散日拾遺

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1月12日 レルヒ少佐

2024-01-12 01:07:54 | 日記
 晴山陽一『新版 365日物語 上巻: すべての日に歴史あり . Kindle 版』

1月12日 レルヒ少佐が日本人に初めてスキーを教える
 
> 1911年(明治44年)1月12日、オーストリアの軍人、テオドール・フォン・レルヒが、新潟県上越市高田で日本人に初めてスキーを教えた。
> レルヒ少佐は、日露戦争で勝利した日本の軍隊を視察するためにヨーロッパからやってきた軍人の一人だったが、スキーの達人であったことから、14名のスキー研究員を相手にスキーの指導を行ったのである。
> この軍人向けのスキー講習の後、今度は地元の教職員に対しても指導するなど、レルヒは民間へのスキー普及にも熱意を示した。地元の人たちも、この新しい雪上の乗り物の習得に夢中になり、一か月後には「高田スキー倶楽部」が発足 するほどだった。
> それまでの雪国の生活は、冬の交通はカンジキやコスキ(木鋤)に頼るしかなかったので、スキーによる移動は雪国の生活を一変させる画期的なものだったのだ。

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 『365日物語』、新版で削除された部分にトリビアルな妙味がちょいちょい含まれているようである。
 レルヒはオーストリア人つまりドイツ語話者でありながら、面白いことに最初のスキー指導は「スキーを履きなさい!」というフランス語の号令で始まったとある。「通訳の大尉がたまたまフランス語が堪能だったから」というのだが、これはよくわからない話である。レルヒがドイツ語で「スキーを履け!」と言ったのなら、通訳は日本語でそのように号令すればよかったはずで、それをわざわざフランス語で叫んだとしたら、動揺していたのか、それほどフランス語を使いたかったのか、どうも話がよく見えない。
 スキーとの出会いは「雪国の生活を一変させる画期的なものだった」というけれど、その後この地域の人々がカンジキやコスキに代えてスキーを使うようになったのかどうか。そこは置くとして、新しいものに対する人々の好奇心と習得の速さは、戦国末期のカトリックの宣教師たちの観察を裏書きするようで微笑ましい。
 もう一つ、レルヒは日本の軍事事情の視察に来たのだから、請われたところでスキーを教える義理も責務もなかったのだが、その彼がボランタリーに指導する熱心にも興味を覚える。価値あるものを人に伝えたいと願うのは、普遍的な人の欲動であるらしい。秘伝を独占して囲い込もうとするみみっちい根性も人の性であるものの、これと拮抗する「広める欲動」はより強くやみがたいもののように思われる。同種の熱心は、明治維新以来の日本の近代化を指導した「お雇い外国人」の中に見ることができるもので、その系列の末尾にこの件を置いてみるのも一興かもしれない。
 もっとも、レルヒは単なるスキー愛好家ではなく、ヨーロッパの山岳戦における有力な技術として、スキーを軍事に導入しようとしていた。一方、日本陸軍では1902(明治35)年の八甲田山における雪中行軍遭難事件の経験もあり、その意味でスキー技術に着目するところがあったらしい。双方の思惑がかみ合っていたのではあろう。
  面白いのはレルヒの伝えたスキー術が一本杖のものだったことで、レルヒ自身は一本杖、二本杖いずれも会得していたが、雪質が重く斜面の急な高田の地形から一本杖を選択したのだという。1923年開催の第一回全日本スキー選手権では二本杖のノルウェー式が圧勝し、一本杖は急速に衰退したと Wikipedia の解説にある。

1911(明治44)年1月12日

 テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch)は1869年に現スロバキア首都であるブラチスラヴァで生まれ、父に倣って軍人の道を選び順調に頭角を現していった。日露戦争後にわざわざ視察のため来日したのは、いずれ対露戦が不可避との見通しがあったからだろう。
 果たして帰国後間もなく勃発した第一次世界大戦では第17軍参謀長に任ぜられ、対露戦線をはじめとして各地を転戦したが、西部戦線での負傷により退役を余儀なくされた。その後は講演活動を中心とした生活を送ったという。戦間期から第二次世界大戦までを生き延び、1945年12月24日、連合軍による軍政下のウィーンで糖尿病のため死去。
 上越市高田の金谷山に日本スキー発祥記念館が設置され、毎年二月上旬には「レルヒ祭」が開かれて、レルヒ少佐の業績を今に伝えている。

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