散日拾遺

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いい感じに年をとる / 目覚めた親爺の独り言

2016-09-05 05:35:14 | 日記

2016年9月4日(日)

 教会というのは面白いところで、「神の家族」ということが時にそらぞらしく聞こえながらも、長い間にはそれがじんわり実感されるということがある。たかだか週に一回、礼拝という形式の中で出会うに過ぎず、さまざまな活動の際に思いがけない深まりがあるとしても、接触している時間は決して長いものではない。そのくせ毎日顔を合わせている職場の同僚などよりは、はるかに深いところでお互いを「知っている」ところがある。そして、温かい言葉をかけてくれたり、びっくりするような直言をくれたりする。

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 礼拝直後に奏楽のSさんに「後奏が可愛い」と御礼を言ったら、ヘンデルのガボットという曲名を示しながら「TVで見ましたよ」と逆に言われた。ジョギングのまね事したり棋譜を並べたりする「研究紹介」番組が、再放送で何日か流れたのである。

 「いい感じに、年取ってますね。」

 「は?」

 「とってもいい感じだと思いますよ。」

 ミスマッチを修正するのに1.7秒ぐらいかかったかな。僕は「年取った」に反応し、彼女のポイントは「いい感じ」あったのだ。Sさんはおべっかという思考回路が先天的に欠落しているらしい人なので、彼女が「いい感じ」といったら「いい感じ」なのである。相当ハイランクの褒め言葉だ。僕といくつも違わないSさんには、自分自身の加齢の自覚も確かにあるのだろう。それを認めることへの抵抗躊躇などは、この人は疾うの昔にあっさり越えている。こんな言葉は他所ではなかなか聞けない。

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 これも辛口では人後に落ちないM長老が、にこにこ笑顔で招き寄せる。おっかなびっくりで近寄ると、「CS通信の原稿ね、とってもいいのをありがとう。」

 ほんとですか、あ~安心した。水曜日の晩に空雑巾しぼるようにして仕上げた小ネタである。今どきの若者は「自己実現」を強いられて大変だ、そのうえ成果を自分でアピールすることを求められ、AO入試なんか頼もしいより痛ましい、あっちからもこっちからも自分の価値を問われ続け、ただでさえ自分をもてあます若者の現代における苦痛はおびただしいものがある、これでは自己愛的にもなるだろうと、そんなことを書き散らしたのだ。

 このところ自己愛ネタに迷入してしまい、こんなんで良いのかと思っていたのだが安心した。M長老は中学校の英語の先生を一筋に続けた方で、若い人々の心と魂の問題には人一倍、関心も憂慮も深い。さぞ注文もあるだろうが、こうして励ましてもらえて本望・・・などと豚は再び木に登ることになる。

 「なんといったかな、そう、アサイリョウだ。アサイリョウという人の『何者』っていう小説が、ちょうどそんなことを扱ってるみたいだよ。芥川賞か何かとったんじゃないの。」

 「読んでみます。」

 詳しいな、正しくは直木賞らしいが、現に流行っているものが読めない僕は認知すらしていなかった。読んでみよう。それにしてもM長老、丸くなったよな。やかましい親爺みたいなこの人の舌鋒のおかげで、僕は何度地団駄踏まされたか分からない。

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 父親は息子に幻想をもつもので、僕の場合にはそれが(主観的には)「反パターナリズム」と「同志の幻想」という形をとった。長男が生まれたその瞬間から、僕は彼を面倒見てやらなければならない弱い存在としてでなく、力を合わせてこの世を生き抜いていく同志のようにイメージしていた。成人後には対等に語らうことをずっと楽しみにし、そのことは長男だけでなく次男・三男についても同じだったのである。

 つい最近ふと気づいたのは(遅いっての!)、こういう「対等の幻想」自体が父親の威圧性と共に彼らに押しつけられるものだったということである。「ありがとうお父さん、僕も思春期になったから、これからは対等の人間として仲良くしようね」なんてほざく息子がいたならば、それこそ悪魔が憑いたに違いない。「対等だか何だか知らないが、ともかく押しつけないで放っといてもらおう」というのが花丸の正解である。

 ようやくそのことに思い至ったので、これからは別の人格として別の人生を歩むことにしようと、さっぱり思い決めた。ただし「父親転移」「息子転移」はこれとは別の問題で、以前から思うようにこれこそ歴史発展の原動力なのである(母親原理は空間を結び、父親原理は時間軸に沿った展開を生み出す・・・石丸史観)。人は人生の中で多くの父親を見いだし、多くの息子をつくり出す。それはDNAを超え、いわば精神の血統をつくり出すのだ。

 同時に思うのは、父親の幻想はいずれ崩れるに決まっているけれど、幻想を抱くこと自体は少しも不毛ではないということだ。父親が何の幻想も抱かないとしたら、息子はろくなものになりはしない。いずれ打ち砕かれることを宿命づけられた必須の器、そうか、卵の殻みたいなものか。

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 これを日曜日に書いていることには意味がある。旧新約聖書の全巻を父と息子の物語として読むというのは、僕の生涯の楽しみである。そこに現れる父の幻想はどんなもので、どんなふうに打ち砕かれてどんな新たな展開を見たのか?神学の話ではない、歴史と心理の話としてだ。さてどうなるのだろう?

 夜になって、地球温暖化がもたらすメガ災害についてTVで見た。今世紀末には、東京・大阪・名古屋などの夏の最高気温が40℃台半ばに達するという。これに連動して積乱雲と雷の規模が桁違いに大きくなり、すさまじい電気の嵐が日常的に人間社会を襲うことになり、風水害についても同じようなことが起きる。とても生き延びられるとは思えず、いったん文明をリセットするしかないようにも思われてくる。

 これすべてプロメテウスの贈り物の必然的な成果であってみれば、「この科学時代に神など不要」とすまし返っていられるものかどうか。文明を捨てることができないなら、人間が変わるほかないのだ。変わるといっても別種に進化するのは僕らの裁量を超えた話で、僕らにできるのはこの年齢に達した自分として、他ならぬ親爺との関係を再検討することに違いない。

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