散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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くつろぎの夜

2024-04-03 20:54:48 | 日記
2024年4月3日(水)
 E君夫妻とロシア料理のランチを楽しみ、ウォッカも味見して久しぶりに寛いだ。夜は夜とて、これまで見たことのないジャンルの邦画を部屋の反対側のTVで流していたら、知らない間にPCの音声入力が反応していた。これはどうも御苦労さま。
 さて題名は何でしょう?

どうぞ連れてきたしっかりするよねおいしいどうしてうちの近所でやれたし医者を呼ぼうとしたらどうしてもこれ買って聞かないんだしかし小倉さんから八どうして兄貴残念女ざまで死ぬダイヤだよ死ぬ一夜一夜五光さん今日の体温急ぎしてからこのことみたいによってお前が承認されないって田崎の情けの前まで心臓になってしまったこのままでそれでまたおとなしい人がいるのかがせ皆さんに決まっとるでこれじゃ左絶対このうちから行く組織を出せば済むんだサツに負けないよどう変わってるちきしょー何した邪魔だあんた苦しくないですかこれこの人おれたちの親分だな竹根よまだいい加減にしないと言葉が強い星座俺はこれで失礼させてもらいますどうしたブサンとこれはいたたまなくなっちゃったってどうしてお前だってうすうす感づいていたうちの分野新世界と手を組んでとうの昔奴らの組合も入ったうちのローテーションもみんな加入させたその俺がどうしてあの時にられるの新世界がどういう人間の集まりか半年知ってるしかしながら奴らがやろうとしてること間違いじゃないと思うどういうことなんですそれマーケットと申請カイジャー組合員から改正で金を集めておーきな屋根のバラックを建てようとしてる雨が降っても商売ができる出来ればみんな大喜びで屋根なるマーケットじゃあやるのは新世界じゃんみんなのためになることなんだ俺たちしっかりしてるやあんな連中にごまかされるしねーよでもこれはちょっと仕事させてくれる女でね音だお前は残ってお世話して悪いと思ったけどみんな聞かせてもらいましたよどうしていいか私今日だってあなたは君のためを思って一生懸命やってなるんだよ黙って見てて思いません人それぞれ違った考え方生き方があるんだ朝協賛して暑い的なほうがいいんじゃないですかきょうさんの言うとうりもう露天なんかの時代じゃないのかもしれないな貧しい露天商から絣をとって暮らしてるような敵や家業は足元がしれてるかもしれませんね気になるマーケットかそれができればみんな喜ぶに決まってますよ高津組の事務所ってのはこちらですかそうですよじゃあ吾郎さん帰ってきましたよ本当午後の中にどうぞどうぞごろさん見よ絶対そうだまあ設定と道をって何夢だったのか私は実千代風味をどこにもいないのよ会いたくなく兄弟っぽい顔だねやっと会えたんじゃないかだってぐっどらっくほっといてくれればいいのよ帰る俺と一緒に宇都宮行くんだいやいやほっといて見よ意外と胸のおいしい何ものはいったいここに新しくうちのマーケットを立てることになったのさ急な話で割れが立ち退いてもらうぜなんだってそんな無茶なことがさっぱりができると思ってるのかいこの土地は地主のとがわさんからうちが正式にかけたんだきたね露天の代わりにバリットしたマーケットを出させてもらうよと朝本当かそりゃ中国語処分としなきゃ滞ってる財産税が払えないんですよそんなそんなわけで答えてもらうてめぇ打ち所殴り殺しちゃってまだその猫の真似しようというのかお宅からさんが死んだのかこいつ23からあの男どんな顔して飛んでくるか楽しみだよみんな絶対手出しはいけないぞいいなよし子俺たちの庭で噂ここが昔から香住で知ってるんだこんな僕豊かに商売になりませんさっそく見てもらいましょうかこの土地はうちで買ったんだ扱う法律で許されている法律でも言ってるんじゃないんですよ渡世の仁義ってもあるでしょう筋のとおったテキヤなら人の二番手を付けることはね神祇だのとせいだろって古性兄さんだな今な自由主義の時代なんだぜわたしたちはいずれここにマーケットを建てる計画だがどうしてもここで商売を続けたいなら一口入るなら条件次第のっちゃ話に乗ろうじゃないか冗談タイヤにしろよむすっと当然のめさんたちとテオ個人だと思ってるのか何か老農夫来たら皆さんどうぞ人たちがえこれから話だ安心してお帰りください岩柱の命ここ一本引くわけにいかないんですよ阿修羅の胸に杭を打ってからしてもらえるクイズはよしよしよしお前の方まだ正式にこの土地を買ったわけじゃないらしいね今董其昌で調べさせてもらってきたぜなと技あんたは金に困ってるのはわかるだがこの土地を会社や銀行エウル店ならともかくテキヤに売ったんじゃ話がこじれるばかりですね同じ園子の人間だお前さんもその辺のことはよくわかってるはずじゃないんですか岩佐の敵は敵のしきたり建物があるんだよ御料車いけねーよ年寄りの出るわけじゃないでしょうきっと度が過ぎないねが岩佐のこれ以上つけあがると関東一連の同様相手にすることになるがその覚悟があるんだろうなお互いもう少し仲良くなったらどうなんだこの状態はこれ以上着いたら警察としても黙って見てはいけませんそのとうりこの話は俺が預からせてもらうぜ依存はね五代目この金であの土地を買いな文京俺一人の金じゃねえよここに置いてなさるという名の旦那衆を出し合って下さった足にマーケットを立てるとしてるんですかぜひやってくださいこの時で奴らに負けずにやれるひとあんたしかないんだ私たちも今までは臆病風おかしまったが今度こそどんなことがあっても力にならせてもらえますよいつまでもあんな闇を晒したん作者この成田政治大げさなんだその代わり香住の亀井にかけてやり抜くんだぞ皆さん政治立派に努めさせてもらいます明日のBS 12は7時から日本統一…

答:『昭和残侠伝』(1965年、東映)
Ω

4月3日 博物学者ファーブルへの「感謝の会」開催(1910年)

2024-04-03 20:39:56 | 日記
2024年4月3日(水)

> 1910年4月3日、博物学者ファーブルに対する「感謝の会」が開かれた。出席者は哲学者のベルクソン、数学者のポアンカレ、作家のロスタンやメーテルリンクなど各分野を代表する著名な文化人たちであった。この会は、当時困窮していたファーブルを励まし、その業績を称えるために行われた。
 ジャン・アンリ・ファーブルは貧困のためにほとんど教育を受けられず、苦労して師範免許を取り、教職で妻子を養いながら昆虫の研究を続けていた。しかし、正規の教育を受けていないことから、論文を発表しても学会では冷遇されていた。1879年、生活の糧であった教職を追われ、セリニャンという小さな村で、教科書の執筆などで細々と生計を立てて暮らし始める。ここで、名著『昆虫記』の執筆を開始したのである。
 しかし、出版当初、『昆虫記』はほとんど売れず、はなはだしく生活が困窮し、それを見かねた弟子や同世代の文化人が、「感謝の会」を開いたのだった。
 この会の後、『昆虫記』第十巻の刊行とともにようやくファーブルは世間から注目されるようになり、彼の困窮を知る人々から寄付が送られてくるようになった。しかし、律義なファーブルはそれを受け取らず、すべてを送り返したという。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.99

 Jean-Henri Casimir Fabre
1823年12月21日 - 1915年10月11日


 素晴らしいの一言に尽きる。
 ネット情報を転記しようとしたが、省略できる部分が一行もない。せめて最初の部分だけ。そしてその前に、本邦には何セットかの『昆虫記』の完訳が存在する幸いを確認しておく。
 木づくりの仕事机をこよなく愛用し、机を讃える詩までつくっていること、これほど深く自然と関わりながら、あるいはそのゆえに進化論に与しなかったことなど、その存在そのものが一匹の昆虫のように、ひたむきで精妙で神秘的である。

  

> 1823年12月21日、南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられて大自然に囲まれて育った。7歳の時祖父母のいるマラヴァルから呼び戻され、父母と弟のフレデリックの4人で暮らせる様になり、小学校に入学した。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島、アヴィニョンを経てセリニアン(セリニャン・デュ・コンタ)で暮らし、様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。
 ファーブルが生きていた当時、代表作である「昆虫記」がノーベル文学賞の候補に上がるなど文学者としては評価されていた。その反面、博物学者としての彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。また、古くからの昆虫愛好文化をもつ日本でも読まれ、昆虫学の普及に役立った。
 ファーブルは、ギリシア、ローマ、パレスチナ、サラセンの文化に培われたプロヴァンスの地に生涯を送った…


Ω