散日拾遺

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読書メモ: 電気は誰のものか ~ 電気の事件史

2016-09-04 07:01:18 | 日記

2016年9月4日(日)

 前にも少し触れたが、面白くて考えさせられる本である。これほど重要な切り口について、これまでまったく無知であったことにも一驚する。無知であったという意味が微妙で、たとえば「電気に関して窃盗が成立するかどうか」という明治期の(?)判例は法学畑では有名なもので、民法の講義で確かに聞いている。しかしその時は「電気が目に見えないから窃盗の対象であるモノとはいえない」という主張のマンガ的なおかしさだけに反応して、その背後に何があるかに気づいていなかった。米倉先生も残念ながら、そこまで触れてはくださらなかったのである。同じ流儀で僕らは大事な問題を見過ごしている。見過ごすところに「電気」の文明が(あえて文化がとは云わない)成立し、僕らは全面的にそこに浸りきっている。3.11の原発事故が覆したのはそういう現実であり、それが問うのはまさしく「電気は誰のものか」ということである。

 著者は本書ではあくまで事件史を綴るにとどめ、タイトルが示す問題を体系的に展開してはいない。もしも別の著書でそれをしているなら是非読みたいし、それが為されていないなら誰かにやってもらう/自分でやってみる必要がどうしてもある。キーワードは「公共性」であって、これはどうしても解きほぐさないといけない問題なのだ。

 後はさしあたり、付箋をつけた箇所の抜き書きである。

 

P.80 では、家々からランプを一個ずつ集めて、の入口近くに埋めて「ランプの墓」を造った。「この点灯した喜びと今日までお世話になったランプの音を永久に忘れないようにしたい」と、受益者の代表は喜びの中に語ったという。

(石丸注: 新美南吉『おじいさんのランプ』に描かれたのと正確に一対を為す風景である。『おじいさんのランプ』は「電気は誰のものか」に引用されていないのが不思議なぐらい、同根の問題に文学の方向から深く迫っている。やはり名作だ。こういうものが書けたらいい。)

P.89 だが家庭内が「衛生、安全、便利」になるのは、危険や汚れや手間が外で担われるからである。電化によって山本の言うように「煤煙深き都市が無煙の都市と変わる」なら、その負担は他のどこかがなんらかの形で負うことになる。家庭の電化とは、家庭をそのような社会経済のシステムに、より直接的に組み込んで常に接続しておくことでもあった。それは確かに新しい時代の始まりだった。

P.107 この騒動のように、水力発電の場合には「水から火をとりだす」ということが、たんに奇異というだけでなく、自然の理法に逆らう邪法という印象を与えていた。火と水とは、絶対に相容れない、対立するものの代表だったからだ。水は火を消すのが自然の理である。水から火が生ずるなどありえない。前近代においては、自然の法則と道徳とは一つのものだった。自然とは、あらゆる技術が到達すべき理想である。だから、この自然に反する技術は切支丹伴天連の妖術であり、有害なものに違いなかった。それが「水に毒を生ずる」という恐れにまで具体化されたのである。

(石丸注: 余談ながら、伴天連はポルトガル語の padre から来たんだそうだ。こんなことも知らなかった。)

P.114 子どもだけでなく、大人も電灯を生きているもののように感じていたのである。それを伊藤は行灯などの灯火、つまりは炎を見るときの感覚につながるものだったという。ならば、それまでの灯火の経験の長い大人こそ、電灯にもその観念をあてはめがちだったにちがいない。電球を吹いて消そうとしたりする「電気知らず」となるのは、炎の灯火の経験がそれだけ長く深いからだ。

(石丸注: 「電気は誰のものか」は「火は誰のものか」という問に遡ることができる。天上の火を盗んだプロメテウスがどのような業罰を受け、またどれほど人類に感謝されたか!)

P.134 先に引用した「実地に即した調査に基づく説得力のある弁明を行わず、ただ原則論だけを踏まえて、『漏電の事実なし』『電気は安全なり』の文句をヒステリックに声高に唱えている」という態度は、けっして「民衆の短絡した発想に対応するためには、こんな行き方もある程度やむをえなかったのかもしれない」とは言えなかったのではないだろうか。安全で衛生的だとばかりアピールした者たちは、それに反する負の面が現れたときに、その事実を否定することしかできなくなる。それはまさに今日の問題でもある。

P.137 電力企業は、つねに啓蒙者として社会に対するのだった。

P.143 「キタの大火」「ミナミの大火」・・・そのたびに大阪電灯は需要を伸ばしたので「大電の焼け太り」と言われたという。(岡本終吉『岩垂邦彦』『百年の大阪』第二巻)

P.162 この場合の「人道的」とは、その本来の暴力性を隠すことを意味している。殺したとは思えないような様子で、きれいに逝ってほしいのだ。「死刑の歴史はヒューマニズム的関心というよりはむしろ、処刑を執行する側が嫌な思いをせずにすむ必要性によってつき動かされてきた」のである。よりよく隠せる技術を求めて、手段は変化する。つまり手段はうわべの問題でしかない。本質的な議論は、隠された暴力性に向き合うことからしか生まれない。

P.167 洗濯機と同じように、電灯も、最初はほとんど誰もその必要を感じていなかった。技術や製品がまず登場し、それから需要を作り出していったのである。啓蒙的な広告を繰り返して、炎の灯火は電気の光に置き換えられていった。照明の価値は、おおむね明るさに還元され、炎の灯火が持っていたその他の要素は、不衛生や不便、そして危険につながる要素として否定された。(けれども)やがて電灯がすっかり普及すると、それなしには生活が成り立たないかのようになる。

P.180 同名家の議論を、「わかっていない素人」のいちゃもんだと軽んじているふうでもある。うっかりすると「そうか、実は安いのか」と納得させられそうだ。となれば、きちんとした数字を示して応戦せねばならない。連合会は、あくまで合理的な論戦による合法闘争をしようと考えていた。メンバーは、三割五分の値下げという要求の裏づけをいっそう確かに固めるため、さらに徹底的に資料を集めた。また法律的な見地からの戦術の指導を、弁護士の布施辰治に求めた。

P.189 安倍隆一編『富山電灯争議の真相』によれば、じつはこのときまでは、どの町でも全戸が同盟会に参加していたわけではなく、半数から三分の一というところだったという。ところが、断線消灯という電力会社の横暴によって、すべての町民が同盟会に参加し、ついに町民一致の行動をとるようになった。それで、家々の電灯だけでなく、街灯も、銀行、役場、会社などの電球も、すべて返還した。付近の村落にも同情から消灯をともにしたところがあった。それほどに人々を憤激させていたのだ。

P.201 電灯がなくなってからは、ランプや行灯が復活し、道行く人は提灯を下げて歩いた。同盟会の決議により、八月十三日からのお盆には、消灯祭を行い、角行灯やホオズキ提灯などを軒に並べて夜を飾ったという。電灯のない暗さを逆手にとって楽しみを作り出してもいたのである。

P.204 いま、電灯争議についてのまとまった研究はほとんど見当たらない。単著の研究書としては梅原の一冊だけではないかと思う。それも富山の電灯争議のみをあつかったものだ。日本中を吹き荒れた、ひとつの時代を象徴する争議と言ってもいいと思われるのだが、米騒動ほど広く知られてもいない。米騒動には膨大な資料や研究の蓄積がある。電灯争議が起こった時代は、小作争議や労働争議も膨大に起こっていたから、それらに比べて小さく評価されているのかもしれない。(しかし)電灯争議は他の争議と違い、横断的な組織による統轄をうけない、階層的にも幅広い人々の運動だった。今日でいえば消費者運動に近いだろう。一地域の人々が共闘した運動ではあったが、共同体が主体であったわけでもない。布施の言葉でいえば「街頭的結成」をした運動であった。それゆえに研究も薄いのかもしれない。しかし今日からみれば、だからこそ、もっとも研究されてしかるべき争議の姿ではないかという気がする。

P.217 (「皆に恵まれているはずの自然の力を略奪した少数者が、こともあろうに、略奪されている者たちに略奪した電気を供給するにあたって、驚くべき暴利を貪っているのだから、電灯料金徴収の残酷さは真に呆れてものが言えない」という当時の一農民の考えを受けて)布施は、この一農民の考えは、「恐らく電灯需要者大衆の総てが経験している実感そのままの考え方だと思います」と記しており、いささか驚いてしまう。今日、電気を生み出している自然は誰のものでもなく、その恵みはわれわれ皆のものだと、このように考える人が、それほどいるだろうか。ほとんどいないのではないだろうか。

(石丸注: ここに付箋をつけたのは、「いささか驚いてしまう」という著者の指摘に僕がいささか驚いたからである。この農民と完全に一致するわけではないが、いわば「本当なら」という注釈付きで僕自身の中に強く共鳴するものがある。それは今日、そんなにも「ほとんどいない」感懐なのだろうか。)

P.218 そして現代人の多くは、電灯争議にあまり共感できないのではないかとも思う。高すぎる料金の値下げを要求するのはわかるが、なぜそのために町が一斉に消灯したり、命がけになってまで運動するのか、弾圧があったからとか、社会主義的な理想をナイーブに奉じていたとか、昔の人は単純で熱くなりやすかったとか、そういうことで納得するのは、間違いだと思う。おそらく、自然観に基づいていた公共性の観念を、我々が失ってしまったために、わかりにくくなっているのだと思う。我々には、電気が自分たちのものであるべき「自然の恵み」だという観念は薄くなっている。「自然の恵み」を少数者が独占的に占有していることは今日いっそう深刻な事実になっているにもかかわらず、である。いや、そうなっているからこそ、なのだろうか。それは公共とか公益とかいった観念が、いつか、どこかで変容し、「自然」と無煙になったとういことを意味しているのだろう。

(石丸注: そのことだ。ここに全篇のカギがある。)

P.218 大正14(1925)年12月21日の昼下がり、鶴見町潮田には一触即発のピリピリした空気が張りつめていた。歳末大売り出しの幟が強い北西風にはためいていたが、ほとんどの店は閉まっていた。人通りも少ない。晴れているのに、民家もみな雨戸を閉めきっている。町が息をひそめて身構えているかのようだった。

(石丸注: この後はまさしくヤクザの出入りになる。僕の好きな鶴見川流域だが綱島からは10km近く下流の、河口近くにあたる。

P.267 ここはやや長めに書き抜く。若干の書き換えあり。

 新経済体制は、「公益優先」の体制である。赤穂村などの村営電気問題でも、電灯争議でも、人々は電気を「公益」のためにあるべきものとして、それを独占する企業を批判して闘った。その「公益」が優先されるというのだから、よいことのはずだ。

 だが、それぞれの地域の「公益」は吸い上げられて「国益」となる。公益を守ろうとする運動に身を投じた人々の熱い思いは、新体制運動という国策を下から支えるエネルギーに転じられた。革新官僚たちは、はっきりとそれを意図していた。民衆の正義感や公共心は、国家による管理、統制を強める動力に使われた。やがては「国益のためにみんなで我慢すべきだ」と、窮乏に耐え戦場で使い捨てられることになった。「国益」と「公益」との間には、あまりにも深い断絶がある。それはもしかしたら「自然」とのつながりの違いかも知れない。

 公益を収奪するしくみに対して異を唱えた数少ない人たちが、小林(一三)や松永(安左エ門)のような財界人だった。それも電力会社の経営者という、いわば民衆の敵とみなされていた人々であったことは、皮肉な逆転だ。この転倒はどこで起こるのだろうか。電気は誰のものかという問いは、そのあたりで行きまどい、たたずんでしまう。そこは赤尾村の村民はどうすればよかったのかという難問と同じ場所だ。

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