散日拾遺

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4月12日 ノーベル、自身に対する評価を知る(1888年)

2024-04-12 03:33:14 | 日記
2024年4月12日(金)

> 1888年4月12日、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルの兄が亡くなり、翌日パリの新聞が訃報を載せた。その際、新聞社が間違え、兄のルードヴィヒではなく、アルフレッドの追悼記事を載せたのだった。その記事で、ノーベルは自分が「人を殺傷する発明品によって莫大な富を築いた死の商人」と言われていることを知った。
 ノーベルにとってこれはショッキングな出来事だった。ダイナマイトは、不安定で爆発しやすいニトログリセリンを安全に使えるように研究したものだ。たとえ武器に利用されることが多かったとしても、岩盤の破砕などにたいへん有用なのも事実だった。
 この記事の七年後の1895年、ノーベルは莫大な遺産の一部をノーベル賞設立に充てることを遺言状に記した。そして翌年、脳溢血でなくなったのだが、遺言と遺産をめぐって親族間で争い事も起きたという。
 最終的に、彼の遺産の一部でノーベル財団が設立され、1901年から毎年彼の亡くなった日、12月10日に賞が授与されている。第一回ノーベル賞は、X線を発見したレントゲン、「赤十字の父」アンリ・デュナンら6人が受賞している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.108


Alfred Bernhard Nobel
1833年10月21日 - 1896年12月10日

 兄が亡くなってからノーベル賞創設に至るまでの経緯を、Wikipediaから転記する。

 1888年4月12日、カンヌを訪れていた兄ルドヴィッグが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり、見出しには「死の商人、死す」とあった。さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれていた。ノーベルにとってダイナマイトが戦争で使われることは想定内であり、むしろ破壊力の大きな兵器は戦争抑止力として働くと予想していたが、実際には高性能爆薬の普及により戦争の激化を招いたことで世間的には「死の商人」というイメージが広まっていた。これらのことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという。
 1895年11月27日、財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てている。これは当時の為替レートで168万7837ポンドに相当する。ノーベルの莫大な遺産の相続をめぐって、兄弟やその子達が当然のようにトラブルを起こしたために指名された相続執行人は苦労した。ノーベル本人は1890年に起こした訴訟の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたために遺書の内容には矛盾点が多く、このことも相続執行人を悩ませた。

 豊かな才能と、数え切れないほどの悩みを道連れにした人生である。貧しい家庭で八人の子どものうち育ったのは四人だけであり、そのうち一人はダイナマイト発明に先立つ1864年の爆発事故で亡くなった。
 生涯に三度、女性に恋し、いずれも痛ましい顛末に終わっている。
 最初はロシア人女性にプロポーズして拒絶された。
 43歳時に結婚相手を見つける目的で女性秘書の募集広告を五カ国語で出し、五カ国語で応募してきたベルタ・キンスキーを候補として採用した。ベルタはオーストリアの伯爵令嬢として生まれたが、父75歳の時の子で、彼女が生まれた年に父が亡くなりその後は苦労した。ノーベルに出会った時には既にアルトゥール・フォン・ズットナーという婚約者があり、ベルタが7歳年上だったことなどからズットナー家には反対されたが、結局この相手と結婚した。歴史上は小説家ベルタ・ズットナー(1843-1914)として知られ、『武器を捨てよ!』と題した作品のある平和主義者で、ノーベル没後の1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞している。平和運動などをめぐって互いの交流は長く続いたが、恋愛関係は当初から実りが期待できなかった。
 ベルタと出会ったのと同じ1876年に当時二十歳のゾフィー・ヘスと出会い、関係が18年間続いて218通の手紙が書かれた。ところが1891年になって、ゾフィーがハンガリー人騎兵将校の子供を宿していることが分かり、当然ながら関係は急速に冷えた。ゾフィーはこの子供の父親と結婚したうえ、ノーベルの死後には218通の手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功し、巨万の富を得た。おかげで手紙はすべて保存され、ノーベル財団により1955年から公開もされているという。ここでも金が動き、恋はまたしてもどこかへ消えた。
 晩年は心臓に持病を抱えていたとあり、医師はニトログリセリンを勧めたというから冠動脈疾患であったらしい。現在でも用いられる強力な冠動脈拡張薬であるが、なぜかノーベルは服用を拒んだ。
 正式な高等教育を受けていないにも関わらず、母語であるスウェーデン語に加え、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語が堪能だった。また少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンとシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、それらのほとんどは晩年に破棄されたという。
 本当は何になり、どんな人生を送りたかったのだろうか。

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