散日拾遺

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1月16日 イヴァン雷帝 / GDP4位転落

2024-01-15 22:50:49 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.21

1月16日 イヴァン四世が初めてツァーリとして戴冠する

 イヴァン4世(Иван IV Васильевич、1530-1584)
 モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный)の異称でも知られる。

 そのイヴァンが弱冠十六歳でツァーリとなったのが1547年1月16日である。
 ツァーリとしての戴冠は歴史上彼が最初だという。どんなことにも最初の一人はあるものだが、ロシア史には、のっけからたいへんな一人が出てきたものだ。この人物の生涯からはひたすら目を背けたいばかりで、だからこそ知っておくべきなのだろう。スターリンに(促進的な)影響を与えたと聞くだけで、吐き気と絶望感は限界値に跳ねあがる。プーチンはピョートル大帝に自分を重ねたがっているというが、どうかそこまでにして、「イヴァン雷帝に」とならないよう願う。

> イヴァンは三歳の時に父(ヴァシーリー三世)が亡くなり、七歳の時には母もなくしている。その後は、側近の貴族たちの訓育を受けたが、幼い時から血なまぐさい政争を目の当たりにして育ち、自分を「あやつり人形」にしようとする側近たちに対する不信感を募らせていった。 同時にローマ帝国やヴィザンティン帝国から受け継がれてきた帝王学について学び、 次第に「ツァーリ」としての自覚に目覚めていく。

 保護者たるべき父も母も喪った子どもが百鬼夜行の宮廷で生き延びられたのは、君主の無力に利益を見出す廷臣や貴族の打算の産物に違いない。その現実にもまれながら成長し、思春期に至って「自覚に目覚めた」少年ツァーリがその後の歴史にどんな爪痕を残すか予見できたとしたら、彼らはどうしただろうか。

> 十代半ばには大人顔負けの体格に成長し、粗暴な行動が多く、 次第に側近たちの手に負えなくなる。十五歳の時に、口の利き方が無礼であるという理由だけで廷臣の舌を切らせるなど、後年の恐怖政治の片鱗がこの頃からすでに見え始めている。後に「雷帝」と呼ばれるようになったのは、彼が行った恐怖政治のために付けられたあだ名であった。

 解説はその通りだが、「雷帝」の翻訳に少々からんでみたい。雷はおそろしいものだが、「稲妻」の語に示されるように日本人にとっては「降雨 ‐ 実り ‐ 豊穣」といった生命力の連鎖の起点となるものでもある。一方「雷帝」と訳される原語のГрозный について、Wikipedia に下記の注記がある。

 ロシア語における渾名「グローズヌイ(Гро́зный)」は、本来「峻厳な」「恐怖を与える」、「脅すような」といった意味の形容詞で、この単語自体に雷の意味はない。元となった名詞に「雷雨」ないし「ひどく厳格な人」という意味の「グロザー(Гроза́)」があり、この単語との連関から畏怖を込めて雷帝と和訳されたといわれる。英語ではIvan the Terribleと呼ばれる。

 雷は「畏怖」の象徴であり、「畏怖」とは畏敬の念をともなった、あるいは大いなる畏敬ゆえの怖れである。「雷親父」とか、上位者に「雷を落とされた」とかの表現には、厳父や目上に対する怖れとともに親しみの感覚が伴っていた。敬意と甘えを含んだ、懐かしい怖さである。
 Terrible に畏敬の意味合いはなく、Гро́зный も同様だとしたら、これはあくまで「暴君」であり「災帝」であって(こんな言葉は辞書にはないが)、「雷帝」とは訳せない。イヴァンのとりわけ後半の治世は、到底そんなものではなかったようである。

> イヴァン4世は織田信長の同時代人で…
  • イヴァン4世 (1530-1584)
  • 織田信長    (1534-1582)
 なるほどよく一致しているが、仮に生没年の近似だけでなく「破壊」「虐殺」の連想から両者を並べようとするなら、少々見当違いということになるだろう。
 信長はずいぶんたくさん人を殺したし、明らかに殺し過ぎていると思うが、彼の殺戮は常に目的をもった意志的なものだった。激情に駆られ我を失っての私的な殺人は驚くほど少なく、ひょっとしたら一つもないかもしれない。その点が秀吉と、そしてイヴァン4世との明らかな違いである。
 ノヴゴロドの虐殺(1570年)と比叡山焼き討ち(1571年)は異質のものとせねばならない。

***

 歴史上の「今日この日」と、いま現在の「今日この日」を併記してみることとして、さっそく今朝の新聞紙面から:
 
2016年1月16日(火)
「GDP 日本4位転落確実 独が伸長、円安も影響」
 
 「まだ3位だったのか」というのが正直な感想だし、「名目GDP」といった便宜的な数字が4位だろうが40位だろうが、それで誇りを傷つけられり、不安に慄いたりといった懸念は、個人的には少しももたない。
 それよりも歯がゆく悔しいのは、将来に向けての確かな備えを為しえていないことである。「三年先のための稽古をせよ」と相撲でいう、そのように三世代先を今よりも豊かで幸せにするための、社会的な方向性が見えないことだ。それどころか、目先の問題を手っ取り早く解消するために、より大きな問題を後の世代に丸投げすることばかりを報道が伝えてくる。赤字国債の乱発はその典型であり象徴でもある。
 
> 「3位か4位かはドイツにとって何の意味もない。今の危機的な状況を解決しなくてはならない」。独キール世界経済研究所のシュテファン・コーツ部長はそう話す。
「リストラに走った日本のツケ、成長できず ドイツとGDP逆転のわけ」
朝日新聞デジタル 2024年1月15日より

 日本にとってもまったく同じことだが、具体的に何が危機か?
 関連紙面は「物価が高い」「人手が足りない」「外国人が増えた」「不祥事が止まらない」などと列挙するが、このうち「不祥事」だけが性質を異にしている。前三者は経済的・社会的事象でありいわば人心の外部の出来事であるのに対して、あらゆる方面で続発する各種の不祥事は人の内面に深く根差すことであり、すべての基である「人」という資源の劣化に関わる問題だからだ。ここに最大の危機がある。
 すべてのおとなに責任のあることであり、とりわけ指導的な立場にある人々の罪は大きい。

Ω

1月15日 ジョリオ=キュリー夫妻

2024-01-15 10:24:53 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)

1月15日 ジョリオ=キュリー夫妻が人工放射能を発見する

 1934年1月15日、フランスの原子物理学者ジョリオ=キュリー夫妻は、放射性元素ポロニウムから出るアルファ線をアルミニウム箔、ホウ素、マグネシウムなどに照射すると、線源であるポロニウムを遠ざけた後も放射線の放出が続いていることを発見した。物質にアルファ線を当てることにより、その物質を人工的に放射性同位元素に変え得ることを発見したのである。
 ジョリオ=キュリー夫妻は、ラジウムとポロニウムの発見者であるピエール・キュリーとマリー・キュリーの娘(イレーヌ)夫婦 で ある。初めて人工放射能を取り出す実験を行った時、母 マリー・キュリーもその場に立ち会ったという。ジョリオ=キュリー夫妻はこの実験結果を短い論文にまとめ、2月10日に「ネイチャー」誌に発表した。この発見により、二人は翌年ノーベル化学賞を受賞する。
 母マリー・キュリーも放射能による障害で亡くなったが、この二人もまた五十 代半ばで放射能によって健康を害して亡くなっている。
前掲書P.20

 「ジョリオ=キュリー夫妻」という表現について、初めは読み違えていた。夫であるフレデリック・ジョリオはマリー・キュリーの助手として働いていた。イレーネと結婚するにあたり、双方の姓をとって「ジョリオ=キュリー」と改姓したのである(!)
 放射能の発見が1934年、原子爆弾の投下が1945年、一昨日ファルマンの項で飛行機について見たよりも、さらに深刻な驚きであり衝撃である。この物差しをもって2024年の現実を測るとしたら、われわれに残されている時間は文字通り分秒の隙間しかない。

***

 Irene は「イレーネ」ではなく「イレーヌ」と表記すべきか。まさに一心同体の歩みであれば夫婦のどちらから描いてもよく、できれば双方から描き比べてみたい。やってみようとしたが、イレーヌ・ジョリオ=キュリーの情報が詳しすぎて手に負えない。単にその理由で、ここには主に夫側の視点から転記しておく。
 いずれも例によって Wikipedia 頼み。夫フレデリックの死因が二つの記事で不一致をきたしている。いずれ確認してみたいが、直接の事情がどうであれ放射線障害が「原因」であることは疑いない。
 一方では、フランスという国がなぜ原子力利用に傾斜するのか、一つの説明を得たような気がする。

 ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie、1900 - 1958)、フランスの原子物理学者。妻はイレーヌ・ジョリオ=キュリー。義母はマリ・キュリー、義父はピエール・キュリー。
 1934年に妻イレーヌと共に、アルミニウムへアルファ線を照射することによって世界初の人工放射性同位元素である30Pの合成に成功し、それにより1935年に夫婦でノーベル化学賞を受賞した。
 1936年9月、のちにフランス柔道、最初の柔道有段者となるイギリス国籍の物理学者モーシェ・フェルデンクライスが設立したフランス柔術クラブの名誉会長となる。名誉会長には他に柔道創始者の嘉納治五郎も就いていた。
 第二次世界大戦時はレジスタンス運動に参加、戦後はフランス国立科学研究センター総裁に就任すると共にフランス原子力庁長官となり、コレージュ・ド・フランスの教授も務めた。1947年には、フランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功。1956年にイレーヌが亡くなると、彼女のパリ大学教授の職も兼任した。
 パグウォッシュ会議の設立にも尽力し、創設メンバーの一人でもある。1951年から1958年にかけて世界平和評議会の初代議長を務めた。フランス共産党の党員でもあった。日本初の女性物理学者湯浅年子が、師事していたことがある。
 1958年に白血病で死去。妻イレーヌの死から2年後のことだった。

 イレーヌ・ジョリオ=キュリー(Irene Joliot-Curie、1897 - 1956)、フランスの原子物理学者。父はピエール・キュリー、母はマリー・キュリー。
 パリに生まれ、パリ大学でポロニウムのアルファ線に関する研究で学位を取得。1926年、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚。1934年に30Pを合成し、1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。
(中略)
 1955年、イレーヌはフレデリックとの共同論文を書いた後、年末にクールシュヴェルへ出かけた。クールシュヴェルでは娘のエレーヌとその夫、息子のピエールらと過ごしたが、やがて体調が悪くなり、自宅のあるアントニーに戻り、そのままラジウム研究所近くのキュリー病院に入院した。イレーヌは急性白血病と診断された。
 入院後、イレーヌは徐々に衰弱していった。また夫のフレデリックもこのとき体調が悪化しており、病院に見舞いに来ても、長い時間とどまることはできなかった。
 イレーヌは病院で古くからの友人に、「死ぬことは怖くないわ。こんなに夢中で送った人生だもの!」と言った。そして1956年3月17日、白血病により58歳の生涯を終えた。イレーヌは国葬により葬られた。また、イレーヌの死の2年後には、フレデリックも肝臓病により死亡した。

    

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