2014年3月15日(土)
朝刊一面:
STAP細胞 証明できず(理研中間報告)
万能性の根拠、別画像
「極めてずさん、あってはならないこと」
「完全に不適切、論文としての体をなさない」
・・・そうだったの?ほんとに?
心から「頑張れ」と書いたのだけれど、もし新聞の伝えることが事実だとしたら、実に暗澹たる思いである。
僕自身、30代の大半を実験系の研究者として過ごし、生き馬の目を抜くアメリカの研究最前線も経験してきた。コスメティックな手入れは誰でもすることだし、形態学の領域でもデジタル化の進行につれて、かなりきわどい手口が横行するようになってきた。大量のデータを整理運用していると、思わぬ錯誤や勘違いが生じることもある。外界と遮断された状態で、強く思い詰めながら大魚を追い続ける人間が、心理的な視野狭窄に陥ることは常態とすらいえる。
しかしメディアの伝えるところは、そうした了解の限度を超えているようだ。
残念でならないが、まだ中間報告なんだね。最終的な総括を今は待とう。
***
ブログで取り上げた『生物と無生物の間』の著者、福岡伸一氏のコメントから:
「STAP細胞の実在性に著者らが信念をもっているのであれば、論文を撤回するのではなく、訂正や続報で対応すべきだ。撤回すれば、故意のデータ操作や捏造などの不正があったと世界はみなすだろう。」(朝日新聞・1面)
その通りだよ。だから「頑張れ」と言うのだ。
「故意のデータ操作や捏造」つまり「ウソ」について、Nature の発行元である英国人は日本人と比較にならないほど厳しい。プロヒューモ事件という有名なスキャンダルに際して、陸軍大臣が売春婦と関係した事実以上に、潔白であるとのウソの証言をしたことに対して国中が怒った、それがアングロサクソンの道徳感覚であり、この領域のグローバル・スタンダードでもある。
撤回したら負けだし、撤回せねばならない経緯があるようなら、当事者は研究を続ける資格がない。そうでないことを切に祈る。「日本人研究者」というレッテルの価値にも関わることだしね。
***
性急な成果主義の強大な圧力が存在することは、この件の背景として見逃せない。成果を出し、資金を得ることができなければ、研究の継続自体が危機に瀕する。巨額の資金が日常的に必要とされる生命科学研究では、殊に切実・深刻な事情もある。研究者は皆一刻を争い、拙速を辞さないようになる。まるでラッシュ時の駆け込み乗車だ。
それでも、だ。ラッシュ時にもして良いことと悪いことがあるように、どれほど厳しい業界でも守らねばならないルールがある。特に教わらなくても、社会常識があれば容易に自得されるはずのルールである。
「ならぬことは、ならぬのです。」
『八重の桜』の、このフレーズこそ流行語大賞になってほしかった。
もうひとつ、プレッシャーをかけているのは業界内部の成果主義だけではない。世間一般が華々しい成果を喜び、目に見えて活躍する者ばかりを偏って賞賛する悪癖に染まっている。良い例がソチ五輪だ。浅田真央も高梨沙羅もその被害者だったと僕は思う。
どうしてもっと鷹揚に、プロセスを一緒に楽しむ姿勢をとれないのだろう?
*****
○ 諸姑伯叔 猶子比兒(ショコハクシュク ユウシヒジ)
あんまり、カナを記す意味がないね、今日は。
「姑(コ)」は「しゅうとめ」ではなく、「おば」の意味なんだと。
「伯」はむろん「おじ」だが、元来「父の兄」を意味する。いっぽう「叔」は「父の弟」だ。岩波文庫の注記者は「叔」を「をとをぢ(「をと」は年少の意)」と説明している。
これは標準的に知っておきたい。患者さんの家族歴を記述する際にも、「伯父」は父母の兄、「叔父」は弟を意味するとの約束をしっかり共有しておけば、記載の手間が大いに省ける。どちらか判断できる情報がない時は、「おじ」とカナ書きすればよい。「伯母」「叔母」も同様だ。
猶子(ユウシ)は「おい・めい」の意味。「比」は「比べる・なぞらえる。あわせて、
「多くのおじ・おばがおり、おい・めいを自分の子と同じように扱う」
ということだそうだ。
僕もおじ・おばには大いに世話になった。親に似たものをもちながら、親ではない大人たちの存在は、人の成長にかけがえのない働きをする。少子化時代の難しさのひとつがそこにある。
大人たちが血縁に関わりなく「おじ・おば」の役割を果たすのでないと、子どもの日常は寒々としたものになるだろう。
朝刊一面:
STAP細胞 証明できず(理研中間報告)
万能性の根拠、別画像
「極めてずさん、あってはならないこと」
「完全に不適切、論文としての体をなさない」
・・・そうだったの?ほんとに?
心から「頑張れ」と書いたのだけれど、もし新聞の伝えることが事実だとしたら、実に暗澹たる思いである。
僕自身、30代の大半を実験系の研究者として過ごし、生き馬の目を抜くアメリカの研究最前線も経験してきた。コスメティックな手入れは誰でもすることだし、形態学の領域でもデジタル化の進行につれて、かなりきわどい手口が横行するようになってきた。大量のデータを整理運用していると、思わぬ錯誤や勘違いが生じることもある。外界と遮断された状態で、強く思い詰めながら大魚を追い続ける人間が、心理的な視野狭窄に陥ることは常態とすらいえる。
しかしメディアの伝えるところは、そうした了解の限度を超えているようだ。
残念でならないが、まだ中間報告なんだね。最終的な総括を今は待とう。
***
ブログで取り上げた『生物と無生物の間』の著者、福岡伸一氏のコメントから:
「STAP細胞の実在性に著者らが信念をもっているのであれば、論文を撤回するのではなく、訂正や続報で対応すべきだ。撤回すれば、故意のデータ操作や捏造などの不正があったと世界はみなすだろう。」(朝日新聞・1面)
その通りだよ。だから「頑張れ」と言うのだ。
「故意のデータ操作や捏造」つまり「ウソ」について、Nature の発行元である英国人は日本人と比較にならないほど厳しい。プロヒューモ事件という有名なスキャンダルに際して、陸軍大臣が売春婦と関係した事実以上に、潔白であるとのウソの証言をしたことに対して国中が怒った、それがアングロサクソンの道徳感覚であり、この領域のグローバル・スタンダードでもある。
撤回したら負けだし、撤回せねばならない経緯があるようなら、当事者は研究を続ける資格がない。そうでないことを切に祈る。「日本人研究者」というレッテルの価値にも関わることだしね。
***
性急な成果主義の強大な圧力が存在することは、この件の背景として見逃せない。成果を出し、資金を得ることができなければ、研究の継続自体が危機に瀕する。巨額の資金が日常的に必要とされる生命科学研究では、殊に切実・深刻な事情もある。研究者は皆一刻を争い、拙速を辞さないようになる。まるでラッシュ時の駆け込み乗車だ。
それでも、だ。ラッシュ時にもして良いことと悪いことがあるように、どれほど厳しい業界でも守らねばならないルールがある。特に教わらなくても、社会常識があれば容易に自得されるはずのルールである。
「ならぬことは、ならぬのです。」
『八重の桜』の、このフレーズこそ流行語大賞になってほしかった。
もうひとつ、プレッシャーをかけているのは業界内部の成果主義だけではない。世間一般が華々しい成果を喜び、目に見えて活躍する者ばかりを偏って賞賛する悪癖に染まっている。良い例がソチ五輪だ。浅田真央も高梨沙羅もその被害者だったと僕は思う。
どうしてもっと鷹揚に、プロセスを一緒に楽しむ姿勢をとれないのだろう?
*****
○ 諸姑伯叔 猶子比兒(ショコハクシュク ユウシヒジ)
あんまり、カナを記す意味がないね、今日は。
「姑(コ)」は「しゅうとめ」ではなく、「おば」の意味なんだと。
「伯」はむろん「おじ」だが、元来「父の兄」を意味する。いっぽう「叔」は「父の弟」だ。岩波文庫の注記者は「叔」を「をとをぢ(「をと」は年少の意)」と説明している。
これは標準的に知っておきたい。患者さんの家族歴を記述する際にも、「伯父」は父母の兄、「叔父」は弟を意味するとの約束をしっかり共有しておけば、記載の手間が大いに省ける。どちらか判断できる情報がない時は、「おじ」とカナ書きすればよい。「伯母」「叔母」も同様だ。
猶子(ユウシ)は「おい・めい」の意味。「比」は「比べる・なぞらえる。あわせて、
「多くのおじ・おばがおり、おい・めいを自分の子と同じように扱う」
ということだそうだ。
僕もおじ・おばには大いに世話になった。親に似たものをもちながら、親ではない大人たちの存在は、人の成長にかけがえのない働きをする。少子化時代の難しさのひとつがそこにある。
大人たちが血縁に関わりなく「おじ・おば」の役割を果たすのでないと、子どもの日常は寒々としたものになるだろう。