散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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坊主が通夜に行くときは

2024-01-04 08:16:07 | 日記
2024年1月3日(水)

 愛媛新聞という地方紙がなかなか面白く、帰省の楽しみになっている。現在連載中の小説は、『家康、江戸を建てる』の門井慶喜氏に依る『ゆうびんの父』、表題が示すとおり前島密の伝記である。

 その295回(2024年1月3日掲載)から:

 「午後七時までに絶対に到着しろって脚夫に言っても、脚夫にすれば、着いても手紙は放りっぱなしだ。そんな時間じゃあ手紙をさらに ー 大阪なら大阪市内のあちこちへ ー 配るのは翌日になっちまいますからね。なら八時でも九時でもおなじじゃないうかって思っちまったら、時間厳守をやる気がなくなる」
 「当日内に配れるだろう」
 「配れませんよ、谷津さん。宛所は夜目じゃわかりません。坊主だって通夜へ行くときは線香のにおいを頼りにするんだ」
 「ふーむ」

 歯切れ良い会話である。
 うろ覚えだが、確か司馬遼太郎が書いていたこと。倒幕後、維新政府は首都を江戸から大阪に移す計画を当初立てていた。旧体制の影響力の強く残る江戸を避け、天皇の在所である京都近くに首都を置くのは自然な発想である。
 ところがある晩、大久保利通邸に投げ文があった。新政府の首都は東京にすべしとそこにある。大阪は確固たる経済の中心地であり、放っておいても繁栄する。いっぽう江戸は政治都市として徳川が築いたものであり、首都が移れば衰退せざるを得ない。そこに生ずる親徳川的な百万の流民は新政府を覆す力になるであろう。依って首都は東京になければならないという。
 一読して意義を悟った大久保が方針を転換し、江戸改め東京が日本の首都と定められたと、だいたいそんな内容だった。
 その投げ文の主が前島密である。天保6(1835)年 〜 大正8(1919)年、越後出身。郵政の父として知られる他、鉄道敷設や新聞、海運事業などの重要性を次々に説き、ロジスティックスの雄とでも評したい見識家である。視覚障害者への教育にも尽力するなど教育にも目を向け、早稲田大学の建学に深く関わって第2代校長を務めた。
 徳川幕府の最末年に「漢字御廃止之議」を将軍慶喜に奉ったことだけは結果から見ていただけないが、これも国民の教育水準を速やかに引き上げたいという実践的な意図の現れであることは疑いない。「公共の利益」という言葉が、この人物においては善なる流れを体現している。

 
 
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1月3日 ジョン万次郎

2024-01-04 07:38:44 | 日記
 晴山陽一『新版 365日物語 上巻: すべての日に歴史あり . Kindle 版』

1月3日 ジョン万次郎が日本に帰るため琉球に上陸する

> 一八五一年(嘉永四年)一月三日、ジョン万次郎は日本に帰国するため、琉球に上陸した。万次郎は十年前、仲間四人とスズキ漁に出て嵐で漂流し、半年間無人島で生き延びた。彼らを救助したのはアメリカの捕鯨船で、以後万次郎はアメリカを拠点として暮らすことになる。漂流した時、万次郎はまだ十四歳の少年だった。
> 捕鯨船の船長ホイットフィールドは機敏で才気のある万次郎をことのほか気に入り、「ジョン・マン」という名を与えてアメリカ本国まで連れ帰った。万次郎は家族として教育を受け、アメリカ社会で生活できる人間に育てられた。
 
 歴史の絶妙なアヤは、万次郎の帰国がペリー来航の直前だったことである。鎖国下では罪人に等しい扱いの「帰国者」が、一転、通訳として重用されることになる。苗字を許された中濱萬次郎、後年咸臨丸の一行に加わって渡米し、恩人ホイットフィールド船長との再会を果たした。
 万次郎の辞書には、たとえば water を「ワタ」と記すなど、理屈にとらわれない実践的な工夫が見られて面白い。
 
 だいぶ前になるが、井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』をたまたま読むことがあり、その痛快な筆致に魅了されて井伏文学への傾倒を深めた。この作品が昭和13(1938)年に第6回直木賞を受賞したことや、それがきっかけで「ジョン万次郎」の呼び名が世に拡がったことなど、すべて後から知った。
 文政10(1827)年生〜明治31(1898)年没。明治3(1870)年頃に軽い脳卒中を患ってからは、社会活動からやや距離を置いて30年近くを過ごしたようである。井伏の上記作品は、この時期のジョン万について「志を養って」暮らしたとさらりと記す。
 「志を養う」という奥深くも力強い表現を、僕はここで学んだ。

 明治13(1880)年頃の写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%B8%87%E6%AC%A1%E9%83%8E

 「明治五年、再び病を発し、以来幽居してもっぱらその志を養った。ただ一つ思い出すに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。」
井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』角川文庫版、P.85

 井伏鱒二の不思議なところは、誰でも書けそうな平易な書き方でありながら、真似しようとしても決してまねできないことである。分かりやすく、美しくてカッコよい。これが昭和10年代、つまり90年近く前に書かれたものである。

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