2014年3月29日(土)
プロ野球開幕。
スワローズ快勝!みんな聞いてるかい?
名手・宮本の後継遊撃手として、守備を買われて8番に起用されたルーキー西浦。
一回一死、一、三塁のチャンスで初球を左中間へ本塁打。試合を決める一打になった。
プロ初打席でいきなり本塁打は史上55人目だが、これを開幕試合で達成したのは史上2人目で、セリーグでは初。初球での達成はプロ野球史上初だってさ。(開幕試合に限らなければ、プロ初打席初球本塁打は8人目だって。頭がこんがらがるね。)
西浦直享(にしうら・なおみち)、奈良県出身。天理高校では1年の秋から控え内野手としてベンチ入り、3年の春・夏と甲子園出場。法政大学では1年の春からベンチ入りし、4年春の六大学リーグでベストナインに選ばれている。昨秋のドラフトでスワローズ2位指名。
堅実な守備が売り物の選手だが、プロに入ってから打撃が進歩する選手はたくさんいる。それに西浦のお手本は宮本慎也、「2千本安打達成者の中で最も本塁打の少ない選手」なんだからね。
こいつは春から縁起がいいや、スワローズ戦の楽しみができました!
***
「あんた誰だ?このお寺には女中さんなんかいなかったはずだぁ」
相手は目を丸くした。
「じ、女中って」
何を驚いてンだ。簑吉はつい笑った。
「だってあんた女だろが。どこのもんだぁ。和尚様のお世話をしてたのかぁ?」
「おれが女だと、なぜわかる」
しつこいなあ。
「男みたいな格好してるけどさ、匂いが女だ」
・・・恐れ入りました、宮部先生。
***
原子力のエンジニアにとって、放射能が環境に大量に放出されてしまうような炉心溶解事故は、100万年に1回以下の発生頻度となるように対策を取るべきであることが常識となっている。津波を考えるうえでも、当然「100万年に1回の津波とはどんなものか」と考えるべきだった。
ところが、福島第一は1966年に設置許可を国に申請した際、60年のチリ地震津波を「最大」として設計の条件にした。
提出した方も提出した方だと思うが、よくこの申請が通ったと今でも恥ずかしくなる。当時としては、それが技術の知見の最善だったのかもしれないが、そういう想定の甘さがあって全電源喪失になったのが問題だったと思う。
70年に運転を始めた後、奥尻島の津波(93年)、スマトラの津波(2004年)があった。神様はチャンスをくれた。勉強して改めるチャンスをくれた。いきなり3・11になったわけではなかった。そんな気がする。
それなのに、スマトラの津波を見た後にも、福島沖の日本海溝では津波が起こらないという信念を、なぜ持ち続けることができたのか。自然現象に対する謙虚さ、原子力安全に対する謙虚さというものが足りなかったと思っている。
東京電力常務、姉川尚史(あねがわ・たかふみ)さんへのインタビューから。
姉川氏は僕と同い年だ。
プロ野球開幕。
スワローズ快勝!みんな聞いてるかい?
名手・宮本の後継遊撃手として、守備を買われて8番に起用されたルーキー西浦。
一回一死、一、三塁のチャンスで初球を左中間へ本塁打。試合を決める一打になった。
プロ初打席でいきなり本塁打は史上55人目だが、これを開幕試合で達成したのは史上2人目で、セリーグでは初。初球での達成はプロ野球史上初だってさ。(開幕試合に限らなければ、プロ初打席初球本塁打は8人目だって。頭がこんがらがるね。)
西浦直享(にしうら・なおみち)、奈良県出身。天理高校では1年の秋から控え内野手としてベンチ入り、3年の春・夏と甲子園出場。法政大学では1年の春からベンチ入りし、4年春の六大学リーグでベストナインに選ばれている。昨秋のドラフトでスワローズ2位指名。
堅実な守備が売り物の選手だが、プロに入ってから打撃が進歩する選手はたくさんいる。それに西浦のお手本は宮本慎也、「2千本安打達成者の中で最も本塁打の少ない選手」なんだからね。
こいつは春から縁起がいいや、スワローズ戦の楽しみができました!
***
「あんた誰だ?このお寺には女中さんなんかいなかったはずだぁ」
相手は目を丸くした。
「じ、女中って」
何を驚いてンだ。簑吉はつい笑った。
「だってあんた女だろが。どこのもんだぁ。和尚様のお世話をしてたのかぁ?」
「おれが女だと、なぜわかる」
しつこいなあ。
「男みたいな格好してるけどさ、匂いが女だ」
『荒神』372
・・・恐れ入りました、宮部先生。
***
原子力のエンジニアにとって、放射能が環境に大量に放出されてしまうような炉心溶解事故は、100万年に1回以下の発生頻度となるように対策を取るべきであることが常識となっている。津波を考えるうえでも、当然「100万年に1回の津波とはどんなものか」と考えるべきだった。
ところが、福島第一は1966年に設置許可を国に申請した際、60年のチリ地震津波を「最大」として設計の条件にした。
提出した方も提出した方だと思うが、よくこの申請が通ったと今でも恥ずかしくなる。当時としては、それが技術の知見の最善だったのかもしれないが、そういう想定の甘さがあって全電源喪失になったのが問題だったと思う。
70年に運転を始めた後、奥尻島の津波(93年)、スマトラの津波(2004年)があった。神様はチャンスをくれた。勉強して改めるチャンスをくれた。いきなり3・11になったわけではなかった。そんな気がする。
それなのに、スマトラの津波を見た後にも、福島沖の日本海溝では津波が起こらないという信念を、なぜ持ち続けることができたのか。自然現象に対する謙虚さ、原子力安全に対する謙虚さというものが足りなかったと思っている。
東京電力常務、姉川尚史(あねがわ・たかふみ)さんへのインタビューから。
姉川氏は僕と同い年だ。