男に確認したところ、僕の主張のこの点に概ね誤りはなかったようである。「教員には学生よりも高いレベルのモラルが要求される」という言明をどう見てどう運用するか、よく考えればこれはそれほど美しいことでもなければ、正しいことでもない。何よりも、現実の学生のモラルや能力を低く見積もるのでなければ、決して出てこない主張である。
そのことよりも、ふと思いついたのは西欧(?)文化の中で哲学が負ってきた役割についてである。医療や教育はスクリューの羽根のようなもので、だからこそこっち側の羽根とあっち側の羽根が連動しないはずはないというのが、僕のイメージだった。いっぽう、スクリューのシャフトにあたるのが「哲学」であったのではないか。西欧史の中で哲学者があれほど重視されるのはそういう構造があるからで、シャフトが更新されれば羽根の動きも一斉に同期する。パターナリズムから双方向性への移行が哲学というシャフトのレベルで確立されていれば、医療と教育において問題を個別に論じる必要はなく、哲学を参照すれば済むことである。
それが成立しなくなったのが20世紀の困難であったかも知れないが、しかし長年の伝統が身に染みつくということがある。そこが僕ら日本人には欠けているのではあるまいか。今日書けるのはここまでである。
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