散日拾遺

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年矢每催 羲暉朗耀 ~ 千字文119

2016-09-10 08:57:02 | 日記

2016年9月10日(土)

 ネンシマイサイ/ギキロウヨウ

 年矢は年月のことで、飛び去る速さを矢にたとえる。「光陰矢のごとし」

 「毎」は「いつも」「つねに」、「催」はここでは「せきたてる」「うながす」の意味だそうだ。他動詞が明示されていないが李注は意を汲み、「矢のように速い時の流れが、人をせきたててすぐに老いさせてしまう」と解説する。

 「羲」は「曦」と書いているものもあり、もともと太陽神の意で太陽に関係した古代の人名に用いられる字とある。漢和辞典には「太陽の御者、日御」などともあり、ギリシア神話のアポロンのイメージに通じて面白い。「義」とは違う字だが通じるところがあり、さらに「義の太陽」などという讃美歌の歌詞に連想が飛ぶ。羲も義も部首は「羊」で、羊がなぜ義の部首(=根拠)になるのだろう?聖書の世界なら贖罪の羊であるキリストが「我らの義」であるのだから、話は明快である。漢字文化ではどんな筋道が立つのだろうか?

 千字文に戻って羲暉の二字は「太陽の光」を指すもの、朗耀は自然な帰結である。全体をどう読む?

 僭越ながら、ことさら「老い」に焦点づけなくても良いのではないだろうか。天空に輝く太陽は一刻も歩みを止めることなく、矢のごとき速さをもって人を常に追い立て駆り立てる、と。「お天道様から矢の催促」・・・う~ん、厳しいな。そういえば、

 『日はまた昇る The sun also rises.』

 also の謎がいっこうに解けないのだった。秋めいてきた陽光を浴びながら、延滞の口実を考えて過ごす土曜午前。

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