2013年8月1日(木)
御茶ノ水に出たついでに、標記のものを買ってきた。
三省堂にはなく、岩波BCで見つける。
『茶話指月集』は短いもので、上下に付録をあわせ、粗い行間隔で80ページほどである。
「朝顔」の話は上の中ほどに、すぐに見つかった。
宗易、庭に牽牛(あさがお)の花みごとにさきたるよし、太閤へ申し上ぐる人あり。さらば御覧ぜんとて、朝の茶湯に渡御ありしに、朝がお庭に一枝もなし。尤も無興におぼしめす。さて小座敷に御入りあれば、色あざやかなる一輪床にいけたり。太閤をはじめ、召しつれられし人々、目さむる心ちし給い、はなはだ御褒美にあずかる。是を世に、利休があさがおの茶湯と申し伝う。
解説がついている。
かように咲きたる花を皆はらい捨て、一輪床にいけて、人をおもしろがらするは、休が本意にあらず、いかが、という説あれども、朝がおを興にて茶湯つこうまつれ、と仰せらるるうえは、一輪床にいけたるが、休が物すきのすぐれたる所なり。その後、遠州公のころより、露地に花をうえられず。是も茶湯の花を一段賞翫の義なり。
※ 中国では、アサガオのことを牽牛(けんご)、その種子を牽牛子(けんごし)といったそうな。
※ 遠州公とは、小堀遠州(1579―1647)。江戸幕府重臣で茶道においては古田織部に師事し、三代将軍家光の茶の湯師範にあたったとある。
*****
『山上宗二記』
こちらは、すぐに読むという気にはならない。
野上弥生子が以下のように記している。
茶事の興味、関心は、どんな名物が飾られ、用いられるかにあったとはいえ、宗二は桁がはずれていた。世にきこえた名物に対する彼の傾倒は、ほとんど渇仰に近かった。なにか恋をする若人たちが、愛しいひとの姿を追い求めるように、名物という名物を見るためには、いかなる機会も遁がすまいとしてのみでなく、見たほどのものを彼らしく筆まめに記録した。
その「記録」が『山上宗二記』ということだ。
いま僕が読んでも何もわかるまいが、その記録に対する熱意を感じとるだけでとりあえず満腹だ。
利休の弟子であった山上宗二は、秀吉の勘気を被って無残な死を遂げた。
利休自身の殉難を予告するものとして、利休伝を語るにあたり決して省略できない人物である。
御茶ノ水に出たついでに、標記のものを買ってきた。
三省堂にはなく、岩波BCで見つける。
『茶話指月集』は短いもので、上下に付録をあわせ、粗い行間隔で80ページほどである。
「朝顔」の話は上の中ほどに、すぐに見つかった。
宗易、庭に牽牛(あさがお)の花みごとにさきたるよし、太閤へ申し上ぐる人あり。さらば御覧ぜんとて、朝の茶湯に渡御ありしに、朝がお庭に一枝もなし。尤も無興におぼしめす。さて小座敷に御入りあれば、色あざやかなる一輪床にいけたり。太閤をはじめ、召しつれられし人々、目さむる心ちし給い、はなはだ御褒美にあずかる。是を世に、利休があさがおの茶湯と申し伝う。
解説がついている。
かように咲きたる花を皆はらい捨て、一輪床にいけて、人をおもしろがらするは、休が本意にあらず、いかが、という説あれども、朝がおを興にて茶湯つこうまつれ、と仰せらるるうえは、一輪床にいけたるが、休が物すきのすぐれたる所なり。その後、遠州公のころより、露地に花をうえられず。是も茶湯の花を一段賞翫の義なり。
※ 中国では、アサガオのことを牽牛(けんご)、その種子を牽牛子(けんごし)といったそうな。
※ 遠州公とは、小堀遠州(1579―1647)。江戸幕府重臣で茶道においては古田織部に師事し、三代将軍家光の茶の湯師範にあたったとある。
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『山上宗二記』
こちらは、すぐに読むという気にはならない。
野上弥生子が以下のように記している。
茶事の興味、関心は、どんな名物が飾られ、用いられるかにあったとはいえ、宗二は桁がはずれていた。世にきこえた名物に対する彼の傾倒は、ほとんど渇仰に近かった。なにか恋をする若人たちが、愛しいひとの姿を追い求めるように、名物という名物を見るためには、いかなる機会も遁がすまいとしてのみでなく、見たほどのものを彼らしく筆まめに記録した。
その「記録」が『山上宗二記』ということだ。
いま僕が読んでも何もわかるまいが、その記録に対する熱意を感じとるだけでとりあえず満腹だ。
利休の弟子であった山上宗二は、秀吉の勘気を被って無残な死を遂げた。
利休自身の殉難を予告するものとして、利休伝を語るにあたり決して省略できない人物である。