散日拾遺

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ベニバナ / 圧縮力・東歌 / 芭蕉さんの持病

2016-09-03 18:54:29 | 日記

2016年9月3日(土)

 「ねまる」という表現について、「猫が丸くなっているような」などと思いつきを書いたが、『菅菰抄』に面白い注が記されている。

 「按ずるに、ねまるといふ詞に二義あり。北国のねまるは、他国にて居ると云詞に当るべし。又関東にて、卑俗のことばに、寝はらばふ事を、打ねまると云。此句意を考えるに、翁の北国の詞を聞き給ふは、此行脚の時初なる故に、羽州のねまるを、関東のねまると同様に思ひあやまり給ふにや。」

 なるほどだが、芭蕉先生、承知で使ったということはないかしらん。「疲れた」ということを、中国など西の方では「えらい」と云い、東北では「こわい」という。現代でもこんなことを言葉遊びに使えそうだ。

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 西施の句は象潟、今は濁らず「きさかた」と記載されるが、芭蕉らは「きさがた」と読んでいる。松島と対比し、西施になぞらえるほどの景勝地だったようだが、その後の大地震で地盤が隆起し、すっかり景観が変わってしまったらしい。西施のことがあったので象潟まで飛んでしまったが、大事なところをいくつも過ぎている。「ねまる」の句が作られた尾花沢ではこんなのも詠まれた。

 まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花

 何とも艶めいて良い。ベニバナは山形の県花でもあり、名前としてはよく聞いているが、さてどんな花だったかなと見れば、これはキク科なんだそうだ。菊人形やら晩菊やら、キクは一族挙げて山形と縁が深いと見える。朗らかに美しい花である。和名「末摘花」にはちょっと驚いた。源氏物語の扱いに、ベニバナとしては少々不満もあるだろうか。

  

 http://kobe.travel.coocan.jp/photo/nishiharima/urabe_benibana/benibana_018.jpg

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 漢字の圧縮力とでもいったものを、繰り返し感じている。大和言葉の描写力といっても同じことかもしれないが、ともかく芭蕉は両者を自在に使い分けている。立石寺(りふしゃくじ、いわゆる山寺)の記載に、「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行のみおぼゆ」とある。「佳景寂寞」を角川ソフィア版は「ひっそりと静まりかえった、すばらしい風景」と訳す。その通りだろうが、ここは直後の句の背景であってみれば簡潔圧縮が望ましい。あまりにも有名なこの句である。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 蝉はどんな蝉か? 「セミの種類をめぐって、アブラゼミか、ニイニイゼミか、論争されたことがあった。『しみ入る』にふさわしいのは、ニイニイゼミだそうである。」

 角川ソフィアはさらりと書いているが、これは確か相当な激論があったのだ。それも巨匠・斎藤茂吉が絡んだもので、子息の北杜夫が確か『どくとるまんぼう昆虫記』に書いていたと思う。手許に見当たらないので引用できないが、これが何重にも面白い話である。茂吉は他ならぬ山形県人で地元の人、当然ながら崇敬おくあたわぬ芭蕉の句の考証だから間違うわけにはいかない。しかも茂吉は論戦となったらめったに譲る人ではなかったと北が書く。その茂吉が ~ 僕の記憶違いでなければ ~ ジャージャーとやかましいアブラゼミの方を推したのである。

 北杜夫は相当な昆虫マニアで、旧制松本高校時代に新種を発見したりもしている。おっかない巨岩のような父・茂吉の逸話を書きながら、さぞさまざまな思いがあったことだろう。

 「圧縮力」についてもうひとつ。立石寺を訪れた後、大石田の船着場で最上川下りの舟を待つ間に、地元の俳諧愛好家に請われて連句を一巻作って与えるという場面がある。その仔細を「此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふ」と表現しているのに感じ入った。これは「漢字の」ではない、芭蕉の筆の冴えなのだ。角川ソフィア版は、「新しい句風に進むべきか、古い句風を守るべきか、迷っています」と訳して ~ というより解説している。これまたごもっともであり、翻って「新古ふた道」という表現の鮮やかな切れ味を楽しむのである。

 さて、最上川下りの厳しさを、芭蕉さらりと「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す」と記したうえ、思いついたように「是に稲つみたるをや、いな船といふならし」と付け加えている。ここで菅菰抄の引用するのが次の歌である。

 最上川のぼればくだる稲船のいなにはあらずこの月ばかり (『古今和歌集』東歌)

 芭蕉の念頭にあった句を正確に指摘したということか。「いな」の二文字に「稲」と「否」をかけ、「上納を拒むのではないが、せめてひと月待ってほしい」の意だそうである。古今集も東歌にはこんなのがあるのだね。野の香り、生活の温もりが、俳諧の世界に重なるようである。

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 さてさて今日も不思議な偶然に出あうものだ。エムスリーという会社から毎日送られてくるメディカルクイズ、今日の設問がなんと芭蕉である。

 「松尾芭蕉が東北への旅にでたのが、元禄2年(1689年)3月27日のことでした。 そして東北から北陸をめぐって元禄4年に江戸に帰りました。 その行程は約600里(約2400キロメートル)の長旅でした。 実は、芭蕉は、飯塚温泉で「持病さへおこりて、消入計(きえいるばかり)になん」(『奥の細道』)と持病に苦しんでいることを書いていますが、この持病とは、疝気(腹痛)ともう一つありました。 それは何だったでしょうか。」(日本医史学会理事 青木歳倖先生出題)

【選択肢】 ① 労咳(結核) ② 天然痘 ③ 痔疾 ④ 梅毒 ⑤ 軽い下半身麻痺

 これは間違えないよ、他ではあり得ない。解説は下記。

 ・・・正解は「痔疾」。松尾芭蕉は、門人や知人への手紙でよく「持病下血などたびたび、秋旅、四国・西国もけしらずと、先(まづ)おもひとゞめ候。(元禄3年(1690年)4月10日付如行宛て書翰)」、「さりながら、去年遠路につかれ候間、下血など度々はしり迷惑致候而、遠境羈旅かなわず候間、東之方ちかくへそろそろとたどり申すべきかとも存候。(元禄3年7月17日付け牧童宛書翰)」など、下血よる長旅の苦労を訴えています。これは痔(切れ痔)による出血のことと考えられます。如行(じょこう)とは、近藤如行という美濃出身の芭蕉門人。牧童とは、立花牧童という加賀藩御用研師で芭蕉門人。芭蕉は、奥の細道の長旅で痔疾を悪化させ、西国への長旅はできなくなったのでした。

 【参考文献】 伊藤松宇『奥の細道・その他、芭蕉翁文集』(岩波文庫、2005年)

 何と残念、ぜひ四国路へお越しいただきたかったことである。

Ω


千字文 118 ~ 毛施淑姿 工顰妍笑 / 西施のこと

2016-09-03 13:59:19 | 日記

2016年9月2日(金)

 毛施淑姿/工顰妍笑、ほかでもない、美女の話である。

 毛は毛嬙(モウショウ)、施は西施 (セイシ)、淑姿は読んで字の如くだが、下の句の方は・・・「工顰」は「巧みに眉を顰(ひそ)める」こと、「妍笑」はなまめかしく微笑むこととある。字面を見ていて何となく腑に落ちるのが、ヘブライ文字と違った漢字の親しみというものだ。

 中国で美人というと「楊貴妃」と答えるのが相場になっているが、何しろ3千年だか4千年だかの歴史の長さである。そこから厳選された四大美人というのがあって、時代順に西施が筆頭、後は王昭君・貂蝉 (チョウセン)・楊貴妃と並ぶ。このうち三国志演義などに出てくる貂蝉は架空の人物だが、王昭君と楊貴妃は正史に深く関わる人物だから、脚色はあっても実在性は疑いない。さて、西施はどうなんだろう?

 西施といえば決まって引き合いに出される話を、李注も挙げている。西施は越の女で、端正な美しさは比べるものがなかった。胸の痛みが起きるたびに門のところで胸を抱き、眉を寄せて立っていた。その姿はますますなまめかしく、見ようとするものが 門前にむらがるほどだったという(ヒステリー発作?)。いっぽう隣家に一人の醜い女がいた。西施の真似をして胸が痛いとウソを言い、門によりかかって胸を抱き、眉を寄せて立った。見るものは顔を掩い、唾を吐いたという。ほぼ同様の話が『荘子』天運篇にありと注記。

 「越の女」とあるが、この越は「呉越同舟」の越、つまり呉と激しく争い「臥薪嘗胆」の故事を生んだ春秋五覇の越である。西施自身が呉との争覇戦に深く関わっており、十八史略などの伝えるところはあらまし以下のようであるらしい。(十八史略をちゃんと読んでいないので、「らしい」としか言えない。)

 西施こと施夷光は貧しい薪売りの娘として産まれたが、生来の美貌は隠れもなく、谷川で洗濯している姿を見出されて越宮廷に召された。(川で足を出して洗濯する姿に魚が見とれて泳ぐのを忘れたというので「沈魚美人」の画題にされるが、一節には大根足が欠点であったともいう。)他の美女らと共にみっちりスパイ教育を施されて呉に献上された西施は、みごとに夫差を籠絡・骨抜きにし、その功あってか越が呉を滅ぼし会稽の恥をそそぐことになる。

 その後の西施の生涯に諸説あり、最も人口に膾炙したものは、越王勾践夫人が彼女の美貌を恐れ(あるいは嫉み)、夫が夫差の二の舞にならぬよう西施を生きながら皮袋に入れ、長江に投げ込んだとするものである。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々が「西施の舌」であると噂したことが今に言い習わされているという。異説では、 スパイ作戦の発案者でもあった范蠡に連れられて越を出奔し、無事に余生を送ったともいう。

 范蠡はハンレイと読み、戦前教育で育った世代なら熟知の人物である。後醍醐天皇が隠岐に流されるとき、忠臣・児島高徳(こじま・たかのり)が密かに庭に忍び込み、「天勾践を空しうすることなかれ /時に范蠡なきにしもあらず」と書き置いて去った。意味が分からぬ鎌倉方の中で、帝一人はこれを理解して意を強くしたという。范蠡は忠臣の鏡だが、なかなかの謀略家でもあったわけだ。用済みになった西施のその後を庇護したかどうかで、人となりもずいぶん違った印象を与えそうである。

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 すっかり漢字アタマになって出かけたところ、昼休みに『おくのほそ道』を読んでいて思わず笑いのけぞった。

 「象潟(きさがた)や雨に西施がねぶの花」

 こういう偶然はどうして起きるものだろうか、芭蕉先生が西施を知って引用することに何の不思議もないけれど、僕という地点から見れば人生の他ならぬこの一日に、かつは『千字文』かつは『おくのほそ道』で「西施」の名に触れるということを、どう受けとめたら良いか分からない。

 分からないことだらけだ。

Ω